彼女の感触だけは、今も鮮明に覚えている。
三ヶ月前。
無謀にも竜骨を齧り、激しい魔力中毒を起こした俺は、ルピナスとミーネによって、ヴィーネリント小教区の施療院に運ばれた。
意識を取り戻したのは、施療院のベッドの上だ。
俺は、重度の魔力中毒に侵されていたため、早急に魔力浄化を行わなければならず、大量の聖水が必要となった。そして、用意された聖水は、最高濃度のもので、竜骨の魔力浄化に使われているものだった。その聖水の中に何度も沈められ、膨大な量の聖水を飲まされた。
その間も、断続的に禁断症状が起こり、想像を絶するほどの熱と渇きに襲われ続けた。そのたびに、聖水の中に沈められ、大量の聖水を飲まされた。あまりの苦さに嘔吐を繰り返したが、禁断症状から解放されたい一心で、俺は聖水を飲み続けた。
幾度なく襲ってくる凄まじい禁断症状に耐えながら、俺は必死で聖水を飲み続けた。すると、二週間ほどで、徐々に禁断症状が和らいでいった。さすがは超濃縮された聖水である。効果はてきめんであった。
もう、あの地獄のような熱と渇きは、二度と味わいたくない。今さらながら、《竜骨生物群集帯》の魔物が狂暴な理由を理解した。
あれは薬物の依存症状とは、まったくの別物だ。
恐怖を刻み込ませる禁断症状だ。
魔物たちの竜骨に対する異常ともいえる執着は、恐怖による禁断症状だったのだ。
この恐怖は、経験した者しか分からないだろう。
そんなこんなで、俺が、禁断症状と激マズ聖水と戦っている間、シュタインは、別の施療院で魔力浄化を行ってもらい無事に回復した。ルピナスとミーネは、ブルグント魔導団や、生き残った宗教騎士団とともに、掃討隊を結成して、森の中へ逃亡した赤帽子の残党狩りに向かった。
しかし、森の中を熟知している赤帽子は、地の利を生かして逃走を続け、掃討隊を翻弄し続けた。結果、掃討隊は、多くの赤帽子を取り逃がしてしまい、すべての竜骨を回収することはできなかった。
今後、赤帽子の中から、新たな王が生まれれば、竜骨を持つ彼らは、必ず人間を襲いに来る。
一体、どれほどの数の赤帽子が竜化して現れるのか、現時点では皆目見当もつかない。
剣も魔法も通用しない魔物が、いつ襲って来るのか分からない状態の中、ブルグント神聖教の教皇は、竜骨を守り抜くのは困難だと判断し、ヴィーネリント小教区を放棄する決断をした。
大量に保管されている竜骨は、聖ライン河の南の終点、ブルグント王国最南端の領地にあるウーテ小教区に移されることとなった。ここは、国内で唯一、森の浸蝕から逃れている半島であるため、魔物の脅威が最も少ない地域であった。
ただし、聖ライン河の下流域に位置するため、海水と交じり合うことが多く、魔力浄化の機能が格段に落ちてしまうようだ。つまり、竜骨の魔力浄化に、これまで以上の時間を要してしまうということだ。
これは、竜骨が魔物に奪われることを阻止するため、苦肉の策であった。
竜骨が魔物に奪われた結果、ハーデブルク司教座都市とヴィーネリント小教区は、放棄せざるを得なくなり、結果、人間の生存域は大きく削られてしまった。逆に、魔物の生息域が大きく広がったのである。
人間が絶滅した時、ニーベルゲンの呪いは解かれる。
ニーベルゲンの呪いは、確実に、人間を絶滅の道へと追いやっている。
事実、今回の事件では、五千人以上の人間が殺され、揚げ句、竜骨も奪われ、都市と教会が放棄された。
これは、人間側の完全敗北である。
こういった敗北を繰り返していき、やがて人間は絶滅していくのかもしれない。
そして、人間が絶滅すれば、ニーベルゲンの呪いも解かれ、俺たち異世界人も、この世界から消えてしまうのだろう。
どう足掻いても、消える運命なのだ。
ならば、運命を受け入れるのか。
それとも、運命に抗うのか。
どちらにしても、俺は、この世界のことを何も知らない。
この世界を知らなければ、運命を受け入れることも、運命に抗うこともできない。
まずは、この世界に興味に持つことから始めよう。
やはり、無関心に生きるのは、難しそうだ。
施療院で治療を始めて一か月が過ぎた頃、国内各地の教皇領から、多くの人々が、ヴィーネリント小教区に押し寄せ、竜骨の引っ越し作業が始まった。小教区の住民やハーデブルクからの避難民は、別の小教区や都市へと移住させられ、聖職者たちも各地の教会へと散り散りになっていった。その間も引っ越し作業は進み、昼夜を問わず、竜骨を詰んだ船が、次々とウーテ小教区へ向けて出発していった。
無論、俺とシュタインも、治療が終わるや否や、ヴィーネリントから追い出されてしまった。シュタインは故郷で療養することになり、俺は、ハヤトのいるヴェスト村で療養することにした。
そんなこんなで、俺は、ヴェスト村にいる。
村で、病気療養を始めて、もうすぐ二ヵ月になる。
村の田舎道を、とぼとぼと一人歩いて行く。
延々と続く麦畑は、収穫が終わっており、一面、原っぱのようになっている。
三ヶ月前は、黄金色の穂が、遥か彼方まで広がっていた。
風が吹くと、金色の波が押し寄せ、より輝きを増していた。
「そういやあ、三ヶ月前は、ルピナスと一緒に、この道を歩いたんだっけ」
ずいぶんと懐かしく思える。
あれから彼女とは、一度も会っていない。
施療院に、何度か、お見舞いに来てくれたそうだが、運ばれた当初は、禁断症状があまりに酷かったため、面会が困難だったらしい。確かに、あの時は、獣のように悶え苦しんでいたため、とても見せられる状況ではなかった。その後、ルピナスは、赤帽子の掃討隊に参加し、ヴィーネリントを離れたため、以降、彼女とは会っていない。
あの時、ルピナスが聖水を飲ませてくれなかったら、俺は、いったいどうなっていたのだろうか。
俺は、唇をそっと指で触れた。
彼女の感触だけは、今も鮮明に覚えている。