とにかく、こそばゆいのだ。
ルピナスの居場所は、それほど遠い場所ではなかった。
俺は、彼女の魔力を辿りながら、麦畑に囲まれた農道を歩いていた。
方角的にいって、聖ライン河のある方向だ。
そんなところで、何をしているのだろう。
もしや、水浴びでもしているのか。
瞬間、脳内にいかがわしい妄想が走った。
俺は、頭を強く振り、深呼吸を繰り返して、何とか冷静さを取り戻した。
今は妄想している場合ではない。
だが、可能性はある。
基本、都市や農村には、風呂屋というものがある。いわゆる大衆浴場である。都市の風呂屋は、温浴が主流で、しっかりと湯舟に浸かることができる。しかし農村の風呂屋は、蒸し風呂が主流なため、湯舟に浸かって身体を洗うことができない。そのため、農村の風呂屋は、川べりにあり、水浴びができるように作られている。まあ、サウナみたいなものだ。
ちなみにルピナスは、大のお風呂好きだ。
この世界の人々は、疲れを癒すために風呂に入るのではなく、身支度を整えるために風呂に入るため、風呂屋は早朝から営業している。お風呂大好きなルピナスは、どんなにハードな現場を抱えていても、毎日、必ず、しかも早朝に、風呂屋へ向かっていた。
貴重な睡眠時間を割いて風呂に入るなど、俺には到底考えられないことだが、それだけ、お風呂が大好きということだ。
ヴェスト村にも、パン焼き窯を利用した小さな風呂屋がある。もしかすると、蒸し風呂を楽しんだ後、聖ライン河で水浴びをしているのかもしれない。
もし、ルピナスが水浴びしている最中に、彼女と出くわしたら完全にアウトである。
ここは慎重に行動しなければならない。
完全に気配を殺した状態で、彼女に気取られないように、覗かなければならない。
いや待て、彼女はエルフ族最強の剣士だ。その神経と感覚は、想像を絶するほどに研ぎ澄まされている。微かな気配であっても、敏感に察知して、躊躇なく刃を振り抜くに違いない。
恐らく、覗いた瞬間、俺の首は、明後日の方向に飛んでいるだろう。
やはり、ルピナスを探すのは、止めといたほうがいいのか。
そもそも、魔力探知で居場所を暴いた揚げ句、水浴びしている姿を覗くなど、もはや完全にストーカーである。
俺は、もっと建設的に物事を考えることができる人間のはずだ。恋愛感情に流されて、冷静さを失い、欲望のままに行動するような人間ではない。
そう頭では思っているにもかかわらず、足取りは憎らしいほどに軽い。
ルピナスに会える嬉しさ。そして、水浴びしている彼女を覗けるワクワク感とドキドキ感で、両足は軽快にステップを踏んでいた。
何とも正直な身体である。
くそっ、こうなったら、一か八かだっ!
俺は覚悟を決めて、ルピナスの元へ向かった。
すると、麦畑の向こう側に、きらきらと光る、水面が見えてきた。
大陸を横断するように流れる聖ライン河は、ブルグント王国の西側から南側にかけて流れる大陸随一の大河である。エッケヴァルト領は、古くから聖ライン河の加護を受け、その恵みにより発展してきた。
視界に映る光景が、広大な麦畑から、長大な聖ライン河へと変わった。
透き通った水面は、陽光で煌めき、穏やかな流れを維持している。
聖ライン河の遥か向こう岸には、真っ暗な森が広がっており、その遥か先に隣国がある。興味本位で、森の奥まで魔力探知を伸ばしてみたが、魔物の魔力しか感じ取ることができず、人間の魔力など微塵も感じなかった。本気で魔力探知を行えば、隣国まで届くかもしれないが、ここで本気を出す理由はない。
河岸まで近づくと、不思議な感覚に包まれた。
僅かだが、魔力が吸い取られている。
これが、魔力浄化か。
聖ライン河には、魔力浄化作用がある。
聖ライン河の水を、極限まで濃縮したものが、聖水であり、あらゆる魔力浄化に使用されている。
この世界の人々は、体内にある魔素から魔力を生成しているため、魔力浄化されても、時間が経てば、魔力は元に戻る。しかし魔物は、別の生物から魔力を取り込んでいるため、魔力浄化されると、魔物としての異能を失い、ただの獣に戻ってしまう。
この世界において、聖ライン河は、魔物が立ち入ることのできない、唯一無二の聖域なのである。
魔力量しか取り柄のない俺からすれば、この程度の魔力浄化など、へのツッパリにもならないのだが、魔力が勝手に消費されていくのは、どうにも気持ちが悪い。
魔力が少しずつ消費されていく感覚を分かりやすく例えると、すごく優しく、すごく丁寧に、そして、すごく控えめに、くすぐられているような感覚だ。
とにかく、こそばゆいのだ。
一般の人々は、魔力を消費すると、重い倦怠感と、強い疲労感に襲われるらしいのだが、そんな感覚、今の一度も感じたことはない。魔力を消費すると、単に、こそばゆいだけだ。
重い倦怠感と、強い疲労感は、慢性的な睡眠不足のせいだ。
とにかく、聖ライン河に近づくだけで、全身がこそばゆい。
こんなに、こそばゆい中、本当に、ルピナスは水浴びをしているのか。
いや、まあ、水浴びに関しては、勝手な俺の妄想なのだが。
と、その時、足元で、一輪の花が風に揺らいだ。
青紫色の花。
ふと、遠くに視線を向けると、聖ライン河の岸に沿って、一面、青紫色の花が咲き乱れていた。
ルピナスの花だ。
その花畑の中に、ルピナスが立っていた。