潰された胸の痛みだけが、鈍く疼いていた。
学生時代、教師から叱られる時は、何かしらの理由はあった。稀に虫の居所が悪くて、よく分からない理由で叱られることもあったが、基本的に、それなりに真面目にしていれば、そうそう叱られることはなかった。
しかし、社会は違っていた。
職場にいるパワハラ上司は、部下を叱るのに理由はなかった。
いや、叱る理由など必要なかった。
なぜなら、すべてが八つ当たりだからだ。
自分の怒りや苛立ちを部下にぶつけて、ストレス解消しているだけなのだ。
そして、優位な立場であることを再認識して、愉悦に浸っているだけなのである。
パワハラ上司の最も厄介なところは、叱っても絶対に抵抗してこない部下を選び、徹底的に標的するところだ。
そのため、どれほど真面目に働いていても、些細な因縁を吹っかけては、叱りつけてくる。
標的とした部下への粗探しに心血を注ぎ、発見したら、鬼の首を取ったかのように、徹底的に咎める。
俺は、そんな連中を山のように見てきた。
仕事でミスした際、同じミスをした同期や後輩は許されても、俺は絶対に許されない。社員全員の前で執拗に叱責し、吊し上げ、レッテルを貼り付け、ダメ社員を作り上げる。そして、同期や後輩への比較対象として、晒し上げ、馬鹿して、彼らのモチベーションアップへと利用する。
圧倒的理不尽と圧倒的不条理が、社会には存在している。
絶対的な自己の肯定と、徹底的な他者の否定が、現代の日本社会を造り出したのだ。
歪みきった社会。
その根底にあるのが、差別だ。
人間は、他者を差別することで、自らの愉悦に浸る。
だからこそ、人間の社会には、抗いのようのない差別が、深く根を広げているのだ。
人間は、自分よりも弱い人間を差別する。
さらにそこから、抵抗しない人間を選び、より差別をする。
そして、否定する。
差別して、否定して、また差別して、否定する。
差別、否定、差別、否定、差別、否定、差別、否定、差別、否定、差別、否定。
差別。
否定。
人間の社会は、差別と否定の繰り返しで成り立っている。
「差別してんじゃねえ」
俺の言葉に、ルピナスは硬直していた。
「さ、差別? なに、どういうこと?」
ルピナスの唇は、小刻みに震えていた。
「お前、いつも俺にだけ、言いたいこと言うだろ。ミーネやシュタインにだって、言いたいことあるくせに。でも、コイツらには言わなくて、俺にだけに言うのは、どう考えても、差別だろ!」
ミーネは当たり前のように仕事サボるし、シュタインはマイペースで勝手な行動が多い。
そんな中、俺は、真面目で働いているつもりだ。多少の愚痴はこぼすが、それでもサボったり、勝手な行動を取ったりはしない。
それでも、何かと文句を言われるのは、俺だ。
前の世界でも、嫌というほど差別を経験してきた。
その度に、転職を繰り返してきた。
差別のなかった職場は、最後に辿り着いた職場だけだ。
不眠不休で働く職場では、皆が人間の心を殺して、ロボットとなるため、差別など存在しなかった。
完全に差別をなくすのなら、ロボットの世界にするのが、一番手っ取り早いのかもしれない。
「そ、そんなつもりは……」
ルピナスは、うつむき、肩を震わせていた。
「大魔導士ミーネ様と大戦士シュタイン様と違って、俺は、どっかの異世界から転移して来ただけの、うだつの上がらない、ただのオッサンだからな。差別するには、うってつけだよなっ!」
「ち、違う……」
「エルフのお姫様からしたら、俺なんて、醜いオークと変わんねえよな。だから差別するんだろ。いいぜ、好きなだけ差別しろよ。どうせ、竜骨をぜーんぶ回収したら、こんな職場ともおさらばだ。それまで好きなだけ差別しろよ。差別して、否定しろよ。俺はさ、そういうのに、めちゃくちゃ慣れてるからよ!」
「おいっ!」
ミーネが怒鳴った。
はっと我に返る。
自分でも気付かないほどに熱くなっていた。
「ち、ちがう、違う……」
震えながら、うつむくルピナス。
料理が並べられたテーブルの上に、大きな雫が、何度も弾けた。
俺は、胸が潰されていくのが分かった。
「そんなんじゃないっ!」
顔を上げたルピナスの瞳は、溶けた氷のように揺らめき、大きな水滴が、頬を伝って落ちていった。
唖然とする俺。
言葉は出てこなかった。
ただ、潰された胸の痛みだけが、鈍く疼いていた。
ルピナスは細い指で涙を拭い去ると、勢いよく店から出て行った。
俺は、鈍く疼く胸の痛みに、耐え続けるしかなかった。