第29話 この世界で、生きていいですか?
ナイ課の空気が、変わった。
誰かが来るというだけで、
部屋の温度は、こんなにも違って感じられる。
「中央監査局より。
本日より、分類記録の再調査に入ります」
淡々としたその声。
黒い手袋と、記録装置――そして、無表情。
セレクターだった。
「対象:No.なし、仮称“シロ”」
「および、分類者・瀬野晴真の記録ログにおける構造的異常を確認」
「従って、本日より“記録者としての適格性”も合わせて監査対象とする」
ミカがわずかに顔をしかめた。
テンヨウは、静かに晴真の背中を見ていた。
俺は、深く息を吸って答える。
「了解しました」
昼下がりの記録室。
ミカがタブレットを操作していた。
「またログが消えてる。昨日記録したはずの構文が、
“存在していなかった”って出てる」
「私の追録も、空回りする。
……視たはずの過去に、“視ていない映像”が混ざる」
テンヨウが言う。
「それ、……どこかで、“誰かが見たはず”の視点?」
「……いいえ。
“誰にも見られなかったはず”の視点」
一条は、窓際に立ったまま呟いた。
「……“声”が存在していない。
聞こえないんじゃない。“存在してない”んだ」
「つまり……この子は、喋ること自体が――」
ミカが言いかけて、ふと黙る。
俺がそっとシロの方を見ると、
彼女は、静かに俺の手帳を見ていた。
手帳のページ。
俺が、何度も何度も開いてきた、“記録の器”。
今日、それが、書けなかった。
ペン先を近づけた瞬間、インクが弾かれたように滲んで、
そのままページが――真っ白に戻っていく。
まるで、“記録されること”を拒むかのように。
「この手帳、書いたことより――
書かなかったことの方が、多すぎる」
セレクターの声が響いた。
「記録とは、保存ではない。“定義”だ。
あなたが記録を止めたということは――
“定義すること”を拒んだということ」
「……俺は、まだ何も書いていない」
「それは、“書けなかった”のか、“書かなかった”のか」
セレクターの視線が鋭く突き刺さる。
「記録されるべきものを、あなたは保留した。
それは“感情”か、“判断”か、あるいは――“恐れ”か?」
俺は、答えられなかった。
ページの上で、シロの指がそっと止まる。
彼女は、静かにページを閉じた。
そっと、迷うように指を一拍置いてから――
まるで、“書かなくていい”とでも言うように。
その夜、ミカが言った。
「この子、喋れないんじゃない。
“喋ったら、記録を壊す”って、知ってるのかもね」
「じゃあ……それでも彼女が、誰かと“話したい”と思ったとき……」
俺の言葉に、テンヨウが小さく答えた。
「たぶん、“書ける誰か”に、
そのままを記してほしいって、思ってるかもしれない」
そしてその時。
手帳のページに、かすかに文字が浮かび上がった。
まるで誰かの声が、
言葉を使わずに“心だけで届いた”かのように。
【この世界で、生きていいですか?】
その一行を見つめる時間が、長く、静かに流れた。
そして同時に――
セレクターから、新たな通達が届いた。
【分類者・瀬野晴真の記録ログ、再監査継続】
【仮称“シロ”による記録干渉の疑いあり】
【記録体制そのものの見直しを検討中】
俺は、静かにページを閉じた。
その問いに、まだ、答えられなかった。




