中編
夢を見た。遠い遠い……気の遠くなるほど遠い過去の夢を。出会った時の夢を。
「お前が聖女か」
「そう言うあなたが勇者ね」
なんとはなし、名前を呼ぶのははばかられた。別に示し合わせたわけではない。ただなんとなく、言いづらく感じただけのこと。
彼は勇者で、私は聖女。
その一線を超えてはいけないと、どこかで理解していたのかもしれない。
一線を超えた感情は、判断を鈍らせる。それは魔王討伐の旅には邪魔でしかないもの。
聖女と勇者が同時に顕現することは稀なのだ。……いや、史上初のことかもしれない。
世界はこの千載一遇の好機を逃すようなことはしなかった。
互いに遠く離れた異国で産まれた私達は、世界統一教会にて初めて顔を合わせる。その時、互いに同じ16才。
大人びた雰囲気の勇者。
大人びた雰囲気の聖女。
私達は互いに、自身の立場を理解している。けしてなれあってはいけないと、理解していた。
過酷な旅は、それでもわたしたちの距離を否応なしに縮める。
だからこそ、名前で呼ぶべきではないと思い、そしてそれは実行される。
(私は勇者を愛している。勇者もまた──)
それは超えてはいけない一線。
見て見ぬふりをしながら、周囲もまた私達の気持ちに気づきながらも知らないフリを続けて旅は続く。
そして今、私達はついに魔王と対峙することとなる。
旅の期間は、実に二十年。
普通ならすっかり歳をとったとなるだろうが、そこは女神に選ばれし勇者と聖女。
最盛期の若い肉体を維持する今がある。
伴の者は幾度となく変わった。女神の祝福がない彼らは普通に歳をとり、交代が行われては常に若い戦力が私達を支えてくれた。
最後の最後、最終決戦で若い命を散らすことが心苦しかった。
そんな私がワガママを言って良いとは思えない。
そうだ、言うべきではないのだ。
それでも願ってしまった。
生まれ落ちた瞬間から聖女として厳しい修行を課せられ、16才からは過酷な魔王討伐の旅をしてきた。
そんな私が願ってはいけないのに、願ってしまう。
この、最後にして二人きりになった瞬間、私は願ってしまったのだ。
だからこれは罰、きっと天罰。
愚かな聖女だと、女神が怒ったのだろう。
「ゆ……しゃ……」
フッと意識が覚醒し、一瞬何が起きたのか理解できなかった。でも自分の現状を理解した瞬間、全てを悟る。
(ああ、私はもう──)
かすれた声で勇者を呼べば、目の前で剣を杖によろめきながら立ち上がる、勇者が視界に入る。
「勇者……!」
今度はハッキリと声にし。
その瞬間「カハッ!」大量の吐血をした。
『愚かなり、人間!!』
耳を突くは魔王の声。その耳障りな声の方向、背後にチラリと視線をやってから、また正面に戻す。
「勇者」
「聖女!」
血相変えて叫ぶ彼は満身創痍だ。
顔から手足から腹部から血を流し、口の端を血が流れ落ちる。剣を杖にするも、立っているのがやっとな状態。剣を握る余裕はない。
迷わず私は治癒魔法を彼めがけて放つ。自身の魔力が残り少ないことを悟る。
「よせ! 俺はいいから、お前自身に──」
「黙って」
雑音は集中を邪魔するわ。経験は長く、ずっと過酷な環境で戦ってきた。今更集中できない状況なんてない。それでも私は勇者を制して意識を集中させる。
「女神の加護」
勇者に守備力アップの魔法を。
「女神の祝福」
減った体力がしばらく自動で戻る魔法を。
「女神の怒り」
攻撃力上昇の魔法を。
「女神の愛」
一度だけの死に戻りの魔法を。
全てかけた。どれも魔力を大きく使う、とても重要な魔法。
最後の魔法をかけた瞬間、自分の中の魔力がスッカラカンになるのを感じた。
魔力回復のアイテムは、とうに尽きている。
「これでおしまい」
告げれば、大きく見開かれる瞳。
「私にできるのは、これでおしまいよ」
言えば揺れる勇者の瞳。
涙はない、今はまだ流してはいけないそれを、流すほど勇者の心は弱くない。
だからこそ、彼は勇者たれるのだ。
私はそっと、手を動かした。血を流しすぎて、全身の感覚がほぼない。そのおかげで痛みを感じずにいられるからなのか、最後の力を振り絞って手を動かす。
手を伸ばす。勇者に向けて。
「ねえザクス」
名を呼んだ。
出会ってから二十年、私は初めて彼の名を呼ぶ。みなが呼びながらも、かたくなに私だけが呼ばかなかったその名を。
回復して剣を構える彼の体が揺れた。
「お願いがあるの」
魔王が放った大爆発の魔法の直前、黒い炎が私に襲いかかる直前に口にしかけた願い事を、私は口にする。
まだ言うのかって?
そりゃそうよ。だって私は諦めの悪い聖女なんですもの。そうでなきゃ、二十年も魔王討伐の旅を続けやしないわ。
信じている。きっと勇者ザクスが魔王を倒してくれると。
信じている。きっとこの世界に平和が訪れると。
それをもたらすのは、勇者ザクス。
私ではない、他の聖女でも勇者でもない。
彼が。
彼こそが。
私の、私だけの勇者がそれを成し遂げる。
「お願い、もし叶うなら──」
魔王が持つ、黒き炎をまとう剣に体を貫かれた状態で。
血を吐きながらも私は願い事を口にする。
それを聞いた彼は一瞬目を大きく見開いてから、一瞬とも言えぬ短い時間目を閉じた。
次の瞬間、目を開いた勇者は。
「リーリア……!」
魔王ではない。他の誰でもない。
私を、私だけを見つめながら、勇者は剣を突き出す。
その剣は、私を盾にして醜い笑みを浮かべた魔王を──動けぬように最後の力を振り絞ってその場に魔王をとどめた私と共に、剣は体を貫いた。
一瞬で距離が縮む私と勇者。
その距離10センチもない距離にある勇者の瞳に、涙を認めた気がする。
でももう私にはそれを確認することはできない。薄れゆく意識が、私から視力を奪う。
(愛しているわ、ザクス)
言葉が口に乗せられたかは、もう分からない。
ただ
(俺も愛している)
そう聞こえたのは、死の間際に死神が見せた幸せな夢だろうか。
唇に感じる、温かな感触は、私の全ての苦しみを奪ってくれた。
意識と共に──