8 妹の嘘泣き
妹がノツィーリアの悪評をルジェレクス皇帝に吹き込むも、返ってきたのは意外な反応だった。
「よくもまあ、そうつらつらと虚言を吐けるものだな」
(私たちの事情をご存じでいらっしゃるの……?)
妹の言葉を否定する発言にノツィーリアは目を見開いた。ルジェレクス皇帝はなぜか、ノツィーリアの噂には否定的なようだった。
さすが十年前まで戦争をしていた国だからこそだろうか。国交のないレメユニール王家の現状について、何かしら情報をつかんでいるのかも知れない。
動揺して言葉を失った妹に、皇帝が畳み掛ける。
「貴様が美しいだと? 鏡を見たことがあるのか貴様は。ねじ曲がった性根がそのゆがんだ表情にありありと表れておるぞ。ああ醜い」
妹に向けられたものとは思えない言葉の暴力を振るった皇帝が、腕組みしたまま部屋中に高笑いを響かせた。
ディロフルアは大げさに震わせた両手で頬を挟みこむと、乱れた呼吸を数回繰り返したあと、今にも裏返りそうな声で叫んだ。
「な、な、なんですってえ……! わたくしが醜いと、そうおっしゃったんですの!?」
「何だ、客の言葉を聞き漏らしたとでも言うのか。ならばもう一度言ってやろう。貴様は醜い」
「ひどい! いくらお客様でもそのお言葉はあんまりですわ! ねえノツィーリアお姉さま、お姉さまからも言って差し上げてくださいまし!」
「!?」
まさか自分に話を振られると思っておらず、ノツィーリアは思わず眉をひそめて妹を見てしまった。負の感情をはっきりと出した表情を妹に返すのは、これが初めてだった。
なぜ今まで虐げてきた人間が、自分に味方してくれると思えるのか。あまりに身勝手な発想に、媚薬の熱に侵された頭に怒りが湧いてくる。
ノツィーリアが何も答えずにいると、ディロフルアが丸めた両手で目元を隠した。塗りたくられたアイラインとマスカラに触れないように手を浮かせた状態で、まるで子供のように大げさに肩を震わせて泣き出す。
本気で涙を流しているわけではなく、自分が傷付けられたことを周囲にアピールする仕草。
それは、姉の方が悪いのだと周りに思い込ませるための演技だった。
奇妙な静寂が漂う中、わざとらしい泣き声だけが小さく響く。
妹がこのまま引き下がるはずもなければ、客人の前で醜態をさらしている状況をいつまでも続けるわけにもいかない。相手は冷徹皇帝と呼ばれる男だ。
そして物分かりの悪い妹に対して、今まさに王国の危機を招こうとしている事態であることを説明している暇もない。
音を立てずに深呼吸する。皇帝の怒りを買い、処刑される覚悟を決める。
ノツィーリアは皇帝の赤い瞳を見据えると、音を立てずにその場に正座した。
頭を下げて、絨毯に額をつける。
「ルジェレクス皇帝陛下。ご気分を害したこと、心よりお詫び申し上げます。この件について処罰を望まれるのであれば、すべてわたくしめがお受けいたします。……どうかレメユニール王国第二王女ディロフルアがお相手を務めること、お許しいただけないでしょうか」
背後から、泣きじゃくっていたはずの妹の呟きが聞こえてくる。
「(さっさとそうすればよかったのよ。お姉さまがもたもたしなければ、私が悪口を言われずに済んだのに)」
歯を食いしばり、悔しさをぐっと飲みこむ。
うそ泣きが止まれば、再び静けさが戻ってくる。
ノツィーリアが緊張感に震えながらも頭を下げ続けていると、懇願を突き放す低い声が返ってきた。
「『その者に用はない』、と申したはずだ」
「……!」
いよいよ板挟みとなったノツィーリアは、床に額をつけたまま必死に考えを巡らせた。当初の予定どおりノツィーリアが皇帝を歓待するにせよ、ここまで機嫌を損ねておいてただ抱かれるだけで済むとは到底思えなかった。皇帝の気が済むまで暴力を振るわれるかも知れない。死ぬまで解放してもらえないかも知れない。
しかしそれを拒む態度を見せた結果、皇帝の怒りが王国そのものに向けられる事態は何としても避けなければならない。帝国より国力が劣っているのみならず、まったく戦争経験のない王国軍が帝国軍に立ち向かえるはずがない。
とにかくまずは妹を引き下がらせなければ――。ノツィーリアは、皇帝と妹とどちらからも虐げられる覚悟をもって、お辞儀をやめて妹に振り返った。見上げた顔は、思い通りにならない苛立ちにゆがめられていた。客人のはずの相手を、しかめっつらで睨み付けている。
ディロフルアは涙を浮かべてもいない顔を隣室に振り向かせると、金切り声で叫んだ。
「私を拒むなんて許せない! お父さまを呼んで!」
隣室に待機していたらしきメイドたちの、駆け出す足音と扉が開かれる音が聞こえてくる。
程なくして、まるで待機していたかのように父王はすぐに客室にやって来た。
ディロフルアが父親に駆け寄り、その顔を見上げて今にも泣き出しそうな声で訴えはじめる。
「お父さま! お姉さまが『ルジェレクス様のお相手は私だ』などと言って、お部屋から出ていってくださらないの! せっかくわたくしが、お務めを嫌がっているお姉さまと交代して差し上げると言っているのに!」
「また貴様は……!」
ノツィーリアを睨み付けた父王が、その顔に怒りをみなぎらせる。今までその表情のあとに怒声を浴びせられ続けてきた身は、激高したまなざしに射抜かれれば簡単にすくみ上がる。
きちんと現状を説明しなければ――。床に座ったままのノツィーリアが口を開きかけた矢先、部屋に飛び込んでくる影があった。
それは妹の婚約者、ユフィリアン・シュハイエルだった。
「お待ちください国王陛下! なぜです! なぜ突然、婚約破棄などと!」
「黙れ! ディロフルアが貴様よりルジェレクス皇帝陛下の方がいいと言っておるのだ。ただの公爵家のひとり息子たる貴様より、リゼレスナ帝国皇帝と婚姻を結ぶ方が我が国の安寧に繋がることくらい理解しろ!」
「国交断絶している国の元首と婚姻!? 正気ですか陛下!」
声を震わせるユフィリアンが、妹の姿を見るなり目を見開いた。碧眼が動揺に揺れる。
「ディロフルア! なんだいその淫らな格好は! 君は、ルジェレクス皇帝陛下に抱かれるつもりなのか!?」
「ええ。ルジェレクス様とわたくしは、運命の出会いを果たしましたの。ですからわたくしのことは諦めなさいな。あなたは公爵家とはいえ養子ではありませんか。血筋で考えれば元々不釣り合いだったのですし」
「そんな……! 確かに僕はシュハイエル公爵家の直系ではないけれども遠縁ではあるのに……!」
「だから何だと言うんですの? しつこいですわねえ」
青ざめたユフィリアンが足元をふらつかせて壁に肩をぶつけて、ずるずると床にへたりこむ。ノツィーリアはそのあまりの不憫さに駆け寄ってあげたい気持ちになった。しかし元婚約者の姉に寄りそわれたところで何の慰めにもならないだろう。
がっくりとうなだれる元婚約者を見て妹はふん、と鼻で笑ったあと、並び立つ父親に振り向き、甘え声で話しかけた。
「ねえお父さま。お姉さまのわがままでルジェレクス様がご気分を害されていらっしゃるの。あまりにご立腹されたものだから、わたくしにまで『醜い』などとおっしゃいましたわ。ご機嫌が直れば、平民の血を引くお姉さまよりわたくしの方が美しいと、きっとお気づきになるかと存じますの。ですからお父さまの方からルジェレクス様にご説明して差し上げてくださいな。お姉さまよりわたくしの方が、価値があることを」
うむうむと頷きながら話を聞いていた父王が、ベッドに腰掛けて腕組みしたままの賓客に頭を下げる。
「歓待どころかお騒がせしてすまぬな、ルジェレクス皇帝陛下。当初の予定と変更させていただき、今宵は我が愛娘ディロフルアがお相手を務めさせていただく」
皇帝は無言で父王に視線を返した。表情の変化がなく、反応が読めない。
それを都合よく了承と受け取ったらしき父王が再び妹に視線を戻し、満面の笑みを浮かべた。
「ルジェレクス皇帝陛下はこの一晩に五億エルオンも出してくださったのだぞ。さあディロフルアや。うんとご奉仕して差し上げなさい」
「ええ! お任せくださいお父さま。この世で一番美しいわたくしが、今にルジェレクス皇帝陛下を虜にしてみせますわ!」
勝手に盛り上がる父娘の隣で、ノツィーリアは密かに息を呑んだ。
(五億エルオンですって!?)
最初に父王が話していた額と桁が二桁違う。たった一晩にそこまでの大金を払ったからこそ、皇帝は最優先で招かれたのだろう。
にもかかわらず父王は、娘のわがままを受け入れて、今にも契約を違えようとしている。
淫売などという内容であっても、国主導の事業であることには変わりない。広く他国にまで呼び掛けておいて契約を反故にしてしまえば当然、国際社会での信用はなくなる。ただでさえ国力の衰えているレメユニール王国が、ますます窮地に陥るであろうことは明白だった。
とはいえノツィーリアがそれを説いたところで父王は耳を貸してもくれないだろう。
どうしたら王国の危機を防げるのか――。いくら思案を巡らせたところで無力さばかりが押し寄せてきて、ノツィーリアは悔しさに唇を噛み締めたのだった。