もう何も心配するな。
俺たちの世代で、一番有名な名言をあげるとすれば、まず最初に思い浮かぶのは、「あきらめたら、そこで試合終了ですよ」という言葉だろう。
大人気スポーツ漫画のセリフだ。当時は、諦めたり、逃げたりすることは、格好悪いと言う風潮があった。一度、始めたことは、最後までやり遂げることが美学だと、周囲の大人から教わってきた。
諦めないこと。逃げないこと。この精神は、運動部の世界だけでなく、社会人の世界にも広がっていた。仕事を諦めない。仕事から逃げない。どんな仕事であっても、めげずに立ち向う。この精神こそが社会人の美学となった。
そんな社会人の美学を、実直に守ってきた奴らが、社畜だ。
ブラック企業で、過酷な労働を強いられても、絶対に諦めない。絶対に逃げない。自ら命を賭して、目の前に積み上げられた膨大な仕事に挑む。まさにサムライ魂だ。
だが、その先に待っているのは、精神崩壊と過労死だ。
社会人の美学を実直に守り続ければ、いつか必ず報われる日が来るはず。
そう頑なに信じ続ける奴らが、力尽き、死屍累々と連なり、それが土台として固まることによって、この巨大な社会は支えられているのだ。
そう、社会は、とんでもなく往生際の悪い奴らによって支えられている。
「あーあ、もうちょい早く、異世界転移していたら、他の奴らみたいに、異世界ライフを満喫できてたのかなぁー」
どうやら異世界転移してきたS級冒険者どもは、異世界ライフを、とことん満喫しているようだ。俺の最終目標である異世界スローライフを送っている奴も、けっこういるみたいだ。
そもそも、俺は、異世界転移のタイミングがあまりにも悪かった。
俺は、勇者が竜狩りを開始してから、一年後の世界に転移してきた。いわば、国中で《竜骨生物群集帯》が大量に発生しているタイミングだ。一刻も早く竜骨を回収しなければならない状況だった。
だが、そんな緊迫した状況にも関わらず、S級冒険者どもは、こぞって、竜骨の回収と、バルムンクの奪還を拒否をしたのだ。その結果、異世界転移したばかりの俺が、竜骨回収のため、《竜骨生物群集帯》へと派遣されることとなった。
莫大な報酬を餌にして、大した説明もないまま、危険極まりない現場へと送る。
ヤクザやマフィアの手口である。
異世界転移のタイミングが違うだけで、こんなにも貧乏くじを引くものなのか。
まったくもって、不愉快だ。
やはり、この世界は好きになれない。
どいつもこいつも、やりたくない仕事は、放り投げて、末端の人間にやらせようとする。
ふざけるな。
やっぱり、この世界は、ブラック企業そのものだ。
濛々と立ち込める砂塵の中、ぼんやりとそんなことばかり考えていた。
腕の中には、エルフのお姫様が、静かに眠っている。
彼女をお姫様抱っこしたまま、俺は、小さく声を掛けた。
すると、ルピナスの瞼が薄く開いて、色鮮やかな碧瑠璃色の瞳が映った。
「え、エイミ? 何が、どうなってるの……?」
「もう何も心配するな。それより立てるか?」
「う、うん……」
ルピナスの両足を地面に下ろし、ゆっくりと彼女を立たせる。
幸い、彼女の怪我は、かすり傷だけだった。
俺は、ホッと胸を撫で下ろした。
「さてと、ケリをつけて来るか」
俺は、ルピナスに背を向け、地面に沈んでいたバルムンクを拾い上げた。
「ちょっと、エイミ、どういうことなの?」
俺は、彼女に背を向けたまま、黙って耳を傾けた。
「エイミが、シュタインの攻撃から、あたしをかばってくれたことは覚えている。だから、シュタインの攻撃をまともに受けたことも分かってる。なのに、どうして……」
ルピナスの声が小さくなっていく。
「どうして、そんなに元気なの?」
俺は、黙ったまま、彼女の声に耳を傾けている。
「ねえ、どうして? 教えて……」
何も答えない俺に、ルピナスが声を荒げた。
「ちょっと、何とか言いなさいよっ!」
俺は、ゆらゆらと手を振った。
「言っただろ、もう何も心配するなって。さっさと終わらせて来るから、ちょっとだけ、そこで待ってろ」
「ちょ、ちょっと、エイミっ!」
俺は、叫んでいるルピナスを無視して、目の前に立ちはだかる戦士を睨んだ。
シュタインは、激しく肩を揺らしながらも、しっかりと大地を踏みしめている。
次に繰り出す衝撃波は、確実にシュタインの命に関わる。
絶対に阻止しなければならない。
シュタインが、息も絶え絶えで、大斧を振り上げた。
瞬間、地面を蹴り上げて、一気にシュタインへ接近した。大斧の間合いの内側だ。この至近距離では、衝撃波を放つことはできない。
俺は、シュタインの両手首を掴み、一気に魔力を込めた。シュタインの丸太のような腕が、血管を浮き上がらせながら、ミシミシっと悲鳴を上げた。
シュタインが呻き声を上げながら、大斧を地面に落とした。俺が手を放すと、すかさず、シュタインは、頭突きを繰り出してきた。だが、その攻撃は、俺に到達する直前で、見えない壁によって、弾き返されてしまった。
豪快に大地に叩きつけられ、うつ伏せで倒れ込むシュタイン。
俺は、ゆっくりと地面に膝を突き、シュタインの耳元に顔を近づけた。
「もう何も心配するな。あとは俺が何とかする。お前は、ここで休んでろ」
すると、シュタインが申し訳なそうに頷いた。
「さてと……」
俺は、視線を正面へ向けた。
そこには一匹の赤帽子が、傲然と立っていた。
赤帽子の王。
「英雄狩りといくか」