君のすべてを、俺に聞かせて欲しい。
束の間、見惚れてしまっていた。
さらさらと風に揺らぐルピナスの花の中、どこか嬉しげで、でも、どこか悲しげな表情を浮かべたルピナスが、そこに立っていた。
それは、どこか諦観めいていた。
俺は、その表情に見惚れてしまっていた。
光と闇が緩やかに混ざり溶けあったような、それでいて穏やかさと静けさを感じさせる不思議な表情だった。
それが、この上なく美しかった。
エルフは長命な種族だ。
俺なんかには想像もできないほど、遥かに長い時間を生き続け、途方もない数の経験を積んできたに違いない。
基本、人生というものは、楽しかった経験や、嬉しかった経験は、ほんの僅かで、苦しかった経験、辛かった経験、悔しかった経験、そして悲しかった経験が、そのほとんどを占める。
この繰り返しが、人生が終わる、その瞬間まで続くのである。
正直、ウンザリだ。
俺は、人生をとても長いと感じている。
苦しいこと、辛いこと、悔しいこと、悲しいことの繰り返しは、やたらと長く感じる。地獄の底で、延々と責め苦を受けているような感じだ。どうやったら逃げられるのか、どうやったら避けられるのか、必死で試行錯誤しても、鬼たちの責め苦は終わらない。そしてそれは、永遠に繰り返される。
地獄の底にいる時間は、永遠のように感じる。
寿命が百年にも満たない人間でも、地獄の底にいれば、それは永遠となる。
ならば、寿命が千年を超えるエルフとなると、地獄の底の永遠は、どう変わるのだろうか。
想像するだけでも恐ろしくなる。
人生とは、苦しいこと、辛いこと、悔しいこと、そして悲しいことの連続だ。
地獄の底で、もがき苦しみながら、それらから逃れ、それらを避けるために足掻き続けることが人生であり、それだけしかないのが人生である。
生きていくことは、不快でしかない。
この不快でしかない人生を歩み続けることができるのは、死という明確な終わりがあるからだ。
死がなければ、到底、歩み続けることなどできない。
死だけが、この不快で極まりない人生を解放してくれる唯一の救いなのだ。
だが、エルフは、死までの道のりがあまりにも長すぎる。
少なくともルピナスは、この不快な人生を、少なくとも、あと数百年は、歩み続けなければならない。
もはや拷問である。
彼女の抱える不快さを、理解することは不可能である。
考えるだけで、気が狂いそうになる。
だからこそ、痛ましい気持ちに苛まれてしまう。
彼女の表情。
初めて見た。どこか諦観めいた表情。
この世界の本質を知り、この世界の希望を絶ち、この世界に諦めを抱き、超然と自らの人生を見つめ続け、ただひたすらに歩みを進める。
漠然と、そんな感覚を感じ取った。
ぼんやりと、そんなことを考えていると、ルピナスがこちらに気付いた。
彼女は、一瞬だけ、驚いた表情を浮かべ、すぐに優しく微笑んだ。
「ねえ、ここ、すごいでしょ、シャルロッテさんに聞いたの」
「ああ、ルピナスの花でいっぱいだな」
「あたしの故郷では、ここよりも、もっと、地平線の果てまで、ルピナスの花が咲いているの」
ルピナスの花は、荒地でもたくましく育つ強い花として、〝狼〟に例えられることがある。
狼
彼女は、永遠に続く荒野を、たった一匹で駆け続ける〝狼〟のように思えた。
俺は、青紫色の花畑を優しく掻き分けながら、ルピナスの元へと近づいた。
彼女は、優しい笑みで迎えてくれた。
「昨日は、いろいろ話してくれたね」
ルピナスが嬉しそうに言った。
俺は、急に恥ずかしくなって、彼女から目を背けた。
「昨日の話で、いちばん驚いたのは、エイミの世界には、夜がないって話ね」
「あっ、まあ、そうだな……」
そういえば、そんなくだらない話もした。
24時間営業のスーパーマーケットで勤務すれば、おのずと夜はなくなる。出入口付近では日光を認識できるが、奥へ行けば行くほど、昼夜の感覚が薄れていく、薄暗い倉庫で長時間作業していると、もはや何時なのか分からなくなる。
「夜がないから、寝ないで働かなきゃならないなんて、奴隷よりもヒドイよね。すごい世界から転移してきたんだね。エイミがめちゃくちゃタフなのは、そのせいかな」
「タフねぇ……」
まあ、ブラック企業で培ったド根性は、社会人になって唯一誇れるところだが、まさか異世界でタフ扱いされるとは思っていなかった。
そういえば、異世界転移して間もない頃、とある現場で、伝説級の魔物と出くわして、三日三晩、たった一人で、寝ずに戦って、死に物狂いで倒したことがある。思い出すだけで、吐き気がするような泥仕合だったが、それ以来、みんなからは、一目置かれ、タフ扱いされるようになった。
いやいや、俺のタフガイの歴史など、どうでもいい。
マジでどうでもいい。
そんなことよりも、彼女に聞きたいことがある。
「なあ、ルピナス」
俺は、高鳴る胸を抑えながら、彼女に訊いた。
ルピナスが優しい笑みを浮かべたまま、微かに小首を傾げた。
「お、俺も、お前のことを、もっと知りたい。だから、いろいろと教えて欲しい」
生きてきて、楽しかったこと、嬉しかったこと。
そして、生きてきて、苦しかったこと、辛かったこと、悔しかったこと、そして、悲しかったこと。
そのすべてを聞いてみたい。
途方もない時間が通り過ぎても、そのすべてが聞いてみたい。
君のすべてを、俺に聞かせて欲しい。
すると、ルピナスは、「いいよ」と、優しい笑みを浮かべた。