坊主、迷うも灯火に出会いて
谷村さんの勢いに押されるように、青年も歩き出す。
谷村さんが顔だけで振り返って笑った気がした。
気がしたが、すぐに消えてしまった。確かめる術は、もうない。
◇
「おお、月神さま! さすがです」
いいかげん、じいさんのおべっかに相槌をうつのも疲れてきた。
今回は、いや、今回も、助けられての帰還なのだし。
しかし谷村さんの事を正直に話してもややこしくなりそうなので、「受け止めようとした自分の気持ちが伝わったのか、彼は人の姿を取り戻し、成仏したようだ」と話を変えて報告した。
手柄をとるようで良心が痛んだが、これも方便だ。
(ああ、腹が減ったな)
なんだかどっと疲れた足取りで食堂街に行く途中、それに出会った。
────────不意打ちだった。
ぎぃ、ぎぃと揺れる音。
川に繋いだ船かと思い、
ふいに、見やった先に。
花も散ったサクラの木。
そこにぶら下がった男。
揺れる体は、振り子のようで。
首から伸びた縄が、木の枝に食い込む。
だらんと落ちた腕に手遅れだとは思ったけれど、
あわてて駆け寄り下そうとした。そして見てしまった。
見慣れた顔。
────────ああ、これは俺だ。
血色の失せた顔は、しかし確かに見慣れた自分の頭部についているはずのもので。
ああ、現実世界で俺は死んだのか。と、哲は思った。
それとも、怪に惑わされているだけなのか。
どっちにしろ、元の世界には帰れないんだ。
あちらでは、死んだも同然なのではないか。
足下が泥のように柔らかくなり、踵から足首へと、哲の足をずぶずぶと呑み込んでゆく。
なんだかずいぶん疲れてしまった。
このまま呑み込まれるのも運命か。
そんなふうに身を委ねようとした時だった。
ガンと頭を殴るような声がふってきた。
「バカなこと言ってんじゃないよ! 哲坊! まだ可愛いお嫁さんも紹介していないっちゅーのに」
この声は────
「駒沢のおばあちゃん!」
見覚えのある小さい体で、でも曲がっていた背筋はぴんと伸びて、少し若返ったようにも見える。
しわの刻まれた細い手に似つかわしくない強い力で、ぐいと手を引かれた。
まろぶように、哲は泥から足を抜いた。
「あんたはこっち!」
言うが早いか、どんどんと速度を上げる。
おばあちゃん、手押し車を使っていたはずなのに。
哲の息があがる速度で、どんどんと手を引かれる。
哲はバランスを崩さないよう小走りについていく。
「で、でも、おばあちゃんがいるってことは、やっぱり俺も」
「だまらっしゃい!」
「はい」
「こんなのは気の持ちようだよ」
(絶対違うと思う)
「くたばる前から諦めるんじゃないよ。可愛いお嫁さんの事は息子に託けてあるからね、きっと見つかるさ」
「いや、俺は別にひとりでも」
「食わず嫌いはしない!」
「はい」
「ひとりもひとりで楽しいけどね、家族のいる生活も、悪いもんじゃなかったよ」
「……はい。ご縁があれば」
子供と孫たちに囲まれて見送られたばあちゃんの言葉には、重みがある。
「あるよ」
ばあちゃんは立ち止まって、その先を指差した。
「ここからは、哲坊だけで帰るんだよ。皆によろしく言っといておくれ」
ばあちゃんは生前よりも大きな声で、がははと笑った。
◇
「哲さん。哲さん」
ああ、夢だったのか────どこから?
目が覚めたら、檀家の外村さんが心配そうな顔をしていた。
「えっと……俺」
「外で眠りこけてたからねぇ、とりあえずここに運んだんだけれど。体は大丈夫かい? 痛いところとか」
ああ、ここは寺務所のソファか。
「ありがとうございます。大丈夫です」
頭をさすりながらこたえる。
痛みもない、コブや外傷も無さそうだ。
あとで念のため病院に行ってもいいが、救急車を呼ぶほどでも無い。
「谷村さんがねぇ、哲さんが困っているから、手を貸してくれって。夢枕にたったのさぁ。
お礼にねぇ、死んだ時は極楽に案内してくれるんだってぇ」
少し寂しそうに、外村さんは笑った。
「谷村さん、急にいなくなっちゃって。どうしてるんだろうねぇ。まさか、とは思うけど。どこかで元気に生きてくれてたら良いけどねぇ」
「ん? 谷村さん、いなくなったって」
「え? 哲さん、やっぱり頭かどこか打ったのかい? ほら、谷村さん、先週急に引越ししちゃったでしょう。荷物もぜんぶ空っぽでさ」
(谷村さんが────死んでない?)
「あっ、哲さん」
お堂に走る。閉められた木戸を開ける。
畳の上からは、布団も、谷村さんのご遺体も、無くなっていた。
かわりに、白い封筒がひとつ、落ちていた。
◇
哲さん。
騙して悪かったね。村での生活、楽しかったよ。
ちょうど頃合いだったから、私はもう行くよ。
道案内の仕事があるからね。
ずいぶんと長く休んでしまった。
休暇は終わりだ。
また時がきたら、会おうな。
それまで、さよならだ。
(……谷村さんだ)
哲は手紙をそっと懐にしまい、目を閉じて手を合わせた。
「哲さん? 大丈夫かい」
気遣わしげにかけられた外村の声に、はいと頷く。
外村は安堵したように表情をゆるめ、あっ、そうだ、と声を上げた。
「じゃあちょっと、見てもらいたいもんがあるんだが────」
「哲さんを見つけた時に、一緒に見つけたんだがね」
外村は「どうする?」と、困ったような顔を向けた。
「寺で預かります。きっとこれもご縁でしょうから」
桜の下の土が掘られたようにうがっていて、知らないお地蔵さんがひょっこりと顔を出していた。
笑っているような穏やかな顔が、どこともなく谷村に似ている。
◇
「聞いたよ、谷村さん突然引っ越しちゃったんだって?」
駒沢のばあちゃんの初七日でも、その話題でもちきりだった。
「ばあちゃんもいっちゃったし、寂しくなるねぇ」
「ほんと、ほんと」
「谷村さん、家族のところにでも帰ったんだろうか。哲さん、何か聞いてるかい?」
「そうですねぇ」
哲は着物の上から、懐にしまった手紙にそっと手のひらを重ねた。
「────旅に出るんだそうですよ。いつかまた、会えます。きっと」