第6話 空白に踏み込む者
ナイ課に、珍しく“正式な通達”が届いた。
九重がソファから起き上がり、封筒を軽く振る。
「直通ルート。上層部からのやつだ」
その言葉だけで、室内の空気が少し変わった。
「まさか……査問?」
ミカが端末を閉じ、冗談めかして眉を上げる。
「可能性はある。だけど今回は、もっと直接的だよ。
対象は――これ」
九重は、俺に封筒を差し出す。
中には一枚の書類と、簡易なログが添付されていた。
内容はこうだった。
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【特別調査通達】
分類ファイル No.000 に関する観測情報の提出を求める。
関連する分類者の記録ログを、速やかに提出のこと。
──中央情報管理局 第六監査班
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「……これって、俺の……」
「そう。“君の”記録にアクセス要求が来たということだ」
言葉の重みが、少し遅れて胸に落ちてきた。
たった一つの“分類されなかった存在”。
沈黙のまま終わったNo.000ファイル。
あれは、まだ“世界に定義されていないもの”だと思っていた。
だが今、誰かが“その沈黙に意味を問おうとしている”。
「しかもこれ……俺の手帳、アクセスされてる……?」
ログには、俺の手帳が外部から“自動同期”された形跡があった。
「誰が、いつ、どうやって――」
「そのへんも、すべて“不明”なんだよなあ」
九重が淡々と補足する。
「しかも今回、ちゃんとお客様もいらっしゃる」
その言葉と同時に、ドアがノックされた。
来訪者は、スーツ姿の男だった。
無機質な表情、無駄のない仕草。
IDを提示する指の動きさえ、まるでマニュアルのようだった。
「中央情報管理局・第六監査班、久世 拓海です。
本日は、ナイ課における分類記録運用の妥当性について、確認に参りました」
「ようこそ、当局一の地味部署へ。
コーヒーでよければ、紙コップしかないけど?」
九重の言葉に、久世は軽く首を横に振った。
「不要です。記録だけを確認できれば、それで充分ですので」
その口調には、“ナイ課そのものへの興味がない”という態度がにじんでいた。
「……私の記録に、何か問題が?」
静かな会議室。
淡々と進む確認作業の途中で、俺はつい口を開いた。
久世は目線だけをこちらに向ける。
「問題ではなく、“特異性”の確認です。
瀬野晴真さん、あなたの記録には“分類者本人の意識を超えた出力”が含まれていますね?」
「……はい。たまに、自分が書いた感覚がない記録が、残っています」
「それは“分類”ではなく、“定義”です。
そして“定義”とは、“世界に意味を上書きする”行為です」
言葉のトーンは冷たくなかった。
ただ、圧倒的に“異なる論理”の気配があった。
「あなたの能力は、“仕分け”ではなく、“観測情報の強制的な意味づけ”に近い。
それが事実であれば、今後あなたの記録は、他部署の承認なしには公開すべきではありません」
「……記録を、制限するということですか?」
「記録とは、真実の保存です。
ですが、“あなたの言葉が世界を揺らす”可能性があるなら、それは“管理対象”です」
息が詰まりそうになった。
でも、それよりも先に言葉が出た。
「……違います。
名前を与えることは、“存在を奪う”ことじゃない。
俺は――存在を、“見つけている”だけです」
一瞬、久世の目が揺れた気がした。
そのとき。
「……なら、俺たちは、それを支える役割だな」
小さな声で一条が言った。
「……同感」
ミカもぼそりと呟いた。
「記録が揺らぐのは、意味があるからだろ。
正しさってのは、数字だけじゃ測れない」
沈黙が落ちる。
それでも、久世はその場で言い返すことはなかった。
「……意見は、上に報告します。
ただ、今後ナイ課の“定義”行為には監査が入る予定です」
そう残して、彼は立ち去った。
ドアが閉まる音が、なぜか遠くに聞こえた。
***
その夜。
ひとりで記録を整理していた俺に、九重が声をかけた。
「まあ、刺激的な一日だったね」
「……俺、何か、やばいことしちゃいましたかね」
「どうだろう。
ただ、ひとつ言えるのは――君が分類した記録が、“外に伝わった”ということだ。
それは同時に、“空白に誰かが踏み込んだ”ってことでもある」
「……空白に?」
「うん。君はこれから、名前のない領域を歩く。
そのとき、名前をつけることが“救い”になるか、
それとも“呪い”になるかは――君次第さ」
言葉は穏やかだった。
だけど、どこかに警告のような響きも混じっていた。
(名前を与えるって、そんなに……)
俺は、手帳をそっと閉じた。
そこには、さっきの会議で浮かびかけた言葉が、うっすらとにじんでいた。
【仮称:定義干渉者】
俺は、まだ知らない。
この記録が、のちにどれだけ多くの波紋を生むのかを――