第12話 記録のない時間
ナイ課に静かな時間が流れていた。
分類通知はゼロ。
外勤指令もなし。
本部からの監査も――今日は、届いていない。
「……今日ってなんか、“開店休業状態”って感じですね?」
俺が思わず口にすると、ミカが資料から顔を上げた。
「なかなかうまいこと言うわね」
ミカはスキャナを片手に、棚の資料ファイルを整理していた。
こういう日にもデータ整理を欠かさないあたり、彼女らしい。
「でもまあ、そう。今のところ、ナイ課に通知は来てない。
中央は何か大きな再編やってるみたいだし、こっちには一時的に波が来ないのかも」
「へえ……。それ、何で知ってるんです?」
「情報部の同期から聞いた。非公式だけどね」
ミカはファイルを棚に収め、ふっと微笑んだ。
「こういうときは、ちゃんと休むのも仕事のうちだよ」
***
九重はというと――
「……ってわけで、今から“ランダム飲料くじ”を始めまーす!」
床にレジャーシートを敷き、謎の飲み物を並べていた。
「なにやってんですか?」
「常温保存可の飲料を12種類。
みんなで引いて、出たやつを飲む。
ちなみに1本だけ“本気で不味いやつ”混ざってるから注意ね」
「ゲーム性いらないでしょ、それ」
ミカが思わず突っ込む。
「いやいや、こういう非合理な時間にこそ、人間性ってにじむのよ?」
「どんな理屈よ……」
「ちなみに、外れは“マヨネーズコーヒー”。」
「えぐいですね……胃に何かしらの影響が出そう」
俺たちは、言い合いながらもそれぞれ一本ずつ手を伸ばす。
一条は静かに缶を選び、無言でプルタブを開けた。
そして一口飲んで、表情を変えずに缶を置いた。
「……あ、それ絶対マヨネーズコーヒーでしょ」
「うっそ!? あの人あれ引いたの!?」
ミカが思わず振り返るが、一条はただ、静かに水を飲み直した。
「……この人、感情と味覚をどこかに落としてきちゃったんじゃないの……」
「さすがだな、一条。ナイ課最強の“クールガイ”だ」
「いや、でも……」
俺はそっと缶を手に取った。
「意外と美味しかったりするんですかね……?」
ほんの少しだけ希望を込めて、一口。
――その直後。
「……う、っ……! なにこれ!? マヨが!? 酸化してる!? クサっ!えぐっ!!すっぱ!にが!ぬぇ」
思わず口を押さえて、その場に咳き込みながら座り込む。
「わあ、やったな晴真。これぞ“正統派リアクション”」
「なんなんですかこの味……胃に戦争しかけられてる気分……」
「一条との差よ。クールガイの称号にはまだ遠いな」
「別にいらないです、その称号……」
ナイ課に、久しぶりに笑い声が響いた。
***
午後。
ミカがぽつりと呟く。
「……ねえ、晴真」
「はい?」
「君さ、最初の頃より……笑うようになったよね」
「えっ」
不意を突かれて、手に持っていたコーヒー(普通の)をこぼしかける。
「わ、あっ……すみません」
「いいって。ていうか、そういうところが変わったなって思って」
ミカは、少しだけ表情をゆるめる。
「前はさ、なんか“観察する側”って感じだった。
私たちのことも、少し距離置いて見てる感じ。
でも最近は、ちゃんと“混ざってる”」
「それは……」
嬉しい、と素直に言えた。
「ありがとう、ございます」
「ま、そういうの、記録には残らないんだけどね」
ミカの視線が手帳に向けられる。
「でも、誰かが見てる。たぶんそれで十分だよ」
「……そうですね」
***
その日の夕方、珍しく一条が手帳を開いていた。
「……?」
近づくと、そこには小さくこう書かれていた。
【記録対象:今日】
【属性:無音/安定】
【分類者:一条】
「……書くんですね、こういうのも」
一条は頷いた。
「……喋る必要、ない日だったから。
でも、残したくはなった」
それだけ言って、また黙った。
ミカが少し離れた場所で、その様子を見ていた。
「ねえ、晴真」
「はい」
「たぶん、私たちってさ。
“名前をつける人”じゃなくて、“名前の隣に座ってる人”なんだと思う」
「……なんか、それ、分かる気がします」
ミカの言葉は、空気に溶けていった。
***
夜。
帰り際、九重が声をかけてきた。
「今日さ、何も起きなかったでしょ?」
「はい。記録ゼロです」
「でも、それって“空白”じゃなくて、“余白”なんだよね。
物語がずっと詰まってたら、息できないでしょ?」
「……なるほど。」
「だからね、こういう日も、ちゃんと物語の一部なんだよ」
そう言って、九重はポケットから何かを取り出す。
「ほい、これ。課内ポイント表」
「え?なんですか、それ?」
「今日の“リアクション芸”の一件で、晴真に1ポイント加点されました」
「何基準で!?」
「ははっ、まぁナイ課は、基準のないところから分類するのが得意だからさ」
それが九重の言葉であり、
この課の在り方だった。
***
夜。手帳を開いた俺は、ページの端にひとことだけ書いた。
【記録:今日は誰も分類されなかった】
そしてその下に、少しだけ言葉を添える。
【でも、ちゃんと“何かがあった”気がする】
明日また名前を記すとしても、
今日だけはこの“無名の一日”を、大事に閉じておきたい。
そのまま、ページを閉じた。
ナイ課の夜は、静かに深まっていった。




