逃げるぞっ!
大爆発から放たれた閃光によって、かき消されていた闇が、徐々に滲み上がっていき、やがて、元の濃紺の空へと戻った。
壁の消え去った部屋に、月の灯りが差し込んだ。
室内には、俺とルピナス、そしてミーネしかいない。
どうやら貴族たちは、爆風で吹き飛ばされてしまったようだ。
「勇者は、死んだのか?」
ミーネがかぶりを振った。
「勇者の光属性には、強力な自己治癒能力が備わっておる。多少の時間は掛かっても、直に傷は癒えるじゃろう。しかも光耐性には、あらゆる魔法攻撃を半減させる力がある。つまり、ワシの放った渾身の精霊魔法も、奴に届いておるのは、半分程度ということじゃ」
やはり勇者。とんでもないチート能力である。
「じゃが、よくもまあ、あの勇者に一撃を加えることができたのう。凄まじいほどの不意打ちじゃったがな」
感心するミーネに、俺は答えた。
「奴は、冒険先で魔物に遭遇しても、そのほとんどを仲間たちに処理させていたからな」
夢で見た限り、勇者が率先して魔物と戦っている姿は見たことがない。パーティーメンバーである戦士、僧侶、魔導士の三人が、いつも最前線で魔物と戦っていた。
「勇者がまともに戦っていたのは竜だけだ、と言いたいところだが、ほとんどの竜は、戦いに消極的だったから、勇者が一方的に虐殺していたようなもんだな。つまり勇者は、異世界転移してから、大した実戦を積んでいないってことだ」
だからこそ、ためらいがあった。
俺を、敵だと認識することができなかった。
どれほどチート能力を宿していても、ためらった時点で勝敗は決まる。
この世界は、ためらった者から死んでいく。
まあ、さすがに勇者は死ななかったが、戦闘不能に追い込むことはできた。
「ふむ、なるほどな。膨大な魔力を宿している勇者とはいえ、所詮は素人じゃったということか」
「俺たち異世界転移者は、平和で豊かな国で生まれ育った日本人だ。だから、皆、戦うという状況に慣れていない」
よって、ためらいが生まれる。
「なるほどな。まあ、ワシらには、おぬしの言う、平和で豊かな国が、どんなもんなのか、よく分かっとらんがのう」
「少なくとも、俺が生まれ育った国では、戦争はなかったな」
「ほう、争いのない世界ということか。そんな楽園が存在しておるとは信じられんのう」
「楽園ねぇ……」
この世界のように、国家間の争いや、魔物との争いといった暴力的な争いはなかったが、人間同士の精神的な争いは蔓延していた。人間は、戦時であっても、平時であっても、構うことなく争い合う醜悪な生き物なのだ。
どの世界であっても、人間がいる限り、楽園など存在しない。
俺は、小さく嘆息した。
その時、視界の端で、鈍い輝きを感じた。
なにげなく視線を向けた床の上に、一本の剣が倒れていた。
俺は目を張った。
「バルムンク……」
「なんじゃとっ! あれが、バルムンクなのかっ?」
ミーネが叫んだ。
降り注ぐ月光が刀身に反射して、その巨大な輪郭を金色に浮かび上がらせていた。
その造形、その色彩、その装飾、それは夢で何度も見たことがあった。
紛れもなく、伝説の屠竜武器バルムンクだった。
「こりゃまさに千載一遇のチャンスじゃ、よし、バルムンクを回収するぞっ!」
「ああ、ここでケリをつけてやる!」
俺は、ルピナスを静かに床の上に寝かせると、バルムンクへと近づいた。
数多の竜を屠ってきた大いなる剣。
そして、数多の《竜骨生物群集帯》生み出し、数多の災厄を呼び起こし、人間を絶滅へと引き摺り込もうとする、呪いの剣。
俺は、バルムンクへ手を伸ばした。
この剣さえなければ、《竜骨生物群集帯》が生まれることはない。
世界が救われる。
そして、強制労働から解放され、俺も救われる。
ようやくだ。
ようやく、この異世界強制労働ライフから解放されるのだ。
これで、心置きなく、異世界スローライフを満喫することができる。
俺は、微かに胸躍らせながら、バルムンクの柄に指を伸ばした。
刹那、冷たい空気が頬をかすめた。
「すぐに、そこから離れろっ!」
ミーネの怒声に、即座に反応した俺は、床を蹴り上げ、後方へと跳躍した。
「氷結女神の唸り」
凄まじい冷気とともに、バルムンクの周囲が、一瞬にして凍りついた。
床を勢いよく転がりながらも、何とか体勢を立て直すと、破壊された扉の付近に、小さな人影が見えた。
細く長い銀髪に、切れ長の鋭い瞳。そして雪のように白い肌。
冷気を帯びた夜風が、彼女の銀髪をふわりと揺らした。
その顔に見覚えがあった。
勇者パーティーの魔導士だ。
魔導士は、大きな杖を掲げ、こちらを冷たく睨んでいる。
杖の先端は凍りつき、白い冷気が漂っていた。
「くっ、勇者パーティーの連中か……」
ミーネが苦虫を噛み潰した。
勇者パーティーには、戦士、僧侶、魔導士の三人がいる。ブルグント王国最強の三人衆と呼ばれており、その魔力は、S級冒険者に匹敵すると言われている。しかも極めて戦闘に特化した三人であるため、魔力は同等であっても、俺たちとは明らかに戦闘経験が違う。
連中の強さは、夢の中で何度も見ている。
その一人が、眼前で戦闘態勢を取っている。
現在の状況は、ルピナスは戦闘不能。ミーネはMP0。シュタインは陽動作戦の真っ最中である。
戦えるのは、俺一人だけ。
無理である。
経験値が足りていない。
熟練度が違いすぎる。
遠くで、けたたましく階段を駆け上がる音が聞こえた。どうやら、戦士と僧侶も、遅れてこちらへと向かって来ているようだ。
勇者パーティが揃えば、俺たちは完全に詰んでしまう。
「うむ、ここまでじゃな」
ミーネは嘆息すると、俺に向かって両手を伸ばした。
「逃げるぞっ!」
俺は、渾身の力を込めて、握りしめていたハンマーを魔導士に向かって投げつけた。
一瞬、魔導士の悲鳴が聞こえると、俺は、ルピナスとミーネの元に駆け寄り、素早くルピナスを背負い、ミーネを抱え上げ、ためらうことなく、月明かりに照らされた闇の中へと飛び込んだ。
落下の最中、中庭で手を振っているシュタインの姿が見えた。