第16話 その記録、異常につき
ナイ課の朝は、静かだった。
ファイルの棚を閉じる音、コーヒーメーカーのかすかな蒸気音、
ミカが椅子をくるりと回して書類を渡し、九重がそれを受け取る。
何も変わっていない――
けれど、何かが違っている。
それを言葉にできないまま、俺は手帳のページをめくった。
***
「……で、通知が届いたのが、今朝?」
「うん。“記録体系逸脱の疑いにつき調査中”だってさ」
ミカがモニターを回して見せてくる。
画面には、淡い青の背景に、機械的な赤字が並んでいた。
【記録対象:分類No.014】
【記録異常:既存属性体系との整合性逸脱】
【分類者:瀬野晴真】
【監査状態:進行中】
「……予想はしてたけどね」
九重がカップを置いた音が、部屋に吸い込まれていく。
「テンヨウの件だね?」
「うん。記録できなかった存在を、俺が“名づけた”から。
しかもそれが、正式な分類ラベルじゃなかったことが問題視されてる」
「でも、それ以外の方法じゃ記録できなかったでしょ」
「……そうなんだよね」
ミカは椅子を回しながら、ふっと笑う。
「記録って、本来“事実を写すだけ”だったはずなのに。
君、いつの間にか“事実の輪郭ごと描こうとする”ようになってるよ」
「否定は……できないかも」
***
そのとき、一条がドアを開けて入ってきた。
何も言わず、掲示板を一瞥してから、
自販機の缶を手に取り、俺のほうに一歩だけ近づいてくる。
「……監査、入ったのか」
頷くと、一条は缶のプルタブを開けただけで、それ以上何も言わなかった。
「うん、それが一条さんなりの“気遣い”ってことで解釈しよう」
九重が、肩をすくめながら笑う。
「でもさ、ああいう空気、今はちょっとありがたいよな」
「……うん」
「セレクターってさ、“言葉がすべて”って思ってる節あるじゃん。
でもさ、記録者って、むしろ“言葉にできないもの”をどう残すかに悩む生き物だよね」
「……それは、確かに」
***
昼前、テンヨウが資料室から戻ってきた。
「おかえり。どうだった、初めての棚整理」
「……意外と面白かった。
でも、名前が書かれてない箱があって、ちょっと……怖かった」
「たぶん、昔の案件だね。
中には、“名前をつけること自体が危険”とされたものもあるから」
テンヨウは、静かに頷いたあと――
ぽつりと呟いた。
「……僕も、また“記録から消される”の?」
「それは……正直に言えば、わからない。
でも俺は、“名前を記した”んだ。
だから消されたとしても、それはもう、“存在した”ってことなんだよ」
テンヨウは、小さく息を吐いて笑った。
その笑顔を、俺はページに書き留めたくなった。
***
午後、ナイ課に中間報告が届いた。
【記録監査・暫定報告】
【分類No.014:記録継続許可(暫定)】
【備考:属性定義において“機械的処理不能”との判定あり】
【補足:分類者の判断に“感情的干渉”が含まれる可能性を本部は注視中】
「“感情的干渉”ねぇ……」
ミカがモニターを指さしながら言う。
「それ、もう“記録者が人間であること自体が問題”って言ってるようなもんだよね」
「……じゃあ、記録者って、何になればいいんだろうね」
俺の言葉に、誰もすぐには答えなかった。
「晴真くんってさ、いつも“正しさ”と“温度”の間で揺れてるじゃん?」
九重が、いつになく静かな声で言った。
「でもね、それが君の記録の“質”なんだよ。
どっちにも振り切らない、その曖昧さが、きっと誰かを救うんだと思う」
「……そう、かな」
「そうさ」
九重はにやりと笑ったあと、俺のコーヒーに砂糖を三つぶち込んだ。
「甘すぎるだろ……!」
「大丈夫。記録者の胃袋は強い」
「初耳なんだけど!?」
テンヨウが笑った。ミカが肩をすくめていた。一条は、やっぱり無言だった。
でもその沈黙すら、今はちょっと温かかった。
***
夕方、俺は一人で資料庫にいた。
No.006――かつて自分が分類した異能対象。
記録は済んでいたはずなのに、
なぜかそこには“誰かの手による訂正”の跡があった。
【属性:干渉型】→訂正【属性:依存型】
「……誰が書き直したんだろう」
「私、だったかも」
背後からミカの声がする。
「その案件、君が最初に記録した頃のだったでしょ?」
「……たしかに。でも、どうして“依存型”に?」
「干渉型ってのは、“対象に影響を与える力”でしょ?
でも、あの子は記録者の存在がなければ成立しなかった。
つまり、力の根源が“君”だったってこと」
「俺がいたから、異能が生まれた?」
「そう。
だから、“分類者がいたことで成立した異能”って意味で、“依存型”に書き換えたの」
ミカは、そっと笑って言った。
「テンヨウも、そうかもしれないよね。
君が“名前を与えた”から、存在として成立した。
つまり、分類不能だった存在に“依存してる記録”ができたってこと」
「それって……おかしい話だよね」
「でも、そういう記録があってもいいんじゃないかな。
人間が記録するんだから、人間にしかできないことがあっても」
俺は頷いた。
そして、手帳の空白ページに――
今日の記録を綴った。
【記録:分類No.014 “テンヨウ”】
【状態:記録継続中】
【備考:……名前には、温度がある。】
その記録が正しいかどうかは、まだ誰にもわからない。
でも、少なくとも俺たちは――
今日をちゃんと、生きた。
ページは、静かに閉じられた。




