落ちる幽霊
「落ち続ける霊、ですか」
哲は問い返した。
白髭のじいさんは深く頷く。日に日に芝居っぽさに磨きがかかっていないだろうか。気のせいか?
「はい────。昔、無実の罪を着せられて村人に追われ、追い詰められた青年が、自ら身を投げたらしいと言われる崖に、出るのですが」
(らしい、とか、そんな言い伝えばっかりだな)
ツッコミは心の中だけにして、いちおう、真剣な顔で相槌を打つ。
じいさんも真剣に続ける。
「ひとりで落ちるぶんにはいいのです」
「いいんだ」
おっと、口から出てしまった。
ホホ、と、じいさんは笑う。笑い事ではないと思うけれど。
「大きな音がするだけなので────。いつも宵の口に音が鳴るので、近隣に住む者などは、音がなったら寝なさいよと子供に言う親も」
「けっこう共存してるんですね」
「まったく、たくましいですな」
「それ、除霊の必要あります?」
「問題は、その時その場所に他の人間がいる場合に起こるのです」
「つまり」
「道連れにされる、と言いますか」
言いづらそうにちらちらとこっちを見ながらじいさんは言うが、つまりその危険をおかして哲に除霊をしろという事であろう。
哲は頷きながら、心の中では冷や汗をかいていた。
(もしかして、俺、けっこうピンチじゃ?)
◇
翌日────────
「ここか」
くだんの崖を下から眺める、哲である。
「昼間は何の変哲もない崖なんです」
付き添い兼案内役の若手祓い師が言う。
「まぁなぁ……」
どこの世界でも、幽霊は夜が好きなのだろうか。
一晩、哲なりに対応策を考えた。
あの母親の霊にも読経は効かなかったし、別の手を考える必要があるだろうと思い。
「よし、受け止めるか」
お付きの若者は、パシッとひざをたたいた哲を、怪訝な顔で見る。
「受け止める……? とは」
「ん────? ほら、上に行くと道連れにされるんだろう? だったら、いっそこっちで受け止められないかなって思って」
そう言いながら準備体操をしていると、ドン引きした目線をよこされた。
「さすが、月神さまは考えが常人とは違いますね」
気のせいだろうか、「コイツ狂ってるぞ」と聞こえたような。
哲は言い訳をするように、崖下の草むらを指差した。
「ほら、草が生えているだろう? 最近は誰も道連れにはされていないって話だ。そもそもその話だって言い伝えなんだろう、真偽はわからない。大きい音がするって言ったって、もし落ちる幽霊に質量があるなら、草も折れて地面も抉れてくぼんでいるはずだ。だから、受け止めてもこっちは痛くないんじゃないかなぁ。失敗するなら、すりぬけて受け止められない可能性の方が高いかもしれないが」
「はぁ……そういう問題……なのか? いや、月神さまがおっしゃるなら……」
何やらぶつぶつと独り言を言いだした青年を横目に、哲は続ける。
「無実の罪で追い詰められて、身を投げたのだろう? ひとりくらい、そいつを信じてうけとめる馬鹿がいたら、救われたかもしれないじゃないか」
「そう……かもしれませんね」
若者はふと真摯な顔つきになり、崖の方を向いて手を合わせた。
◇
飛び降りの時間まで、あとどのくらいか。
教会から差し入れされた握り飯を食べながら、時折崖の方を確認する。
その変化は、唐突だが明らかだった。
────────────きた。
ずる、
ずる、
ずっ。
背筋が冷える。あの時と同じ。
引きずるような、音が響いた。
暗闇に慣れてきた目をこらす。
崖の上から、にゅっとはえた、
白い顔が、こっちを見ていた。
ずっ、
ずる、
ずる。
────────────手が。
痩せ細った手が訴えるように、
哲のほうにゆるり、と向いた。
白い体を引きずるようにして、
崖を這い降りてこようとする。
手や上半身が崖にあたるたび、
ぴちゃぴちゃと水の音がした。
哲はその音の正体を見ようと、
松明を取り、上へとかかげた。
(思っていたのと、だいぶ違う)
────────────血だ。
体や手のあちこちに、赤暗いものがついている。
あれを受け止めるのか。実体ではないにしろ、なかなかの覚悟が必要だ。
白い顔には表情も何もない。
しかし窪んだ眼窩から流れた血は、涙のように哲には見えた。
────────────いま。
落ちてくる塊を受け止めようとその一歩を踏み出したとき、背中をぐいと引かれてしりもちをついた。
ドン────────ッ
「いったいなぁ」
重たく響く音、そして誰かの軽い口調。
哲は慌てて、落とした松明を拾い、崖下を見た。
「谷村さん?!」
谷村さんじゃないか。亡くなったはずの。
寺のお堂に安置していたはずの亡骸は、血色もよく、前に会った時と同じ笑顔を浮かべている。
ただ、尻餅をついたように座っていた。
谷村さんが、俺のかわりに受け止めた?
そもそも谷村さんがいるということは、つまりここは死後の世界なのか。
それとも、全てが夢なのか。
混乱して言葉の出ない哲に向かって、谷村さんは人好きのする笑みを深めた。
「こういう力仕事は俺の仕事だ。哲さんはまだあっちでやる事がある」
谷村さんはそう言って、傍に座り込んだ青年の肩に手を回した。
────青年。
顔色の悪い、しかしきちんと人間である。
彼が、あれなのだろうか。
あれが、彼だったのだろうか。
谷村さんは青年に、優しく力強く声をかけた。
「おお、兄さん! ここらで俺と一緒に行こうじゃないか。旅は道連れってね。何、時間はたくさんあるんだ、どんな話も聞かせておくれよ」