第15話 記録のない朝
ナイ課に、朝が来る。
それは、いつものようで、少しだけ違う朝だった。
「……おはよう」
毛布をぎゅっと握ったまま、眠たげな少年がこちらを見る。
昨日、仮の滞在許可が下りたテンヨウ――
かつて記録されず、名前すらなかった少年だ。
「よく眠れた?」
俺が声をかけると、彼はこくんと頷いた。
「……変な夢、見た気がするけど……思い出せない」
「そっか。でも大丈夫。
起きてすぐ思い出せない夢は、たぶん“無害”なやつだから」
「そう、なの?」
「うん。“ヤバいやつ”は目覚めた瞬間に『うわっ……』ってなるから」
テンヨウが、小さく笑った。
……表情があるだけで、安心する。
「じゃあ、顔洗って着替えようか。
ナイ課のメンバーに、ちゃんと挨拶しておこう」
「……うん」
***
午前九時。
俺とテンヨウは、ナイ課へ出勤した。
「おはようございまーす」
「……あれ?」
一番乗りはミカだった。
テンヨウを見るなり、ふっと目を細めて笑う。
「おはよう、テンヨウくん」
テンヨウは少し戸惑ったが、俺の顔を見てから小さく返した。
「……おはよう、ございます」
その声はまだ弱かったけど、ちゃんと届いていた。
「へえ、挨拶できるんだ。偉い偉い。
最初のころの晴真より、ずっと人間らしいじゃない」
「え」
「データと会話してるのかと思ったもん。反応がAIみたいで」
「さすがにひどくない!?」
テンヨウが、くすっと笑った。
……この温度、大事にしたい。
そこへ、一条が入ってくる。
「おはよう」
相変わらずの短い一言。
テンヨウを一瞥して、目を細める。
その表情は、やわらかかった。
「……」
「おはよう、ございます」
テンヨウも、ちゃんと返した。
一条は無言で頷くと、自販機へと向かっていった。
「……あれで、好意的な反応だからね」
「えっ、そうなの?」
「無言でうなずく=“歓迎”っていう、一条式言語があるのよ」
「むずかしい……」
「慣れればなんとかなるよ。私は三週間かかったけど」
「……長っ」
ミカとテンヨウが並んで笑う。
なんだか、いい感じに馴染んでる。
最後にやってきたのは、九重。
「あー眠。おはよー……って、ん?」
彼はテンヨウを見るなり、にやりと笑って手を差し出した。
「おー、お初。ナイ課の空気をかき回す“新風”くんかな?」
テンヨウは一瞬戸惑ったが、おそるおそる握り返した。
「……変な人、ばっかりです、ね?」
「でしょ? でも、“普通”な人って、何も起こさないんだよね。
ナイ課はその点、イベント密度が高いから楽しいよ?」
「……うん」
「てことで、テンヨウくん初任務。
“飲み物くじ”を引いてください!」
「えっ」
「冷蔵庫にランダムで入ってるドリンクから一本引いて、みんなに振る舞うの!
ただし、ハズレは“焼きナスラテ”です」
「なにそれ!?」
テンヨウが本気で引いてた。
「これは……晴真の仕事だよね?」
「なんでそうなる!?」
「“リアクション芸の正統後継者”としての実力、見せどころじゃない?」
「いやそんな称号、誰も望んでないし!?」
テンヨウが笑いながら、俺に一本手渡してくれた。
***
午後。
みんなが各自の業務に戻る中、テンヨウは静かに席でノートを広げていた。
「何してるの?」
「……今日のこと、ちょっとだけ書こうかなって。
うまく書けるか分からないけど……」
「いいと思う。
むしろ“書けなかったこと”も、あとで見返せば立派な記録だよ」
「……うん」
字はたどたどしいけど、ちゃんとページが埋まっていく。
それは、“この場所にいた”という証だった。
***
夕方。一条がふとテンヨウに近づいて、
ポケットから小さなガジェットを取り出す。
「……これ、使っていい」
「え?」
「文章……打つの、慣れてないなら。
こっちの方が、やりやすいかも」
「……ありがとう」
それ以上何も言わずに去っていく一条。
テンヨウは静かに、端末に手を伸ばす。
「あの人……やさしいね」
「うん。“無言でやさしい”って、ナイ課では最上級の親切なんだ」
テンヨウは、端末をそっと胸に抱えた。
***
夜。
テンヨウが仮眠スペースに入っていったあと、
俺はひとり、手帳を開いた。
今日という一日を、どう記録するか――少し悩んで、ひとことだけ書く。
【記録:今日は、誰かと“普通に過ごせた”日だった】
その下に、そっと言葉を添える。
【それは、すごく特別なことだと思う】
ページは光らなかったけれど、
それでも、“記録のない朝”は、確かに存在していた。
ナイ課の夜が、静かに深まっていく。




