3.ブラウン・ドラゴン
深夜の王宮の執務室。
ロジャー王子は上等な葡萄酒を片手に、不機嫌そうに書類を放り投げた。
「……まだ仕留められんのか。あの薄汚いトカゲ一匹に、我が国の騎士団は何を遊んでいる」
王子の視線の先。
机の上に広げられた地図には、王都近郊の村々に赤いバツ印が書き込まれていた。「地響きの暴君」と呼ばれる茶色のドラゴンによる、国民たちの被害報告だ。
「申し上げます、殿下。あれをただのトカゲと断ずるのは、いささか早計にございます」
騎士団長シグリッドは直立不動のまま、氷のような瞳を地図に落とす。
「昨日もAランク冒険者のパーティが二組壊滅いたしました。我が騎士団の精鋭十名も重軽傷を負って退却しております。あの個体は通常の魔力障壁を物理的な剛腕のみで粉砕する。文字通りの怪物です」
「黙れ! だからこそ、異界から聖女を呼んだのではないか!」
ロジャーは忌々しげに机を叩いた。
「それがどうだ。現れたのは魔力も持たぬ、顔も地味なただの小娘ではないか。シグリッド、貴様も見ていただろう。あの無能なものが、あの古龍の鱗一枚でも傷つけられると思うか?」
「魔力に関しては左様でございますな」
シグリッドは短く肯定した。だが彼の脳裏には、先ほどの謁見の間での光景が焼き付いて離れなかった。
王子の投げた銀の置物。それは不意打ちに近く、本来なら避けられるはずのない速度だった。
だがあの娘……原田可奈は最小限の予備動作でそれを受け流した。
あれは武に精通している者の動きだ。
「殿下。あの娘をこのまま野に放ってよろしいのですか」
「構わん。無能は無能らしく、泥を啜って野垂れ死ぬのがお似合いだ。それよりもシグリッド、次の討伐隊を編成しろ。今度はSランクの冒険者を金で雇え。もっと上のランクの奴らで、トカゲなぞ力でねじ伏せれば良いのだ」
ロジャーは笑った。自分には無限の財力と権力があると信じて疑わない。
シグリッドは静かに一礼して執務室を退室した。長く冷たい廊下を歩きながら彼は自分の手袋を嵌め直す。
(魔力なき聖女。そして例のドラゴンは魔力障壁を物理で壊す存在)
もしその二つが戦うとなったら一体何が起きるのか。
シグリッドは夜の帳に包まれた城下町へと視線を向けた。そこには今頃、絶望に打ちひしがれているはずのあの娘がいるはずだ。
(だが、何だか引っかかる。聖女は本来、きちんとした適性をもってこの世界に召喚されるはずなのに、あの娘には魔力が無かった。……だとしたらそれにもきちんとした「理由」があってしかるべきはずなのだが……)
しかし、それを今考えてもわからない。
シグリッドは小さく頭を振ると、足早に自分の執務室へと向かっていった。
◇
翌朝、あたしは安宿を早々にチェックアウトした。
あのアホ王子の顔がチラつく王都に長居するつもりはない。隣街まで行けば、もう少しマシな仕事も見つかるだろう。
幸い、路銀(カツアゲした銀貨)のおかげで、行商人の馬車の荷台に潜り込むことができた。
「……あーあ。何でこうなっちゃうのかしらね」
ガタゴトと揺れる荷台の上で、あたしはボロボロの靴を見つめながらポツリと愚痴を零した。
でも、昨日の三バカトリオを相手にして寝て起きてから、食事をしていて色々考えたことがあった。
「でも……昨日のあの違和感がああいうことなら、あたしはもしかして……」
だが、その言葉が最後まで響き切ることはなかった。ズ、ズンッと突如、鼓膜を震わせるような重低音が森に響く。
鳥たちが一斉に飛び立ち、馬が狂ったように嘶いた。
「な、何だ!? おい、今の地響きは――」
御者の叫びが途切れる。それと同時に、街道脇の巨木がまるでマッチ棒のようにへし折れた。
土煙の中から現れたのは、山のような巨躯を持つ禍々しい茶色の鱗を纏ったドラゴンだった。
「ひ、ひぃぃっ! 地響きの暴君だぁぁ!!」
ブラウン・ドラゴン。
シグリッドが危惧していた、物理特化のドラゴンの姿がまさにそこにあった。ドラゴンが巨大な前足を一振りしただけで、馬車は紙細工のように粉砕された。
「な、何よ……あれは」
衝撃で放り出されたあたしは、受け身を取って地面を転がる。砂埃を払いながら顔を上げると、そこは地獄絵図だった。
馬車は大破し、行商人は腰を抜かして動けない。
「おじさん! 走れるなら今すぐ助けを呼びに行って! ここはあたしが食い止める!」
「な、何を言ってるんだ、お嬢ちゃん! 相手はドラゴンだぞ!?」
「いいから早く! 死にたくなかったら走りなさいよ!」
あたしの怒鳴り声に押され、御者は這うようにして街がある方向へと逃げ出した。
その後姿を見届け、あたしは目の前の巨獣を見上げた。ドラゴンの琥珀色の瞳が獲物を定めるように細められる。
完全にロックオンされた。逃げ場はない。
距離はおよそ十m。相手の一歩は、こちらの全力疾走よりも速いだろう。そして何よりも相手にはあたしの様な人間には無い「翼」が存在している。
(笑っちゃうわね。昨日召喚されて、今日ドラゴンに食べられるなんて)
あたしは、泥だらけの靴をギュッと踏みしめた。
だがこんな絶望的な状況下でも、なぜか恐怖はない。あるのはこの理不尽な状況への、腹の底から湧き上がるような怒りだ。
「……いいわよ。あんたがこの世界の最強っていうなら、あたしがその理屈ひっくり返してやるわ」
あたしは拳を握り重心を落とした。ドラゴンの巨躯が空気を切り裂くような速度で迫り来る。
その瞬間、あたしは不敵に笑うと迫りくるドラゴンに対し真っ直ぐに踏み込んだ。
(生きるか、死ぬか!! それだけよ!!)




