Ep.2-3 Face / 顔
ユニタス接続で現場当時にダイブしたジャック。
そこで立てた彼の推論とは……?
目を開けると、視界の前方にはアップビート地区ルーキス・アベニューの深夜風景が広がっていた。湿った空気に溶けるようなネオンの灯り。看板のホログラムは明滅を繰り返し、夜の街をさらに彩っていた。路上には酔客の笑い声や怒号、屋台から発される自動呼び込み音、電動バイクの低い駆動音が混じり合い、耳の奥を絶え間なく刺激する。
深夜とは思えぬほどの賑わいが広がる。人影、光、音、空気の重さ——それら全てが、感覚の隅々まで染み込んでくる。
ジャックの五感が、現場の〝その時〟と同期していた。
(これが、あの夜の現場……)
ジャックは一通り周囲を見渡した後に口を開いた。
——事件の場面まで飛ばしてくれ
ジャックがそう指示すると、周囲の音が急激にフェードし、代わりに甲高い悲鳴が響いた。
視界の奥、歩道の中央で男が何者かに刺されている。人々のざわめきが怒号へ変わり、空気が一変する。加害者は、フードを深く被った165センチほどの細身の女性。その動きに迷いはなかった。レイラ=エマ=シエルだ。
——さすがだな……
ジャックは小さく呟いた。
レイラと刺された男の顔には明らかなノイズが走っている。輪郭が歪み、照合すらできない。F Eウィルスによる影響だ。監視カメラ映像、第三者の視認記録、その全てに作用する偽装ウィルスである。彼女自身が開発し、今ではノマドの間でも出回っている。
(顔が映らないというだけで、ここまで印象が変わるとは。いや、それ以前に、『顔が視えないこと』に気付かせないほど自然だ)
これほどの精度で、記録から個人の特定情報を排除できる技術はそう多くない。しかも、それを現場に応じて自在に適応させる手際は、並のノマドに真似できる芸当ではない。
(死贈業。死への感覚が希薄になった今日、完全義体に移行する際にだけ許された限定的な合法の殺し……)
死贈業は依頼者、仲介人、実行者という明確な三者構造のもとで運用される。実行の事前にはC S B Iと市警への通達が義務付けられている。混乱と誤認を防ぐためだ。
繁華街ルーキス・アベニューでの実行となれば、多数の目撃者は避けられない。必然的に、捜査局の連携がより重要となる案件である。それだけに、現場対応の難しさも増大する。
(その〝手間〟を、最初から省いている)
F Eウィルスの投入は、目撃者の証言も、映像照合も、すべて無力化する。まるで最初から〝顔のない〟実行者だったかのように、証拠が整ってしまう。一般人に対して記憶を修正したり、死贈業であったと説明する必要がなくなるのだ。
(……だから、彼女に依頼された)
ノマドの中でも、この手のウィルスを自ら開発・運用まで出来る者は限られている。出回ってはいるが、基本的には廉価版だ。時間が経てばその効力は消えてしまう。レイラの仕事ぶりはもちろん、このF Eウィルスの発明は彼女を『S級ハッカー』と評価するに至った大きな要因だ。
(だからこそ納得できないんだ。俺たちは現場検証の際、死体はマルト=ジンカワで間違いないと確認した。しかし、その後、その死体はイェンス=エカスベアのものだと発覚。彼女が死贈業依頼を利用して死体を偽装した、として拘束された)
ジャックは今回の事件について初めから疑問を抱いていた。仮にレイラがこの依頼を利用してイェンス=エカスベアを殺害したとして、その事実が外部に漏れるようなミスを、彼女が犯すとジャックは思えなかったのだ。
(もし彼女が犯人なら、自分の手で殺した相手の正体がバレるような不始末は避けるはずだ。それだけの技術と慎重さを持ち合わせているからこそ、彼女は常に結果を残してきた)
ジャックは映像を少し前に戻す。マルト=ジンカワが1人で歩いている映像を観察しながら、思考の糸を手繰るように推論を編み出していく。
(このマルト=ジンカワと思われる人物、もし、ノイズの奥の顔がイェンス=エカスベアだったら……?)
再びジャックは時間を進めて被害者が倒れ込む瞬間に一時停止する。口元を手で覆いながら思考を展開する。
(マルト=ジンカワとレイラ=シエルは手を組んでいて、イェンス=エカスベアを殺害した。この場合、マルト=ジンカワは彼女を売ったことになる)
ジャックは目の前にレイラに関する資料ファイルを同期して表示させる。S C S I D加入に関する記述のところでスライドを止める。
(だが、シンドウ社の不祥事としてマイナスになるこの情報を流した意味が分からない。他にも腑に落ちない部分がある。レイラに抵抗の素振りがない。あの彼女が)
——それならば、だ
ジャックは、虚像の奥に隠された〝真実〟を見抜こうと、じっと男の姿を凝視した。
(このノイズの下がマルト=ジンカワ、しかし中身がイェンス=エカスベアだった場合……)
その考えに触れた瞬間、背筋を撫でるような冷たいものが這い上がってくるのを感じた。冷静になるように一度、深呼吸をして頭の中で丁寧に整理し始めた。
(つまり、イェンス=エカスベアが事前にマルト=ジンカワを拘束し、すり替わっていたとしたら?)
ジャックは、まるで犯行の順をなぞるように思考をたぐり寄せる。脳内で仮説の構図が明瞭になっていく。
(その場合、ジンカワは既に殺されていた可能性が高い。中枢神経系、人格の中枢ともいえる部位を抽出し、別の人工脳に置き換えて遠隔操作義体として死贈業に利用した)
それは倫理的にも技術的にもギリギリの手法だ。だが、もしエカスベアがそれを可能とする技術支援を受けていたとすれば。
(そして、エカスベア本人はジンカワの姿に近付けるよう義体の外見を整形し、偽装した状態でシンドウ社に潜り込んだ……)
ジャックは背筋を伸ばし、無意識のうちに手を組む。思考の末に辿り着いたその像は、現実よりも現実味を帯びて迫ってきていた。
拘置所でのレイラの冷静な表情が浮かぶ。
(現在のマルト=ジンカワはイェンス=エカスベアということになる。反シンドウ派である彼ならシンドウ社に打撃を与えることは願ってもないチャンスだ。レイラ=シエルに関しては取引、もしくはマルト=ジンカワとして接して騙しているのであればあの余裕も納得できる)
ジャックは脳裏を掠めたその仮説に、ぞっとするような手応えを覚えた。
(最後の可能性としては……イェンス=エカスベアが、マルト=ジンカワの死体を自分のものとして偽装した可能性だ)
静かに、慎重に、ジャックはその線を頭の中でなぞる。
(この場合でも、エカスベアは生きているということになる。そして現場に残された死体は、実際にはマルト=ジンカワ……)
理屈は通る。技術的にも実行可能だ。F Eウィルスによって視認は遮断され、ナノマシンによる体内認証データも書き換え可能な時代だ。死後の検視が完全に正しいとは限らない。
(……それでも俺は、これは最もあり得ないと感じている)
そう強く思った自分に対して、ジャックは改めて問いを立てた。
(なぜだ? なぜこの仮説だけは直感的に否定したいと感じる?)
答えはすぐに出た。
(シエルほどの人間が、そんな初歩的な偽装を見逃すはずがない。理屈ではない。俺の魂が、彼女は〝騙されない〟と告げている)
拘置所で、あの琥珀色の瞳が一瞬だけジャックを見据えたときの感覚が蘇る。ジャックはこの第三の仮説を、自らの手で『棄却』する。
(これは違う。俺のイメージと合わない)
だがそれは無意識のうちに、ジャック自身がレイラを信じているという証左でもあった。
——この映像、もっと前のものは生成できるか? 被害者の顔にノイズが乗る前のものが欲しい
ジャックの指示で時間が巻き戻る。被害者がルーキス・アベニューとミコ・ストリートが交わるよりも、もっと前の道を歩行している映像で止まる。
「マルト=ジンカワの顔だ」
ジャックの中で淡い推測に確かな輪郭が形成されていく。
(おそらくこのマルト=ジンカワはイェンス=エカスベアだ。1人で実行することは難しいと思われる。が、反シンドウ派の企業や政治家が関わっているのならばレイラ=シエルやマルト=ジンカワの情報は得られるだろう。シンドウ社の中に協力者がいることも大いにある。ファンスはこれらの思惑に巻き込まれたのか、利用されたのか、そんなところだろうか)
「ユニタス接続を解いてくれ」
ジャックの指示によってユニタス接続が停止される。ジャックは現実に戻り、ソケットから端子を取り外す。頸椎をさすりながらユニタス接続用チェアから降りた。
(ユニタス接続をする度にこの違和感は拭えないな……)
ユニタス接続は自身の感覚を仮想空間に深く沈ませる。長く接続を続ければ自身との境界が曖昧なものとなって電脳にエラーが生じ、最悪の場合、焼き切れる。そのため、ユニタス接続の長時間使用は推奨されていない。
ジャックがハイセキュア・データリンクルームを退出すると同時にアルヴァから連絡が入る。
——イェンス=エカスベアのメディア資料、パッケージ化してお前の端末に送っといたぞ。必要なものがあればまた言ってくれ
——ありがとう。助かる
ジャックはデスクに戻ると、背もたれに軽く体を預けた。肘掛けの端に指を滑らせると、内蔵された分析支援ユニットが静かに起動を始める。肘掛けがスライドし、ナノパネルが立ち上がる。
「分析支援ユニット『ASU-04』起動。対象:アルヴァ=イーネン=ハフト提供資料パッケージ」
音声指示に応じて、椅子の周囲にホログラムのデータフィールドが展開された。アルヴァが独自にまとめたイェンス=エカスベア関連資料が立体構造で浮かび上がり、ニュース映像、討論番組での発言、インタビュー記事、SNSでの投稿、ストリーミング配信のキャプチャログなどが時系列で整列していく。範囲は過去6年間、エカスベアが軍を退役して以降の全てだ。
「発言内容の文脈分類、主張の推移をグラフ化、感情表現の変化も抽出。企業別批判頻度のトラッキングも可視化。論調の揺れがあればマークしろ」
命令と同時に、膨大なデータが静かに流れ始める。ユニットが自動解析を行い、ホログラム空間には折れ線グラフ、ヒートマップ、トピッククラスタが重層的に浮かび上がっていく。発言のトーンは色によって分類され、対象企業のロゴが並ぶインターフェースでは、批判の濃度が赤、擁護の傾向が青で可視化された。
映像の1つではイェンスが朗らかに笑い、別の映像では固い表情で政府機関のあり方について熱弁している。その振れ幅に、ジャックは眉をわずかに動かした。
(……この温度差、演出か、それとも別の理由か)
ジャックは静かに、ホログラムの中央に立つイェンスの姿を見つめる。まるで、亡霊と対話するかのように。
「彼の主張には矛盾が大いにあったように私は感じていたけど」
拘置所でのレイラの言葉が不意にジャックの脳裏に浮かぶ。ジャックは目を閉じて頭を左右に振った後、資料に集中する。
6年前、イェンス=エカスベアが軍を退役し、公の場で発言を始めた当初、彼の論調は一貫していた。
「企業が武力を持つことは、国家の脅威となる」
討論番組での発言、専門誌での寄稿、SNS上の投稿。いずれもその主張は揺るぎなく、元軍人としての誇りと矜持が滲んでいた。犯罪捜査や治安維持の役割は本来、国家に帰属するべきであり、企業がそれを担うのは越権であると語っていた。
4年前、O.W.Lによるシンドウ社ハッキング事件が発生する。人工血液『ネクタル・ブラッド』に関する情報が流出し、独占市場が崩壊、複数の競合企業が台頭する転換点となった。
その直後のエカスベアは、シンドウ社の脆弱性と責任を厳しく糾弾していた。
「これが企業部隊の限界だ。大規模犯罪を前に、警察機構でもなく、軍でもなく、私企業が防ぎ切れるはずがない」
(しかし……)
ジャックは分析支援ユニットのタイムライン上で表示された、その後の発言群に目をやる。
(彼の関心は『企業部隊の是非』ではなく、『シンドウ社の危険性』そのものへと移っていった。他企業に対する批判の頻度は急激に減少、そして……)
ジャックは分析ユニットが示した『直接的に批判を行った企業』のグラフを見る。
(ニューリンク社。ただ1つ、この企業名だけが抜け落ちている)
さらにユニットが自動抽出した音声データでは、エカスベアはニューリンク社の義体技術や医療支援政策について『次世代の公共福祉のモデル』と評していた。明らかに他の企業に対する論調とは異なるトーンだ。
(……露骨すぎる)
ジャックは眉間を押さえ、別の視点を指示した。
「表情筋パターン、歩行時の重心移動を3Dモーションログから異常変化を検出しろ」
映像が切り替わり、彼の過去のTV出演時の映像から、僅かな体の揺れや指の癖といった細部の挙動が比較対象として浮かび上がる。失踪直前までは安定していたデータが、微細に変化していた。
ユニットのAIが補足的に解説を始める。
「対象は過去に『完全義体化』を否定する立場を取っていましたが、動作解析より、義体調整期に見られる微細な運動パターンが観測されています」
(……完全義体化を隠した。シンドウへの批判を強め、ニューリンクだけを称賛して)
ジャックは静かにホログラムの再生を止めた。浮かび上がるエカスベアの立体映像の表情は笑顔だが、どこか不自然に凍りついたような印象を与えていた。
(ニューリンク社……奴は、そこに取り込まれたのか)
ジャックは椅子を傾けたまま、宙に浮かぶ分析グラフの一点をじっと見つめていた。彼の中で、点と点が、ゆっくりと線になり始める。
ホログラムの光がゆらめき、静かな部屋の壁に滲むような影を落とす。その淡い残光の中で、ただ一つ、ジャックの瞳だけが動かなかった。
——まるで、次に狙いを定める照準のように。
イェンス=エカスベアとニューリンク社の繋がりを見つけたジャック。
次回、彼が取る行動とは……⁉︎