3 残酷なる贈り物
ノツィーリアは、これまで公の場に出されることはなかった。二十歳で成人となってから三年、今まで一度も公務というものに携わらせてもらえていない。
そのため、今回の淫売が初めての公務ということになる。
母が死んでから――正確には義母である王妃に毒殺されてから――というものの、あからさまに父王の態度は冷淡になった。義母や妹からいじめられているのは知っているだろうに、無関心を貫かれていた。
久しぶりに呼び出しておいて、用件と言えば身売りしろなどという。その事実はノツィーリアの心をさいなみ、何度でも失意の底へと突き落とした。
幼い頃の記憶はおぼろげではあるが、妹が生まれるまで、すなわち三歳の頃までは離宮にいて、母と二人で静かに暮らしていた。
当時、離宮へと頻繁に通ってきていた父はノツィーリアをかわいがってくれてはいた。しかし今思えば、母の機嫌を取り、夜伽をさせるために子である自分をかわいがってみせていたのだろうと分かる。
思い返せば父がやって来た日の夜は母と一緒に眠らせてもらえず、メイドたちに寝かし付けられるのが常だった。
とはいえ、優しい父と母とに愛されていた頃の温かな記憶は、いつまでも心に残っている。
母との思い出に浸って心を保ち続けている今でも、期待してしまうことがある。『いつしか父がまたあの頃のように、自分も家族の一員であると実感できるような言葉を掛けてはくれないか』と。
母がいない今、起こり得ないことだとわかっていても――。
***
ノツィーリアは自室でひとり、読書に耽っていた。
王城の書庫を利用すること自体は禁じられてはいなかったが、文官が利用する昼間の時間帯は入室を禁じられている。そのため、読みたい本を探すのは夕刻になってからだった。
しかし次の朝までには必ず返却するようにきつく言い付けられているため、必然的に速読が身についてしまった。
歴史書、学術書、文学作品等々。寂しい時間を埋めてくれる様々な書物は、母との思い出とともにノツィーリアの心を支えてくれる大切な友となっていた。
静寂の中でひとり、書物の世界に浸る。今読んでいるのは外国の文学作品で、架空の魔法学園を舞台に、魔法使いの学生たちがにぎやかで刺激的な学園生活を送る物語だった。
現実世界にも、魔法使いというものは存在する。踊り子だった母のキャラバンに魔導師が所属していたそうで、様々な魔法で見世物の演出をしてくれていたらしい。
他にも、ときには過酷な旅路で、たとえば砂漠の昼間の酷暑をやりすごすテントの中で涼しい風を生み出してくれたりだとか。砂嵐に襲われた際は、防護壁を張り巡らせて皆を守ってくれたりと、団員を陰から支えてくれていたという。
そのためノツィーリアは、魔導師という存在には大いに興味があった。
「魔導師さんに、いつかお会いしてみたいものだわ」
しかし今まで一度も会ったことがない。なぜなら父王が魔導師を『得体の知れない奇術を使う悪魔』と嫌忌し、王国内にいた魔導師をことごとく国外追放してしまったからだ。
父は、自身の使えない力で自身の地位を脅かされることを警戒していた。魔導師同士のいざこざがあったとはいえ、一般市民をおびやかす魔法など、それまで一度として使われた例などなかったにもかかわらず――。
本の世界と平行してあれこれ思い巡らせていると、不意に扉を叩く音が聞こえてきた。
素早く本にしおりを挟み込み、足早に扉に歩み寄って応答する。静かに開かれた扉の向こうには、父王が幾人かの従者を連れて立っていた。思いも寄らない訪問者に、心臓が締め付けられる。
ノツィーリアが固唾を呑んで声掛けを待っていると、部屋に踏み込んできた父王は顎を上げ、さげすみの視線を突き刺してきた。
「ノツィーリアよ。貴様は読書が趣味だそうだな」
「……? はい」
「では、これを」
数人の従者が、それぞれ手の上に重ねていた分厚い本を円卓の上に次々と積み上げていく。どれも王城の書庫では見たことのない本だった。
(お父様が私に贈り物を? そんなまさか)
信じがたい光景に鼓動が速くなる。急に優しくなったのは、役目を与えられたからだろうか――。
「これらの書を熟読し、一字一句たがえず暗記せよ」
「暗記、ですか……?」
ノツィーリアの復唱には反応を見せず、父王が背を向けて部屋を出ていく。従者たちもノツィーリアに向かってばらばらに頭を下げるとぞろぞろと去っていった。
父王から何かを贈られたことは、今までに経験がない。これからつらい務めに臨むにあたり、この出来事はほんのわずかであっても救いになりうる気がした。
うずたかく積み上げられた本の一番上のものを手に取り、円卓の椅子に腰を下ろして表紙に目を落とす。
そこには想像だにしなかった文字が書かれていた。
【男を悦ばせる百の方法】
「……!」
一瞬でも贈り物だと思ってしまったがゆえにわずかに浮上した心が、地の底まで突き落とされる。
本の中央付近のページをおそるおそる開くと、男性の象徴の挿絵が生々しい筆致で描かれていた。
その周りを取り囲む文字は、どの部位をどのように触れば男性を悦ばせられるかの解説だった。
「これを私がするの……!? 」
手指で、口で、舌で。具体的にどう触れば男性に悦びを与えられるか。父はこれらを『一字一句たがえず暗記せよ』と言っていた。挿絵と細かい文字が、一瞬にしてゆがんでいく。
「ううっ……!」
おぞましい現実を叩き付けられて、涙と吐き気が込み上げてくる。
口を押さえれば、あふれ出した涙が頬を伝い、手の甲を濡らしていった。
力の入らない手でページをめくっていき、一冊一冊に目を通していく。涙で文字が読めなくなるたびに指先で涙を払い、ハンカチで手を拭いては目を逸らしたくなる文面に視線を向け続ける。
男性を言葉巧みに籠絡する方法、男性の求める癒し文句、肉体的に満足させる手法、等々。
本はいつでも心に寄り添ってくれたというのに、文字を追えなくなるのはこれが初めてだった。
見たくもない文字から目が逃げ出せば、ふと母との思い出がよみがえる。
『私のかわいいノツィーリア。人生、何が起こるか分からないんだから、最期まで諦めちゃダメよ』――。
膝の上に乗せられて優しく頭を撫でてくれた感触は、今やおぼろげにしか思い出せなかった。
(お母様。本当に、何か起こることなどありうるのでしょうか……?)
本を閉じて立ち上がり、目蓋を下ろせば母の美しい歌声が微かに聞こえてくる。
ノツィーリアは急いで涙を拭うと、宙に手を掲げて、母の歌に合わせて舞を舞いはじめた。
『とっても上手ね、ノツィーリア』――。母との思い出に浸る間だけは、自然と笑うことすらできるようになる。
ノツィーリアは円卓に積み上げられた本を見ないようにしながら、静寂の中、夢中で踊り続けたのだった。
***
翌日のこと。
ノツィーリアは自分で暖炉に火を入れ、その前に置かれたソファーに座ってぼんやりと炎を眺めていた。読書をしなければならないのに、何もする気が起きなかった。
しばらくそうして過ごしていると、ノツィーリアの専属メイドたちがずかずかと部屋に入ってきた。主人に挨拶もせず、『きゃーっ』と奇声を上げる。
不可解な声に、そっと振り向き様子をうかがう。するとメイドたちは、円卓に置きっぱなしだった本を取り上げて、興味津々と表紙を眺めていた。
昨晩はそれらを片付ける気力も起きず、そのままにしておいてしまったのだった。
メイドたちが、主人に断りもなくお務め用の本を開きはじめる。雑にページをめくっていき、それぞれ手にした本の中身を確認し合っては、その内容を声高に読み上げはじめた。
聞きたくもない声から逃げるように前に向き直り、視線を落とす。
メイドたちはノツィーリアに向かってしばらく聞こえよがしに朗読を続けたあと、さげすみの言葉を投げかけてきた。
「姉姫様、お務めでこんな淫らなことをなさるのですねえ」
「本当にこんなことを姉姫様がお出来になるのですかあ? 男性経験もないくせに?」
「あらかじめ練習なさらなくて大丈夫なのですか? 御本を読むより娼館で実践なさった方が早いのではございませんか?」
『それは名案』と、一斉に笑い出す。
「でもそれだと【初物】を好まれるお客様は、ご不満かも知れませんねえ」
「そうそう小耳に挟んだのですが、初回を希望される方が多くてオークション状態になっているそうですよ? 値段も倍に膨れ上がっているとか」
「初めてのお相手は、お優しい方だといいですねえ」
そしてまた、ぎゃはははと下品な笑い声をノツィーリアの耳と心に突き刺してくる。
早く出ていって欲しいとノツィーリアが密かに願っていると、ふとメイドたちが黙り込んだ。
どうしたのだろうと思いながら、おそるおそる振り向く。すると、メイドたちは勝手に円卓の椅子に腰掛けて読書に耽りはじめていた。
ぱらぱらとページをめくっては、ひそひそ話をはじめる。
「お客様ってきっと、【ひひじじい】くらいしか来ないわよねえ」
「じじいにこんなことしなきゃなんないなんて気持ち悪っ。いくら積まれたらできる?」
「うーん。陛下が設定されている金額が五百万エルオンよね。だったら……五千万エルオン?」
「そのお金を独り占めできるんだったら、まあギリギリ考えなくもないかなー」
「そうよねえ。全額没収されるのがわかった上でこんなことしろって言われたら、死にたくなるかも」
そしてまた品のない爆笑を部屋中に響かせる。
聞きたくもない雑談は、暖炉で爆ぜる薪の音に意識を集中させてやりすごそうとしてみても、容赦なく耳に飛び込んでくる。
本当に、これから自分は彼女らの読み上げた行為の数々を、見知らぬ相手にして差し上げなければならない――。自身に課せられた義務を思い、心の痛みに涙が浮かばないように、ぐっとこらえる。
しばらくそうして息を詰めていると、突如として、ばん、と勢いよく扉が開かれた。
突然の大きな音に震え上がり、素早く振り返る。するとそこには侍女頭が立っていた。怒り心頭といった表情をしている。
「あなたたち、何を怠けているのですか! 働かざる者に与える俸給は一銭たりともございませんと、日頃から申しているでしょう!」
するとメイドたちは勢いよく本を閉じてあたふたと立ち上がると、悲痛めいた口調で言い訳を始めた。
「申し訳ございません侍女頭様! ですがノツィーリア様が『私の代わりにこれを全部読みなさい』と命令してきて……!」
「……!?」
まったく身に覚えのないことを訴え出すのを聞いて、ノツィーリアは目を見開きメイドを見た。
視線が合った一瞬だけ口の端を吊り上げて、またすぐに反省の色をにじませた面持ちに戻る。
今の意味深な笑みで、何かしら気づいてはもらえないだろうか――。そう願って侍女頭に視線を移すと、侍女頭はノツィーリアを見るなり呆れ顔になった。
「ノツィーリア様、わがままもいい加減になさいませ。少しはディロフルア様を見習ったらいかがですか? ディロフルア様は、メイドにそのような無茶な命令は決してなさいませんよ」
そんなはずはない、私に嫌がらせをしろと命じる方が、よほど無茶なことを言っているのに――。
そう反論したところで、この場をやりすごす嘘をついているだけとしか思われないだろう。もはや相手の思い描く【わがまま姫】を演じる以外に、彼女らに飽きさせて解放される方法はない――。そう思い至ったノツィーリアは無言で正面に向き直ると、ソファーの陰でぎゅっと両手を握り締めた。
『早くひとりになりたい』と、強く願いながら。
その祈りを聞き届けてくれる存在はどこにもいないのだろう――。しかし侍女頭もメイドたちも、黙り込んだノツィーリアにそれ以上突っ掛かってくることはなく、挨拶もせずに部屋から出ていった。
「……。うう……」
ようやく静寂が戻ってきた瞬間、涙があふれ出した。手の甲で何度拭っても、傷ついた心から噴き出す涙は抑えることができない。
父王から命じられた暗記は、まだ数冊しかできていない。しかし今のノツィーリアは、本を読むどころか立ち上がることすらできなかったのだった。