第11話 記録されなかった名前
ナイ課の天井に、再びセレクターの球体ホログラムが浮かんでいた。
「本日、分類対象 No.018 の現場観測に同行します」
その声には、感情も抑揚もなかった。
ただ、“記録”という行為を監視する。
それがこの存在のすべてだった。
俺は、静かに頷いた。
***
現場は、中央記録局でも“灰色タグ”として分類されていたエリアだった。
「記録済みではあるけど、情報がほとんど残ってない。
過去ログに“記録未確定”のタグがある」
ミカが端末を操作しながら言う。
「誰が担当してたんですか?」
「……たぶん、私」
少し、言葉が重くなった。
「当時は、数値でしか判断してなかった。
反応なし、脅威なし。だから、分類しなかった。
でも今思えば……何かが“いた気がしてた”。」
その声に、俺は手帳を握り直す。
(記録されなかった“何か”が、
今、もう一度――)
セレクターが進行を促すように言った。
「現地にて観測後、分類判断をお願いします。
なお今回の記録は、監査対象として即時ログ転送されます」
***
現場は、古い線路跡地だった。
枕木は朽ち果て、雑草に覆われ、
人の気配も動物の気配もなかった。
けれど、そこには――
確かに“記録されていない空気”があった。
「ここ……嫌な感じするな」
ミカが珍しく、スキャナを持った手を止める。
「数値出てないんですか?」
「出てない。……でも、“反応がない”のと、“感じない”のは違う」
俺は静かに頷いた。
そして手帳を開く。
その瞬間、視界がぐにゃりと歪んだ。
空気が静かに波打ち、
“誰かの残響”のようなものが、意識の端に引っかかる。
(……声? 違う、これは……)
“記録されなかった名前”が、そこに立っていた。
姿も顔もはっきりしない。
ただ、“そこにいた記憶だけがある”ような存在。
分類名は出てこない。
属性も、形も、記録ログさえも空白。
それなのに、俺は確かに――その存在に“出会っている”と感じていた。
「記録不能対象と判定。抹消処理を推奨します」
セレクターの声が響いた。
「待ってください!」
思わず、声が出た。
「これは……“記録されなかった”存在です。
分類されなかったから消えたんじゃない。
“名前をもらえなかった”だけなんです」
「存在証明には、分類が必要です。
分類不能の対象は、抹消の検討対象となります」
「なら、今ここで――記録します」
俺は震える手で、手帳に言葉を記した。
【記録対象:残留存在(仮)】
【分類名:“失名者”】
【属性:記憶/共鳴】
【補足:一度分類されなかった者の、再出現記録】
【分類者:瀬野晴真】
手帳が、微かに光を放った。
(間に合った……?)
周囲の空気が、少しだけ静かになった。
“それ”は、まるで微笑むように、
その場で静かに消えていった。
***
帰局後、セレクターが再び現れた。
「記録内容を精査中。
“定義干渉”の疑いは継続。
ただし、分類者の観測判断に理があったと判定します」
「……つまり?」
「次回の同行は見送り。
以後は、定期監査とします」
ミカが、ふっと息をついた。
「ほんと、ギリギリの綱渡りだね、君のやり方」
「すみません。でも、あれは……」
「ううん。
たぶん、私が“見逃した”存在だった。
“記録されなかった名前”って、こんなに強く残るんだね」
一条は何も言わなかったが、
俺の手帳を、そっと閉じてくれた。
その仕草だけで、十分だった。
***
その夜。
俺の記録ページに、新しいメモがあった。
「名前って、“呼びかけ”でもある。
呼ばれなかった人たちに、君は今、手を伸ばしてる。……九重より」
そしてその下に。
「今日の記録、あいつ、うれしそうだった気がするよ。……ミカ」
ページの端には、かすれたような手書きの文字がにじんでいた。
【名前をもらえなかった者にも、物語がある】
(そうだ。
だから俺は――名を記す)
その言葉に、返事をするように、
ページが静かに風を受けてめくられた。




