第19話 名を受け取る
廃ビルの上階。
外壁のひび割れから差し込む光が、床に淡く広がっていた。
空間の温度は一定。
浮遊粒子も異常なし。
だが、観測機器のログには、かすかな波形ノイズが記録されていた。
「ここが、再観測反応の発生地点です」
俺は一歩、踏み込む。
長い沈黙の中に、“名前だけが残された存在”の気配を探していた。
No.005――ハルノ。
かつて俺が分類しきれなかった異能者。
名を仮に記しただけで、記録を完了できなかった存在。
「……“誰か”が、確かにここにいたんだ」
俺が呟くと、隣でテンヨウが静かに応えた。
「姿はないのに、何かが“呼ばれてる感覚”がある。
“声が届きかけてる”感じ」
「“記録されなかった声”……かもしれないな」
俺は端末を起動し、空間波形のログを記録し始める。
***
記録によれば、ハルノの異能は“記憶共鳴型”。
観測者の記憶に触れ、対象者の内面を“返すように”記録として残す。
分類中、俺は彼の記録に呑まれかけた。
記憶の奥に、他人の感情が侵入してくる感覚。
その恐怖に、俺は手を止めてしまった。
記録は未完。
名前だけが、“仮称:ハルノ”として記された。
「……俺は、“記録者としての責任”を果たせなかったんだ」
テンヨウは、しばらく黙ってから言った。
「それでも、“名前を残した”んでしょ?
じゃあ、その人は“記録されたかった”んじゃない?」
俺は端末を握り直し、ゆっくり頷く。
「……今度は、ちゃんと最後まで記録するよ」
***
空間ログが変動した。
波形がざわめき、“人の形”に近い揺らぎを作る。
【観測波形:人型輪郭/非視認性】
【分類:既存属性と不一致】
【記録傾向:共鳴型構造に類似】
【接続:不完全】
「――来るぞ」
俺がそう言った瞬間、
言葉ではない“圧”が、頭の奥に流れ込んでくる。
音でも映像でもない。
でも、確かに“伝えようとする感情”があった。
それは――問いかけだった。
『まだ、僕を“誰か”にしてくれるの?』
俺は息を呑んだ。
これは、“名前を呼ばれること”への期待。
かつて分類されかけ、でも分類されずにいた存在が、
もう一度、“誰かでありたがっている”。
「……ああ。
今度は、“記録者として”最後まで付き合う」
その瞬間、手帳のページが震えるように光った。
【No.005:再観測反応】
【仮称:ハルノ】
【状態:接続中(言語未使用)】
【補足:共鳴型だが分類不能要素を内包/記録再開準備可】
テンヨウが、ゆっくりと口を開く。
「“声にできない想い”も、記録に残せるの?」
「……残す。俺の異能が“分類”だから。
“名前を見つけること”が、俺にできる唯一のやり方だから」
テンヨウは少し笑って、こう言った。
「じゃあ、“声を聞く”のが君のやり方なんだね。
誰も言葉にできないものを、名前という形にして、残す」
「……そんなにかっこよくはないよ。
ただ、俺が“逃げなかった記録”を、初めて残したいだけだ」
***
調査を終え、廃ビルを出た。
夕焼けがビル群の隙間を照らしている。
テンヨウは沈黙のまま歩いていたが、不意に立ち止まった。
「……彼、まだ自分の名前を“言ってない”んだよね?」
「うん。俺が勝手につけた、“仮称”のまま」
「じゃあ、本当の記録は、まだ始まってないんだ」
「……ああ。
次は、彼の口から“名前の続きを聞く”ための再分類だ」
テンヨウは目を細めた。
「それって、君の記録じゃなくて、彼の“自己紹介”だね」
俺はふっと笑った。
「いいかもな、それ。
“名を与える”だけじゃなく、“名を受け取る”。
記録って、きっとその両方なんだと思う」
ページには、まだ余白が残っていた。
その余白が、きっと次の声を待っている。




