第4話 定義の遅延
異能対策局の朝は静かだ。
出勤時間も、仕事の開始タイミングも、ナイ課には決まりがない。
つまり――今日も俺は一番乗りだ。
「晴真、出動だよ」
ソファに寝転がっていた九重が、手帳を顔に乗せたまま声をかけてくる。
「……俺、まだコーヒー一口も飲んでないんですけど」
「今後、異能は時間を選んでくれないからね。備えておこう」
軽口とも助言とも取れる言葉に苦笑しながら、端末を閉じる。
「現地で“反復出現”が確認された。
映像記録は正常、反応も明確。ただし分類値が妙にブレてる。
今回は、君に先行分類を任せるよ」
「了解しました」
そう答えながら、少しだけ背筋が伸びるのを感じた。
任されるということは、信頼されているということだ。
――ようやく、チームの一員として認められてきた気がする。
***
現場は、郊外の工業地帯跡地。
放棄された倉庫のひとつに、“異能反応”が断続的に発生しているという通報があった。
「まーた廃墟かよ……異能って、オシャレなカフェとかに出現しないのかね」
ミカが端末片手にぼやく。
書類越しにクスッとしそうになるが、真剣な場面なので我慢する。
「倉庫の裏。そこのパイロンあたりが反応源だ。定点観測カメラにも何か映ってる」
トタンの屋根が軋む。
灰色の空、朽ちた看板、風に揺れるコーン。
その中央に、彼女は立っていた。
女子学生のような姿。
だが、顔が見えない。……いや、“記憶に残らない”というほうが近い。
「観測値は安定。でも反応がちょっとズレてる。タイムスタンプが微妙に後ろ倒しになってるのよね」
ミカが画面を指差す。
「映像としては“今”だけど、内容が数分前の再生みたいな……そんな感じ」
「再投影……というより、これは“記録の拒否反応”かもな」
一条がぽつりと呟く。
珍しく喋ったな、と思うと、ミカがすかさず返す。
「お、しゃべった。今日の残り発言回数、あと一回ね」
無言で軽くため息をつく一条。
ミカは満足そうにニヤリと笑った。
***
俺は一歩前に出た。
右手には手帳。異能の感覚に集中する。
(これは……支配系? いや、感応……違う。なんだこれ)
一つひとつ当てはめていくが、
分類ラベルが、浮かんだ瞬間に“消えて”いく。
(分類できない?……いや、“分類を避けられてる”?)
言葉が滑る。
文字が定着しない。
まるで、俺の異能そのものが“拒否されている”。
「……分類が、できません。
というより、分類しようとした瞬間に“情報の像”が変化しているような……」
「語りかけようとすると言葉が変わる相手、ってこと?」
ミカが言う。
「まさにそれです。例えるなら、“名前をつけた瞬間に名前が逃げていく”感覚です」
一条が一歩前に出た。
対象との間に立ち、視線を遮るように腕を伸ばす。
その一瞬で、空気が戻った。
「……助かりました」
俺が息を整えて礼を言うと、一条は無言で片手を挙げ、軽く“ドンマイ”のようなジェスチャーをしてみせた。
「いや、そのポーズいる? ていうか喋れよ、たまには」
ミカが呆れたように突っ込む。
一条は、やっぱり無言だった。
***
「焦らなくていいさ、晴真くん」
九重が、いつもの調子で言う。
「分類に失敗したら世界がズレる……まぁ、大丈夫、君の人生もたぶん元からズレてる」
「それ、フォローですか?」
「もちろん。気の利いたジョークと見せかけて、核心を包むのが俺の仕事だから」
どんな職務説明書だよ……と思いながら、俺は深呼吸する。
「君の力は、“言葉で世界を確定させる”ものだ。
だからこそ、言葉を“遅らせる”ことも覚えておくといい」
「……遅らせる、ですか?」
「すぐに定義しようとするな。
まずは、“名前の前”を見ろ」
***
俺はもう一度、彼女――対象を見つめた。
姿は相変わらず曖昧だった。
けれど、ふっと輪郭の“向こう側”が見えてくる気がした。
(今は、名づけない。ただ、見るだけ)
そう思ったとき。
手帳のページに、かすかな文字が浮かんだ。
【観測対象:不定形(未定義)】
【形態:時間投影型】
【属性:再帰】
【仮称:“エコー”】
その文字は、“俺が書いた”という感覚がなかった。
手帳が先に書いて、俺が後から“読んだ”。
そんな感覚。
(これが、“遅れて届いた名前”)
名が刻まれた瞬間、彼女の姿は、静かに空気へと溶けた。
まるで、“名前がついたことに満足して、帰っていった”ようだった。
***
帰局後。
報告書をまとめていると、分類ファイルのひとつに妙な違和感があった。
「ん……?」
記録者の署名欄に、うっすらとインクの跡。
だが、それは俺の筆跡じゃない。
明らかに、“誰かが先に名前を与えようとした形跡”。
乾ききった文字。薄く残った記録。
記録者:九重 陸
「……まさか」
呟いた言葉は、誰にも聞かれなかった。
分類とは、存在に名前を与えること。
けれどその名前は、時に――“過去からも届く”。
俺はファイルを閉じて、静かに息を吐いた。