第2話 ナイ課の居場所
「こっちだよ」
九重に案内されて、俺はエレベーターに乗った。
本庁舎の構造図にも載っていない、地下深くへのルートだった。
「ナイ課は、もともと“なかった”ことにされてた課だからね。
存在が知られていない方が、都合がいいんだよ」
ギィィと金属が軋む音とともに、扉が開く。
そこには、静かな空間が広がっていた。
蛍光灯の明かりはまばらで、天井まで届く書類棚が並び、壁際には小さな給湯室とソファ。
そして、奥にはガラス張りの部屋がひとつだけある。
その中央に立っていたのは――
「うわ、マジで来たんだ、新人」
無造作に髪を束ねた女性が、片手に紙コップ、もう片方の手に端末を持ってこちらを見ていた。
「紹介しよう。彼女が水無瀬ミカ。ナイ課の“測定不能者”だ」
「よう。……まあ、期待しすぎんなよ。ここ、想像以上に地味だから」
ミカは苦笑しながら言った。
その目は、どこか観察者のそれだった。
「そしてもう一人――」
棚の影から、静かに現れた男がいた。
手に持った資料を並べながら、こちらに一礼する。
「一条宗一。異能は“模倣”。現場対応担当。寡黙だけど頼れるやつだよ」
彼は言葉を発さなかったが、その背中からは妙な“重み”を感じた。
***
「ここが……ナイ課なんですね」
「そう。“ナイ”と書いて、名を持たないもの。“存在しない部署”って意味さ」
九重はソファに腰を下ろし、俺の方を見た。
「晴真くん。君はこれから、ここで“分類できない異能”を扱うことになる。
ただ、記録するだけじゃ済まない仕事だよ」
「……昨日の件と関係がありますか?」
「あるよ。“Type-Null”を記録できた君の能力は、ただの分類じゃない。
定義されていなかった存在に、君は“初めて言葉を与えた”。
それは、存在を確定させるということだ」
「つまり……」
「そう。分類じゃなく、“命名”だ。
ある意味、神に一番近い行為かもしれないね。――地味だけど」
彼の言葉には、冗談とも本気ともつかない響きがあった。
***
その日から、俺はナイ課での業務を始めた。
初日は、記録室の棚の配置を覚えるところからだった。
紙のファイル。電子化されていない古い記録。
データベースの端末よりも、むしろ“手触り”で扱う情報が多いのが、この課らしい。
「おい、新人。こっちの棚、属性ごとにざっくり分けといて。
“分類不能”の山だけど、なんとなくでいいからさ」
ミカが指をさして言う。
「“なんとなく”って……。分類するのが俺の仕事ですよね?」
「そ。だから感覚でいいっての。失敗しても怒らないし。たぶん」
俺は苦笑しながら、言われたとおりにファイルを並べ始めた。
作業の合間、ふと棚の引き出しに目が留まった。
中には、装丁の異なる一冊の手帳があった。
ページをめくると、詩のような記述が並んでいる。
『誰にも呼ばれなかった名は、まだそこにいる』
『存在の空白に咲くのは、定義の前の沈黙』
『今日、見た。記録できなかった彼を、見た』
「……詩、ですか?」
「見つけたか」
背後から九重の声がした。
彼は俺の肩越しに手帳を覗きこみ、どこか懐かしそうな表情を浮かべた。
「それは昔、ここにいた誰かが書いたものさ。
名前を持たなかった記録たちを、言葉で残そうとしたんだろうね」
「まるで、誰かを忘れないようにしてるみたいな……そんな感じがします」
「かもね。
……詩っていうのは、記録よりもずっと曖昧だけど、
ときどき、それ以上の意味を持つこともあるんだよ」
その言葉は、どこか重く響いた。
***
業務が終わる頃、一条が無言で記録棚の前に立っていた。
手に取った一冊のファイルを、じっと見つめている。
……その表情は、何かを押し殺しているように見えた。
「何か、気になりますか?」
俺が声をかけようとした瞬間、
彼はファイルを静かに戻し、何も言わずにその場を去った。
(ただの沈黙じゃない……)
俺は背筋に、小さな違和感を感じていた。
***
夜。
一人で残って分類表を確認していたとき、ふと気づいた。
「001番から……999番。えっ……?」
並んだファイル番号の中で、“000番”だけが空白だった。
「欠番……? いや、たまたま?」
気になって九重に聞いてみた。
「000番だけ空いてるんですが……仕様ですか?」
彼は端末から目を離さず、こう答えた。
「仕様だよ」
短いその言葉には、なぜか妙な“重さ”があった。
***
この日、ナイ課に配属されてから初めて知ったことがある。
ここには、
名前のないものが、たくさん眠っている。
そして、
名前を与えてはいけないものも――
確かに、存在しているのだ。