7 賓客との対面
上機嫌な様子で客の元へと向かうディロフルアに、ノツィーリアは食い下がった。
「いきなり私と交代するなんて、そんなこと、お父様は許してくださるの?」
「当然ではありませんか! お父さまがわたくしのすることに異を唱えるなんてありえませんわ。わたくしのことを、とーってもかわいがってくださってますもの」
「ユフィリアン様には話を通してあるの?」
「彼は見た目がわたくし好みだからこそ婚約して差し上げたのであって、伴侶としてはつまらない男なんですもの。結婚前だからなどと言って、抱き締めてもくださらないのですよ? 古風な考えはおやめなさいなと言っても、そこだけは曲げてくださいませんの。あんな奥手なあの人より、もっと惜しみなく愛情を注いでくれる殿方がわたくしには必要なのですわ」
金で買った相手に惜しみない愛情を注ぐ人などいるのだろうか――。浮かんだ疑問をぐっと飲み込み、思考を巡らせる。
妹のわがままが通れば私はこの窮地からひとまずは救われる――。とはいえ五百万エルオンで締結された契約を、妹の身勝手な思い付きで変更してしまってよいものなのだろうか。
迷ううちに、客室の前に到着してしまった。
張り切った様子のディロフルアに続き、怖々と客間へと足を踏みいれる。
居間を過ぎ、寝室に入るとまず天蓋付きの立派なベッドが目に飛び込んできた。
そしてそこには、ベッドの派手な装飾に一切見劣りしない美丈夫が腕組みして座っていた。
足首までの長さのあるバスローブ型の寝衣を身にまとい、その上から上等なガウンをまとっている。客の男性は、健康的な浅黒い肌をしていた。
芸術品と見紛うほどの美しく彫りの深い顔。ゆるい曲線を描き出す短い黒髪は艶やかだ。
なにより赤い瞳から繰り出される眼光が鋭く、その視線で貫かれた瞬間、ノツィーリアは妹と揃って固まってしまった。
(一番初めのお客様って、リゼレスナ帝国のルジェレクス皇帝陛下だったの!?)
公務をさせてもらえていないノツィーリアは、他国の元首と対面するのはこれが初めてだった。
書物に描かれていた小さな姿絵でしか見たことのなかった敵対国の皇帝。齢十八にして皇帝の地位を父親から受け継ぎ、直後、周辺三ヶ国の併合に成功し、帝国を大国たらしめたのは十年前のことである。
海峡の向こう側で起きたその歴史的事件により父王は帝国への警戒を強め、国交断絶するに至ったのだった。
噂でしか聞いたことはないが――併合した国にひそむ反乱分子を見付け次第、投獄すらせずその場で容赦なく斬り捨てるという。
その冷酷無比さゆえに、人々から恐れられているというルジェレクス・リゼレスナ皇帝。
とはいえその世評から想像していた野蛮さの欠片もなく、気高い騎士を思わせる端正な顔立ちは、思わず見惚れてしまうほどだった。
しかし赤い瞳から放たれる眼光は、氷でできた矢のように冷たい。再び視線がぶつかった途端、恐ろしさのあまり顔を背けてしまった。
凍りついたノツィーリアの隣で、妹が声にならない声を洩らしはじめる。
「お、お、驚きましたわ……! お客さまってルジェレクス皇帝陛下でしたのね……! どうりでメイドたちが騒ぐはずですわ!」
ディロフルアが声を弾ませる。妹もまた、客が誰であるかまでは知らされていなかったらしい。おそらくメイドたちが無礼にも客の姿を垣間見て、その容姿を妹に知らせた結果、興味を持ったというところだろう。
最初の客が美青年だと判明したせいで、妹は『お務めを通じて後宮の人選をする』などという愚かしい発想に至ったのかも知れない。
ノツィーリアが考えを巡らせる横で、妹が完全に浮かれた口調で話を続ける。
「ルジェレクス皇帝陛下のお姿は十一年前、隣国の式典の際にお見かけして以来ですわ。その折にはご挨拶は叶わなかったのですけれども、今こうしてご挨拶する機会を賜れて光栄に存じますわ」
十一年前はディロフルアはまだ九歳で、王国の法律では公務に出られる年齢ではなかった。しかし外国へと遊びに行きたいという理由で、駄々をこねて山向こうの国で行われたその式典に連れていってもらっていた。当時のことは、ノツィーリアもよく覚えている。
招かれた客ではなかったのだから、挨拶すらさせてもらえなかったのも当然だろう。
床に視線を落として当時のことを思い出していると、妹のうっとうしげな声が聞こえてきた。
「お姉さま、いつまでそこにいらっしゃるおつもり? さっさと出て行きなさいな! それとも結局お姉さまも素敵な殿方がお相手であれば抱かれたいと、そう思われていらっしゃるの? 偉大なるリゼレスナ帝国皇帝陛下を前にして、なんと身のほど知らずな。清楚なふりしてその実浅ましくていらっしゃる。血は争えないですわね」
(お母様を侮辱しないで!)
憎たらしい笑顔を思わず叩いてしまいそうになる。その手にぐっと力を込めて、手のひらに食いこむ爪の痛みで冷静さを取り戻す。
いつもなら、ここまで妹の煽り文句に反応などしない。しかしいつまでも賓客を待たせているという不安、そして媚薬を飲まされて熱に侵されているせいか、簡単に心が揺らいでしまう。
(だめよ、みっともなく声を荒らげては。激情に駆られてはいけないって、お母様がおっしゃっていたもの……!)
奥歯を食い縛り、握り締めた手に力を込める。何度も肩で息をして、辛うじて怒りをやり過ごす。
感情を抑えこむノツィーリアを見てディロフルアがふん、と鼻で笑った。
「まったく、いつまで食い下がるおつもりなんですの? ルジェレクス様のことは諦めなさいな。お姉さまの魂胆は知れておりますわ。ルジェレクス様にうまいこと取り入って、娶っていただこうなんて画策していらっしゃったのでしょう?」
「私は、この国の役に立てるならばと覚悟を決めて参ったのです。そのような浅薄な思いでこの場に臨んではおりません」
ノツィーリアは客人に向き直ると、体の前で両手を重ねて深々と頭を下げた。
「お見苦しいところをお見せしてしまい、大変申し訳ございません、ルジェレクス皇帝陛下」
おそるおそる顔を上げて、敵対国の皇帝とまっすぐに向き合う。
睨み付けられただけで、今にも殺されるのではないかと思うほどの強烈な眼光。緊張感に襲われる中、視線を逸らすなどという無礼を働くわけにもいかず、息を詰めてどうにか目を合わせ続けた。
恐怖心を抑えつつ、相手の反応を待つ。
すると、ゆっくりと一度まばたきをした皇帝が、赤い瞳でノツィーリアを見据えた。
「そなたが悪女と噂のノツィーリア姫か」
「ルジェレクス様! この女と関わると、ろくなことになりませんわ!」
「黙れ。貴様に用はない」
妹の叫び声を剣で一閃するかのような、鋭く低い声。瞬時に空気が凍りつく。ノツィーリアも並び立つディロフルアもほとんど同時に肩を跳ねさせた。
しかしディロフルアは冷酷なまなざしを受けても怯むことなく一歩前に踏みでると、引きつった声で反論しはじめた。
「ルジェレクス様? このわたくしがお相手して差し上げると申しておりますのよ? こんなにも美しい私を差し置いて、お姉さまをお選びになるとでもおっしゃるつもりですの? そんなこと、天地がひっくり返ってもありえないことですわ! 今まで生きてきて、わたくしを称えなかった者なんてひとりもおりませんもの!」
「はっ、王族の顔色をうかがう者しか周りに侍らせてこなかったというわけだ。貴様は狭い世界に生きてきたのだな。余は秘匿され続けてきた姫君、ノツィーリア姫が売りに出されたと聞き付けたからこそ、ここへ参ったのだ」
「お姉さまは今までかくまわれていたわけではなく、単に王族としての責務から逃げ回っていただけですわ!」
ディロフルアが、世間一般に広まっているノツィーリアの悪評を皇帝に訴え出す。
それをノツィーリア自身が否定したところで、信じてくれる人はいない。当然、皇帝陛下だって――ノツィーリアは沈む心に引きずられるように、床に視線を落とした。