最終話 新たなる朝
ノツィーリアが目を覚ますと、見たことのない模様の天蓋が視界いっぱいに広がった。
(ここはどこ……?)
不安を覚えながら身じろぎした途端、隣に横たわる人の存在に気づいて心臓が跳ねた。
(そうか、私……)
ルジェレクス皇帝は、まだ眠っているようだった。規則正しい寝息を洩らしている。
その呼吸音を聞いているうちに、昨晩の出来事――夢としか思えないほどの濃密な時間が、脳裏によみがえった。
宝物を扱うような手付きで触れてくれて。
時には力強く、でも決して乱暴ではなく。
気遣う言葉を何度も掛けてくれて、初めての経験に混乱して泣き出しても優しくなだめてくれて、身も心も溺れさせてくれた。
(よく憶えていないけれど、すごく叫んでしまった気がする)
おぼろげな記憶の輪郭がはっきりとしてくれば、瞬く間に全身が燃え上がる。
昨晩は、媚薬の効果は簡単には収まらなかった。正直にそれを打ち明けても、ルジェレクス皇帝はあきれもせず嫌悪感を示すこともなかった。それどころか、薬効にさいなまれる自分以上にノツィーリアを求め続けてくれた。
改めて、皇帝の横顔を眺めてみる。
(綺麗なお顔をしていらっしゃるのね)
冷徹皇帝という俗称から、野蛮な姿を思い描いていたことを申し訳なく思った。
健康的な浅黒い肌、その上に流線を描く黒髪。長い睫毛、艶やかな唇。
いつしか読んだことのある恋愛小説に出てくるような、理想の王子様を思わせる端正な顔立ち。
そのあまりの美しさに、絵画鑑賞をするかのようにまじまじと見つめてしまう。
(こんなにも素敵な方に、媚薬の効果を治める手助けをお願いしてしまったなんて。厚かましいにもほどがある)
どうして初めて出会った相手の名を何度も熱っぽく呼んでくれたのか、顔じゅうに口付けの雨を降らせてきたのか――。
分不相応な扱いをしてもらえていると自覚していても、今はまだ、夢の続きのようなこの温もりを手放したくない、強くそう思った。
少なくとも皇帝が目覚めるまでは、この心地よさに浸っていられる。まだこの幸せな時間が終わらないで欲しい――。
そう願ったのも束の間、ルジェレクス皇帝が目蓋をゆっくりと持ち上げた。赤い瞳がぼんやりとしていたのは一瞬で、すぐにノツィーリアの方に振り向いて、柔らかな笑みを浮かべる。
「ノツィーリア姫。昨晩は……しつこく抱き続けてしまってすまなかった」
「いえ、優しくしてくださって……けほっ」
慌てて口を押さえてせきこむ。思いの外、喉が渇いていたのだった。
顔を背けて咳を繰り返していると、温かな手に抱き寄せられて、背中をさすられた。
「声が少し掠れてしまっておるな」
そっと背に手を添えられて、慎重に起き上がらせられる。
その動きで肌掛けがずり落ち、素肌をさらしてしまいそうになる。ノツィーリアが肌掛けを引き寄せて肌を隠す隣で、皇帝がサイドテーブルに手を伸ばした。
そこに用意してあった水瓶からグラスに水を注ぎ、手渡してくれる。
「ありがとう、ございます……」
自分でも驚くほどに弱々しい声で礼を告げてから、そっとグラスに口を付ける。
ゆっくりと水を飲み進めていると、皇帝が脱ぎ捨ててあった自分のガウンを拾い上げて肩に掛けてくれた。
ガウンの表面を滑る手が、今度は髪を撫ではじめる。その優しい手付きに心がときめく。
すぐそばからじっと見つめてくるまなざしが、熱を帯びている。ノツィーリアがそわそわと落ち着かない気分で水を口にしていると、皇帝がため息をついた。
「そなたの歌声、そして私の腕の中で舞い踊る姿、実に美しかった……」
「!? げほっげほっ」
信じがたい言葉の数々に動揺して水を噴き出しそうになってしまった。喉の変なところに水が引っ掛かってしまい、口を押さえて咳を繰り返す。
「おかしなことを言ってすまない……! ともすればつい、昨晩のことを思い出してしまうのだ」
咳の収まったノツィーリアが振り向くと、皇帝は顔を真っ赤にしていた。
その赤みがうつってしまったかのように、ノツィーリアの頬にも熱がこもる。
「いえ、あの、……本当にありがとうございます、親切にしてくださって。でも、どうして初対面の私をこのように厚遇してくださるのですか」
「初対面……そうよな、対面したのは昨晩が初めてではあるが……。余がそなたについて初めて耳にしたのは十七年前、そなたの母君の葬儀の際だ。そなたは六歳という幼さにもかかわらず『涙をこらえ、凛と前を見据えていた』と、葬儀に参列した父上が話していた」
「そ、そうなのですね……」
いきなり子供の頃の話をされて、ノツィーリアは面食らってしまった。
その反応に、ルジェレクス皇帝がたちまち気まずげな表情に変わる。
「すまぬ、どこから話を切り出せばよいものやら。そのときはただ、幼くとも気高きそなたに尊敬の念を抱いておったのだが……」
一旦そこで言葉を区切ったルジェレクス皇帝が空になったグラスを取り上げて、ノツィーリアの背中に手を滑らせて腰を抱き寄せた。
触れ合う肌の熱さにノツィーリアがどきどきして固まっていると、顔を近づけてきた皇帝がノツィーリアの頭に口付けた。
赤い瞳が目を覗き込んできて、照れくさそうな笑みを浮かべる。
「白状しよう。余はかねてより、そなたに焦がれておったのだ。ユフィオルトからもたらされる話を聞くたびに、想いは燃え上がるばかりで……」
「ユフィオルト様が私の話を?」
「ああ。レメユニール王家の中で唯一王族としての品格を持ち、家族や従者から冷遇されても誰かに当たることもなく耐え忍ぶ姿は立派であったと」
「そうですか……」
自分を軽蔑していると思っていた相手が、そんな風に見てくれていたなんて――。驚きを覚えるとともに、そもそも妹の元婚約者の振る舞いがすべて演技だったことに、改めて驚かされる。
大国の間者という存在のすごさについてしみじみ考えていると、ルジェレクス皇帝がノツィーリアの髪に頬を擦り寄せてきた。
「余は既にそなたに心を奪われていたというのに、昨夜そなたを一目見たときに、そなたの息をのむほどの美しさに見惚れずにはいられなかった。きらめく銀色の髪、満月の輝きにも負けぬ黄金色の瞳……。妹のために頭を下げ、余を凶刃から庇おうとした凛々しい姿にも胸を打たれた。余はそなたに心酔しきりだ」
「ありがとうございます……」
耳を疑うような言葉を続けざまに聞かされて、ノツィーリアは思わず目を泳がせてしまった。
その反応に口元を微笑ませたルジェレクス皇帝が、笑みを消してさらに語り続ける。
「話を戻そう。先月、レメユニール国王のおぞましい思い付きでそなたが汚されると知り、その窮地から救い出したいと願うも、余の個人的な思いだけで兵を動かすわけにはいかなくてな。気を揉む日々を送っておったのだが……」
「それは、恐れ入ります……」
「そんな中、我が帝国同様そなたの母君を支持する国々から『レメユニール国王の狼藉はいよいよ捨て置けぬ』との声が続々と上がりはじめたのだ。希代の踊り子を手込めにしただけでも許しがたいのに、その娘まで我欲を満たすために利用するなど到底看過できぬと。これを機に、国王の暗殺をもくろむ国も現れはじめたのだが、遠方他国のその動勢を根拠に『我が帝国の近傍に争いの火種が持ちこまれることを防がねばならぬ』との大義名分ができた。そこで、あえて国王の事業に乗るふりをして国王に大金を与えて油断させ、浮かれているところにさらなる儲け話となる魔道具の利用を持ちかけ、堂々と中枢へと踏み込み、そなたを連れ出す手筈を整えたのだ」
「そうだったのですね。何から何まで、本当にありがとうございます」
母が世界各地で人々を魅了したからこそ、今自分はこうして生きている――。
時を越えて亡き母に救われたこと。
皇帝が、自分に思いを寄せ続けてくれて、尽力してくれたこと。
胸が熱くなったノツィーリアは、自分を抱き締めるようにして胸の上で両手を重ねた。
ルジェレクス皇帝の赤い輝きを放つ瞳を一心に見上げて、心の底からの笑みを浮かべてみせる。
「ルジェレクス皇帝陛下。わたくしめに御心を砕いてくださったこと、いくら感謝してもしきれません」
「ノツィーリア姫……!」
顎をすくわれる。
唇が近づいてくる。
あふれる想いに任せて口付けを受け入れようとした、その瞬間。
「ほ~ら陛下、寝室に転移して正解だったでしょお~?」
「!?」
予期せぬ呼び掛けに、びくりと肩が跳ねる。震え上がったノツィーリアが声の方を見ると、そこには魔導師が立っていた――わけではなく、空中に横たわっていた。まるで見えないハンモックに寝そべるかのような姿勢で肘枕をしている。
突然の訪問者に驚いたノツィーリアは、慌ててガウンの前を重ね合わせて肌を隠した。
一方で、皇帝が髪を掻き上げて、ため息をつく。
「まったく貴様は……。やはり『複数人をまとめて飛ばす転移魔法は同じ環境である方がやりやすい』というのは虚言であったか。貴様ほどの力があって、たかだか四人程度を同時に飛ばす魔法に労するはずもなかろうに」
「な~にをおっしゃいますやら。やりやすいのは本当ですけど~?」
皇帝は、魔導師の方に視線をやることもなく水瓶を傾けてグラスに水を注ぎ、それをひと息で呷った。唐突な臣下の訪問に別段驚いた様子もなく、口付けを中断させられたことをとがめもしない。
魔導師がそこにいるのがわかっていたかのような皇帝の態度に、ノツィーリアは衝撃を受けずにはいられなかった。
「慣れていらっしゃる……?」
「こやつには自由を許しておるのでな。神出鬼没で申し訳ない」
皇帝の自室であっても自由に出入りが許されている――。ある可能性に思い至れば、つい声が大きくなってしまう。
「あの、魔導師様は、もしかしてずっとそこにいらっしゃったのでしょうか!?」
「いやぁさすがに~? そこまでの報酬は身に余ります~」
「心にもないことを言いおって」
皇帝のあきれ声にも悪びれずに軽々と床に降り立った魔導師が、ノツィーリアを見てにっこりと口元を微笑ませる。目は元々笑った形であるせいか、その笑顔が本気か冗談かがさっぱり読み取れない。
ノツィーリアが魔導師の顔をじっと見つめるうちに、ふと残念そうな表情に変わった。
「あーあ。噂通りの悪女だったら、俺がいただくはずだったのにな~」
「え……」
「無礼な物言いをすまぬ。そやつが勝手に言い出したことだ。許可は出しておらぬ」
「悪女を俺の魔法で思いっきり調教したかったのにな~。そんな人どこにもいなかったわけだけど。噂なんて、あてにならないよね~」
「わざわざそんなことを言いに来たのか貴様は。とっとと出ていかぬか」
皇帝がぞんざいな手付きで宙を払い、魔導師を追い出しにかかる。
「はいはい。早く二人きりになりたいんですよね~」
「分かっているならさっさと……」
「お待ちくださいませ魔導師様!」
「へ? 俺?」
その場で消えかかった魔導師が、再び姿を現す。
ノツィーリアはガウンの前を念入りに重ね合わせると、広いベッドの上で正座して背筋を伸ばした。膝の前で両手を揃え、ゆっくりと頭を下げる。
「このようなみっともない格好で申し訳ございません。昨日はわたくしめをお助けくださいまして、本当にありがとうございました」
「いや~俺は陛下に命じられただけだからさ。礼なら陛下に……ああ、もうし終わってるのか」
「茶化すな、シアールード」
陛下が語気鋭くたしなめる横で、今言われた言葉の意味するところに気づいた途端に頬がかっと熱くなってしまう。
気まずさに顔を上げられなくなる。しかしノツィーリアの方から引き留めた手前、いつまでも待たせるわけにはいかないと、気を取り直してもう一度姿勢を正した。
魔導師をまっすぐに見つめて笑みを浮かべてみせる。
「此度の一連の作戦、貴方様が立案なさったと皇帝陛下から伺いました」
「まあそれはその通りなんだけど。下卑た発想には下卑た発想で返すってのは、そこの皇帝にはできないことだからね~」
軽い口調でそう言いながら皇帝を顎で指す。無礼な態度に肝が冷えたが、ちらりと皇帝を見ると別段気にする素振りもみせなかった。こうした態度も日常なのかも知れない。
およそ君主と臣下のやり取りには見えない軽薄さに驚いていると、三日月型だった目が見開かれてノツィーリアの全身を見回した。
「初めて会ったときから思ってたけど、よくもまあこんな天女みたいなお姫さまを悪女だなんて言ったもんだよね~。陛下、今から褒美の変更って可能です?」
「始めから許可しておらぬといっておるだろう!」
「はいはい。じゃあね~」
魔導師は軽く手を振ると、その場から一歩も動かずにふっと姿を消した。
「まったくあいつは……。すまぬな、驚かせてしまって」
「いえ、気にしておりません、皇帝陛下」
返事した途端、眉をひそめた表情を返される。
何か無礼なことをしてしまったかもと不安を感じていると、皇帝が歯を見せて笑った。
「呼び方が戻っておるぞ。昨晩は、幾度も余のことを名で呼んでいたではないか」
「え! そ、それは……!」
昨日の夜は、肌を合わせている最中に『名を呼んでくれないか』と乱れた呼吸の間に耳元で囁かれて、夢中で『ルジェレクス様』と叫び続けてしまったのだった。そのたびに皇帝は『ノツィーリア』と姫を付けずに甘い声で何度も呼び返してくれていた。改めて思い出せば、そのときに体の奥に感じたしびれがよみがえる。
もじもじとうつむいていると、皇帝がノツィーリアの銀髪を手の甲で払い、襟足に手を差し込んできた。頭を引き寄せられて、そっと額を合わせられる。
至近距離から、優しい声が聞こえてくる。
「……まずは、名を呼ぶところから始めようか」
「は、はい。……ルジェレクス様」
「よろしい」
温かな笑顔、続けて鼻先に口付け。ちゅっと鳴らされた音が、心をくすぐる。
「突然連れ出してしまって勝手だが、これからは余と共に歩んでもらえぬだろうか。我が妃として」
「身に余る光栄に存じます、ルジェレクス様。ですが、お母様に似ているという理由だけで、リゼレスナ帝国の皆様が私を受け入れてくださるかどうか……」
「文句を言う者がいれば、余がその者を説き伏せよう。余がどれほど深くノツィーリア姫を我が妃として求めているか、余がそなたのどこに惹かれているか。帝国民全員が納得するまで演説したっていい」
「演説、でございますか!?」
熱弁を振るう皇帝を思い描く。力強く語るその内容は、ノツィーリアの魅力についてだという。
とても平然と耳を傾けていられる自信がない。
「あの、その演説内容は、勘弁してください……!」
ノツィーリアが恥ずかしさのあまり泣きそうになっていると、大きな手のひらに頬を包まれ、もう一度鼻に唇を寄せられた。
ノツィーリアの目を覗き込んでくる瞳が、優しい光を帯びる。
「では改めて問おう、ノツィーリア姫。余と共に歩んでもらえぬだろうか」
「はい、ルジェレクス様……!」
あふれる想いをこらえきれず、ノツィーリアは皇帝に思い切り抱き付いた。
これから祖国がどうなるか、どうすれば国民を守ってあげられるのか、何も持たない自分が大国の皇帝にどう寄り添っていけるのか。考えることはたくさんある。
しかし冷徹さなど今は微塵も感じさせない心優しき皇帝に抱き締め返された瞬間、その力強さにすべてを奪われてしまう。
温かな腕の中で、母の言葉を思い出す。
『私のかわいいノツィーリア。人生、何が起こるか分からないんだから、最期まで諦めちゃダメよ』
(こんなにも素敵な出来事が私の身に起こるなんて……! お母様、本当に私、『これから幸せになっていこう』って、そう思うことができました。私の心を励まし続けてくださって、本当にありがとうございます)
心に湧き立つ温もりに浸りながら、抱き付いた熱い体にそっと頬ずりする。
その瞬間、ルジェレクス皇帝の肩がわずかに跳ねた。
驚いた風な反応の意味が分からず、不思議がりながら顔を上げると、そこには照れくさそうな笑みが待ち構えていた。
「ノツィーリア姫。今そういうことをすると……」
「え? ……あ」
次の瞬間には仰向けにされていた。
真上から見下ろしてくる皇帝が、まるで逃がさないと告げるかのように、ノツィーリアの顔の両側に手を突く。
「昨晩の続きを求められていると受けとめたぞ」
「わ!? 私はそんな……!?」
動揺する間に覆い被さってきて、唇を二回、三回と重ねられる。
口付けを終えるなり頬ずりしてきた皇帝が、耳元で囁いた。
「今は難しいことは考えず、私の腕の中にいておくれ」
「はい、ルジェレクス様……!」
そう答えた瞬間、ぎゅっと抱き締められた。
(なんて心地よい温かさなんだろう……!)
夢の続きのような時間が再び幕を開ける。
これは夢ではないんだ、本当に、現実なんだ――。ノツィーリアはうれしさのあまり、ルジェレクス皇帝に抱き付いた腕にぎゅっと力を込めた。
その仕草は皇帝を焚き付ける結果となり――。
ノツィーリアはまたさらに声が掠れてしまうまで、一瞬たりともルジェレクス皇帝から解放されることなく、甘い時間を過ごしたのだった。
〈了〉
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