何も魔力を感じない。
「ケイさま、お待ちしておりました」
ヴィーネリント小教区に着くと、顔見知りの司教が出迎えてくれた。にこやかな表情は、いつもと変わらない。
「師匠、いや、ミーネさまは、もうハーデブルクに向かわれましたか?」
ケイが尋ねると、司教はかぶりを振った。
「いえ、ミーネさまは、こちらには立ち寄られていません。恐らく、直接、ハーデブルクに向かわれたのだと……」
「そうですか……」
警戒心の強いミーネのことだ。恐らく、勇者パーティーとの遭遇を危惧して、ヴィーネリントには、立ち寄らなかったのだろう。
勇者パーティーが、竜化した赤帽子に気付かないまま戦闘をすれば、確実にパニックに陥るだろう。そうなった場合、あの勇者のことだ。赤帽子に、剣も魔法も通用しないと分かれば、ハーデブルクを捨てて、さっさと逃げるだろう。そして逃げた先にあるのが、ヴィーネリントだ。
そう、勇者パーティーが、ヴィーネリントに避難していてもおかしくはない。
だが、港に着いてから、ずっと魔力探知をしているが、奴らの魔力は感じ取れない。
「勇者は、ここにいないみたいだな」
「はい、勇者さまは、訪れてはいません」
「で、勇者は今、どこにいるんだ?」
司教が顔をしかめた。
「分かりません……」
司教が続ける。
「ブルグント魔導団の皆さまが、必死で魔力探知を行っていますが、未だ、勇者さまの魔力を掴むことはできていません」
俺は、ホッとするのと同時に、怒りが込み上げてきた。
あのクソ野郎は、どこで何をしているのか。
やはり、どこかへ逃げ出してしまったのか。
奴なら大いにあり得る。
「それにしても、ずいぶんと落ち着いているわね」
ルピナスが辺りを見渡しながら言った。
確かに、ハーデブルクに《竜骨生物群集帯》が発生したにもかかわらず、街の光景は、普段と何ら変わっていない。すれ違う聖職者たちも、行き交う住民たちも、特に慌てている様子はなく、いつもどおりの生活を営んでいる。
目の前の光景を見ていると、近くで《竜骨生物群集帯》が発生しているとは、到底思えない。
「実感が湧かないのです」
司教がにこやかに告げた。
「我々には、《竜骨生物群集帯》の恐ろしさというものが分からないため、実感が湧かないのです」
「そういうこと、か……」
この世界の人々にとって《竜骨生物群集帯》は、あまりにも非日常的な現象だ。まず、竜という存在を知っていても、その姿を見たことのない人々が大多数だ。そして、その竜が死に、その血肉や骨を魔物が屠ると、その魔物は竜へと変貌し、剣も魔法も通用しなくなる。これら一連の現象を、体験したこともなく、ましてや見たことすらない人々に、理解を求めることはできても、実感するのは難しいだろう。
だが、ここからハーデブルクまでの距離は、僅か10㎞しか離れていない。つまり、ヴィーネリントは、もうすでに《竜骨生物群集帯》の射程内にあるのだ。
今まで、人間の生活域に《竜骨生物群集帯》が発生したことはない。
世界は、これまでに経験したことのない状況に陥っている。
どう考えても、ヤバい予感しかしない。
「とりあえず、領民たちを避難させたほうがいいんじゃないのか?」
俺が尋ねると、司教は首を振った。
「私どもが管轄している小教区へ、一時的に避難させることは可能ですが、そのほとんどが聖ライン河沿いにあるため、そこへ向かうための船が足りません」
ヴィーネリント小教区の領民は、他の小教区に比べて少数だが、それでも、すべての領民を移住させるには、それ相応の数の船が必要となる。しかし、ヴィーネリントには、聖職者たちが利用している小さな船しかないため、すべての領民を運ぶとなれば、途方もない時間が掛かってしまう。
重苦しい空気が立ち込めた。
「どうやら、早急に竜骨の回収に向かったほうがよさそうだな」
ルピナスも小さく頷いた。
「ところで、ヴィーネリントの周辺はどうなっているんだ?」
俺は、司教に尋ねた。
「現在、ヴィーネリント周辺に、魔物はいないようです」
司教が答えると、そこにケイが続けた。
「もし、ヴィーネリント周辺で、魔物の魔力を探知すれば、即座に、部下から私に連絡が入るようにしています」
つまり、赤帽子は、まだ、ヴィーネリントまで到達していない。
「それじゃあ、ハーデブルクの状況は分かったのか? ヴィーネリントに駐屯している宗教騎士団が向かったんだろう?」
司教の顔が曇った。
「いえ、まだ連絡はございません」
再び、重苦しい空気が立ち込めた。
嫌な予感しかしない。
「はあ、仕方ない。俺が、ハーデブルクまで魔力探知してみるか……」
ヴィーネリント小教区から、ハーデブルク司教座都市までの距離は、約10㎞。有能なブルグント魔導団の魔導士であっても、魔力探知できる距離は、せいぜい3㎞~5㎞程度が限界だろう。
だが、俺の魔力を駆使すれば、10㎞範囲の魔力探知も可能だろう。実際、ルピナスを抱えてヴェスト村へ向かう際、常に10㎞以上の魔力探知を発動しながら進んでいた。あの広大な森の中では、すぐに位置も方角も分からなくなる上、魔物の群れに遭遇する確率も高かったため、常に、広範囲の魔力探知が必要だった。
俺は、ハーデブルクの方へと身体を向け、意識を集中させ、詠唱した。
自らの肉体を中心に、魔力の波動が、ハーデブルクに向かって、波紋状にゆっくりと広がっていく。やがて、緩やかな流れとともに、魔力が都市の内部へと浸透していった。
魔力は、さざ波のように、やさしく都市を包み込んだ。
静寂。
静寂。
静寂。
俺は、背筋が凍りついた。
放った波に対して、抗う存在は、一つとしてなかった。
「嘘だろ……」
俺は、茫然となった。
「ハーデブルクから、何も魔力を感じない」