第30話 S-09の記録
ナイ課の空気が、さらに一段深く、沈んだ。
朝、セレクターがナイ課に現れた。
昨日と同じ無表情。昨日と同じ冷静な声。
だが――
その手に持っていた端末が、違っていた。
「分類者・瀬野晴真によるログ、再検査項目を追加」
「対象:記録連動異常コード“S-09”との関連性」
ミカがわずかに表情を曇らせる。
「……S-09? あんまり聞かない分類コードね」
テンヨウが、ふと眉を寄せた。
「……そのコード、記録者IDと一致してる」
俺は一瞬、聞き間違いかと思った。
「記録者、って……セレクターの?」
セレクターは、何も言わなかった。
ただ静かに、手帳を閉じた。
午後。
端末室で、ミカとテンヨウがファイルを洗っていた。
「分類コード【S-09】――かつての記録者ID。
記録構造不適合により、現在は使用停止中」
「記録構造不適合?」
「ログに書いてあるのはそれだけ。
詳細は全部、黒塗り。
関係者ログも、“存在しない”って判定されてる」
「……記録自体が、記録されてないのか」
「いや、記録“されなかった”んだよ。
当時の分類対象も、記録者も、すべて――名前が残ってない」
テンヨウの声が、わずかに震えていた。
夕方。
控室に一条がいた。
窓際に立ったまま、空を見上げていた。
俺がそっと話しかける。
「一条さん……“S-09”って、ご存じですか?」
しばらく沈黙の後――
一条は、短く答えた。
「……昔、一人いた。“記録を超えようとした記録者”が」
「超える……?」
「分類できない存在を、“記録するだけじゃ足りない”と思ったらしい。
だから……“名前”を与えようとした」
その言葉に、思わず息を飲む。
「それって……俺と同じ……」
「だが、その記録は消えた。
その“名前”も、“記録”も、もうこの世界には存在しない」
一条はそれだけ言って、また窓の方へ向き直った。
夜。
シロがセレクターの前に立っていた。
無言のまま。
ただ、手帳のページを見ていた。
セレクターは何も言わずに、それを差し出した。
ページは空白だった。
過去のログは、何も残されていなかった。
だが――
シロが、そっとそのページに手を添えた瞬間。
ページの上に、微かに揺れる文字が浮かんだ。
【記録不能体 分類試行中】
【対象:不明】
【命名:────】
セレクターの瞳が、一瞬だけ揺れた。
その目が、かすかに伏せられる。
ページを閉じようとして、指がわずかに止まった。
「……君は、あのときと同じ……」
その声は、いつもの冷静さから外れていた。
どこか遠い記憶に触れて、わずかに滲むような。
「なぜ……また、ここに現れる……」
シロは何も答えなかった。
だが、セレクターの指先は微かに震えていた。
そのページを見ていたのは、晴真だけじゃない。
ナイ課の全員が、その“名もなき記録”に、目を奪われていた。
深夜。
俺の手帳のページに、そっと文字が浮かぶ。
【観測記録:S-09】
【記録構造:一時停止】
【分類不能対象:ログより消失済】
そして、その下に――
【記録は、まだ終わっていない】
俺はしばらく、その一行を見つめていた。
書いたのは誰か――答えはどこにもなかった。
けれど、不思議と確信だけはあった。
これは、たぶん“誰かが残した最後の記録”。
いや――
もしかしたら、“これから続く誰かの記録”なのかもしれない。
俺はそっと、ページを閉じた。




