第26話 声が、記録を閉じるとき
午前。
非公式ログに、予想外の一言が記録された。
『ありがとう』
ミカが静かに呟く。
「これは……“音声反応”として明確に確認された。
ログの揺れもノイズもない、はっきりとした“発話”よ」
テンヨウが端末を覗き込み、ゆっくり頷いた。
「“言葉”が届いたんだね。ちゃんと、“相手に向けた”言葉として」
俺は手帳を握りながら、その余韻を反芻していた。
ありがとう――
それは、彼が初めて“誰かに向けて”話した言葉だった。
分類も定義も超えて、
“存在を認識された誰か”が、確かに返した一言だった。
***
午後。
「……ログ、沈黙してる?」
テンヨウの呟きに、俺たちは画面をのぞき込んだ。
【分類対象No.005:波形停止】
【異常値:なし】
【構造状態:安定】
【干渉:検出されず】
【現在状態:反応なし】
ミカが小さく息を吐く。
「ログは、完全に静かになった。
でも、“消えた”んじゃない。“落ち着いた”のよ」
「“声を発した”から?」
「そう。“記録された”ことで、“今”を持てた。
彼はようやく、何かを伝えて、そこで止まれたのかもしれない」
テンヨウが静かに頷いた。
「“名前”じゃなかったけど、“声”は届いたんだ。
それで、もう……十分だったんじゃないかな」
ログは沈黙していた。
けれど、それは決して虚無ではなかった。
その“静けさ”には、確かに意味があった。
***
その夜。
ナイ課には、珍しく全員が揃っていた。
「晴真」
九重が、缶コーヒー片手にこちらへ来る。
「これ以上深掘ったら、また中央が動くぞ。
記録を嫌がるやつの名前を引きずり出すのは、“記録者殺し”だ」
「……わかってます」
「わかってねー顔してたから言ったんだよ」
いつも通りの軽口なのに、妙に優しい。
「お前が書いたなら、それでいいだろ?
記録ってのは、“誰が記したか”で、もう意味が決まる」
俺はふっと笑って頷いた。
「……ありがとうございます」
ミカがソファに寄りかかりながらぼそりと呟く。
「あなたの“分類”が、“声”を残した。
……それって、すごく、ナイ課らしいわね」
そして――
一条が、何も言わず俺の手帳を見て、静かに、ひとつ頷いた。
それだけで、十分だった。
***
夜。
手帳を開いた俺は、最後の記録をそっと書き込んだ。
【記録対象:No.005(仮称ハルノ)】
【分類状態:反応停止】
【最終ログ:「ありがとう」】
【記録者判断:分類・記録ともに継続不要】
【備考:存在波形安定/記録終了処理不要】
【記録者:瀬野晴真】
ページの余白に、静かに書き添える。
【彼は確かに、ここにいた】
【声は届いた】
【そして今、静かに息をしている】
ページを閉じる。
それは、終わりではなかった。
でも確かに、一区切りだった。
名前のない記録が、今、静かに眠りについた。




