第7話 反響する名
ナイ課の端末に、一件の通知が届いた。
【再観測対象:No.017 “遊歩者”付近にて不明ノイズ発生】
【分類担当:瀬野晴真】
「……俺?」
デスクに腰を下ろしたばかりの朝。
カップに注いだコーヒーが、かすかに揺れていた。
「ってことは……“あれ”か。例のトンネルの子?」
ミカが隣で呟く。
少し前、あのトンネルで遭遇した少女――
俺が“遊歩者”と仮称を与えた、分類不能の存在。
「再観測って、再出現ってことですか?」
「いや、正確には“記録の残響”って報告になってる。
君の分類ログに沿って、似た反応が再現された。
ただ、観測カメラには何も映っていない」
「何も……?」
「文字通り、空っぽさ。
“遊歩者”がいるというより、君の記録に反応して空間が“再生”してる。
たぶん、名前そのものが、“居場所を作った”ってことだ」
九重が、ぼそりと補足した。
***
現地に到着したのは、数時間後だった。
あのトンネル。あの風景。
見覚えがあるはずなのに、何かが違って見える。
「……誰か、いたような気配がする」
ミカが静かに言った。
「でも、“誰”だったのか思い出せない。
名前を呼ぼうとすると、喉の奥がもつれる感じがする」
「俺も……似たような感覚です」
俺は手帳を開く。
“分類”を始めるよりも早く、
記録のページが――勝手に開かれた。
【記録:No.017】
【仮称:“遊歩者”】
【属性:境界】
その文字が浮かび上がった瞬間。
風が止まり、トンネルの奥から“気配”が溢れた。
姿は見えない。
でも、“そこにいる”と、確かに体が感じ取っていた。
(これ……俺がつけた“名前”が、
世界に“居場所”を刻んでしまった……?)
「晴真」
一条が、静かに俺の肩に触れる。
「記録って、終わったらそれで終わりじゃないんだな。
誰かが“見た”ってことは、
その存在がどこかに“残る”ってことなんだろ」
ミカが、ポケットからスキャナを取り出す。
「数値、微振動あり。しかも、分類ラベルに沿った波形。
まるで、“その言葉”をなぞるような動きだよ」
「記録が、……呼ばれてる?」
俺は、一歩前に出た。
トンネルの奥に“何か”がいる気配は、確かにあった。
だが、そこにあったのは“姿”ではなく――“意味”だった。
“遊歩者”。
名もなき存在に、俺が与えた、仮の呼び名。
そのとき俺は、ただ“ラベル”を貼っただけのつもりだった。
けれど今、その名前が“声”になって返ってきた。
まるで、俺の名づけを――
誰かが、呼び返してきたかのように。
***
任務後、局に戻ったあと。
「記録ってさ」
ミカがぽつりと呟いた。
「保存っていうより、共鳴なんだね。
一度つけた名前って、たぶん消えない。
むしろ、ずっと響いてる」
「音波みたいなもんか」
一条が言う。
「誰も聞いてなくても、どこかに残ってる。
いつか誰かが、その“響き”を拾うかもしれない」
「いいね、それ」
九重がソファで笑った。
「名前とは、呼びかけだ。
そして、呼びかけには、応えがある。
君がつけた名が、君を呼び返している――
それだけの話だよ」
「……じゃあ俺、“遊歩者”にもう一回、呼ばれたんですかね」
「違うよ、晴真」
九重は、少しだけ真面目な声で言った。
「君が、“名前に責任を持った”ってことさ。
そしてその“責任感”が、名前をもう一度、響かせた」
俺は、そっと手帳を閉じた。
その表紙の内側には、かすかににじんだ文字が残っていた。
【分類は終わらない。
記録は、響き続ける。】
たぶん、あの“誰か”が書いたものではない。
けれど、確かに、そこにあった。
俺の仕分けた名前が、
もう“俺だけのもの”じゃなくなっていく――
そんな、少しだけ怖くて、少しだけ嬉しい夜だった。