坊主、帰れなくなる
少子高齢化の波は、どの業界にも影響しているだろう。
ウチの界隈だってそうだ、と哲は思う。
それで飯を食っている身とはいえ、新しい仏様を見送る日が立て続けに重なると、さすがに気分も滅入ってくる。
駒沢のおばあちゃん、この間まで世間話をしにきてくれていたのに。
俺に嫁さんを紹介してやるって、元気に話していたのに。
もうあの笑顔にも会えないのか。
もう一件は、無縁仏だ。
田舎では珍しい。
遠方に住んでいたって、なんだかんだで、親族に連絡がつくものだけれど。
山の上の小屋でひとりくらしていた、谷村さん。
彼の親族の連絡先は、村の誰一人知らなかった。
だから村の有志が集って、見送ることにした。
今日は寺のお堂で、ご遺体を安置している。
明日は朝から駒沢のおばあちゃんの初七日、午後は谷村さんの葬儀だ。
少しでも仮眠をとろう。
哲が寺務所から寝室に戻ろうとしたとき、外から物音がした。
ズッズッと、何かを引きずるような音。
電気はつけず、障子の雪見窓を少しあげて、外を見る。
人影は見えないが。
鐘の隣の、桜の木のほうか?
猫か何か、小さなものが動いた気がした。
しかし先ほど聞こえた音は、もっと重たいものを引きずるような、重量感のある音で────
無茶はよせ、危ない、朝を待てとささやく自分と、音の正体を突き止めたい自分のせめぎ合いは、後者に軍配があがった。
表に出ると、自分の足音がじゃりじゃりと鳴る。
物盗りであれば、この音で逃げていくだろうと思った。
懐中電灯を持って、桜の木から鐘のまわりまでを見渡すが、人影はない。
もういいか。中に戻ろう。
空気は生あたたかいのに、寒気がしたような気がして、哲は着物の前をぎゅっとしめた。
寺務所へ戻ろうと踵を返す。
誰に押されたわけでもないのに、つるりと草履の足を滑らせた。
ゴォォォ────……ン
己の頭で鐘をついてしまう。
意識が遠のく。なんという不覚。
ああ、嫁さんがいたら、この音に驚いて、倒れた自分を見つけてくれたのだろうか。
哲の最後の思考は、そんなたらればだった。
◇
「おお! ついに召喚に成功したぞ!」
「月神様! 月神様だ!」
目を覚ますと、自分が坊主ではなく法王になったのかと思った。
そのくらい、豪奢なホールの中に立っていたのだ。
素晴らしい造形の彫刻、緻密な壁画は、異国で見た大きな協会の内部を思い出す。
それにしても、まわりからのコールに気になるワードがあるのだが。
「あ、あのぉ、月神様って……?」
腰低く問いかけると、サンタのような白鬚を蓄えた恰幅の良い老人が、すっと前に出てきてくれた。俺よりよっぽど貫禄がある。老人は目を輝かせて言う。
「満月のように煌々としたお姿の神様です!」
「剃髪のこと……?」
「はっはっは。ご冗談を」
何も面白い事言ってないけど。
「え、と。それで、お……私は何をすれば」
おお、と、まわりの人垣が沸いた。
まだ出来るとは言っていない。そんなにハードルをあげないでほしい。
曇りのないまなこで、老人は哲を見つめてくる。
「除霊を。彷徨える魂を天へと導いていただきたいのです」
「はぁ……。それができたら、元の世界に帰れるのでしょうか?」
とりあえず俺には心を込めて経を読むことしかできないけれど。
それで天に昇ってくれる霊だったら、良いのだけれど。
さて、朝の葬儀に間に合うのだろうか。それだけが気がかりだ。
「元の世界、ですか……それは私どもには、分かりません」
「はっ?!」
「月神様のいらっしゃる天界に行く手段など、私どもは待ち合わせておりませんので……お呼びするだけで精一杯でございます」
はっはっはと呑気に笑っている場合じゃないよ?
帰り道は用意されていない、ということなのか?
「で、ではですね。除霊とは、具体的には?」
きけば老人は、この国の祓い師のトップだと言う。
祓い師たちが総力をあげても排除できなかった霊障を、なんとかしてくれという話だった。
(え、荷が重くないか?)
哲はただの田舎の坊主だ。
ついでに言うなら、霊を見たことも祓ったこともない。
そう正直に伝えたが、老人には「月神さまもご冗談をおっしゃるのですね、フォッフォッフォッ」と流された。
仕方ない、腹を括ろう。
人生なんていつだって、出来ることをするしかないのだ。
最初の除霊対象は、母親の霊だった。
池の中から出てきては、近くの村の赤子のいる家を覗き込むらしい。
村人の言によると、大昔に、子を失った悲しみから池に入水し、怨霊化した女なのだと噂されている。
「じゃあ頼みます」
池のほとりに簡易テントのような雨よけを張って、調理用の焚き火をおこし、案内役の祓い師たちはそう言い残してそそくさと行ってしまった。
一晩ぶんの食料とともに、哲は1人残されるかたちになった。
「あー……ソロキャンプなんて久しぶりだな」
学生の頃はよく山にこもったものだ。
街灯は無く、灯りは目の前で燃える焚き火のみ。
まだ空は明るいが、深夜になればさぞ星が綺麗なことだろう。
(しかし、霊なんて本当にいるのか)
知らないからこそ、怖さもまだ湧いてこない。
◇
いつのまにか、眠っていたらしい。
火はすっかり消えてしまっていた。
重いまぶたを精一杯あけてやると、
ひやり、冷えた空気が頬を撫でた。
意識が急激にはっきりと覚醒する。
────────────いる。
ぴと。
ぴとん。
しめったやわらかいものが、池のほうから近づいてくる。
すぐに松明に火をつけようとするが、手が震えてうまくいかない。
そうか、これが本能的な恐れというものか。
哲の思考は体とは逆に冷静で、意識はこの恐怖から逃げられそうにはなかった。
ぴた。
ぴっとん。
ぱたた。
水の滴る音が近づくにつれ、生臭いような藻のような匂いが、鼻腔をかすめた。
ずるっ。
ぴとん。
ずざざ。
────────────いま。
目の前を、たしかに通っていった。
ほのかな月明かりに浮かんだ横顔。
肉が削げ、こぼれ落ちた黒い毛髪。
幽霊というには肉肉しい人形の塊。
真っ暗に空いた眼窩が、哲を見ることはなかった。
それが過ぎてしばらく、哲は呆然と固まったまま。
やがてはっと我に帰り、女の行き先を目で追った。
夜道には水に濡れたものが通ったあとが残っていた。
やっとのことで再び火をおこし、松明を持ってそのあとを追う。
村に着くと、女のようなものは一軒の家の窓にへばりつき、何かを呟いていた。
哲はそおっと近づき、耳をそばだてる。
ヒューヒューとふく隙間風のような音だったが、よくよく聞くと女が何か喋っているようだった。
「────……ナイ……テイル────ナカナイデ」
ああ、彼女は子供を心配しているのか。
そう思うと、急に足の震えがおさまってきた。
たしかに、その家からはかすかに子供の泣き声がしたのだ。
赤子だろうか、母親らしき女性の子守唄も聞こえてくる。
失った我が子を、重ねているのだろうか。
だからといって、放置できるものではないけれど。
少し離れた場所で、哲は読経をはじめた。
女は嫌そうに身をよじるだけで、消えることはなかった。
◇
「墓、ですか」
「はい。その女の子供の墓など、ありませんか?」
翌朝、哲は村の長老を訪ねて聞いた。
「そうですねぇ。なにぶん伝説のように曖昧な事ではあるのですが────」
長老は、正確さは期待しないでほしいと前置きして言う。
「言い伝えでは、あの欅の木の近くに眠っていると」
そう言って、村の外れにある立派な木を指差した。
「そうですか。ありがとうございます。────あの木の所有者はわかりますか?」
◇
翌日も同じ時間に、彼女は現れた。
ぴた、ぴたん、と引きずるように歩く彼女の前に、哲は立ちはだかる。
彼女は哲のことを意にも介さないふうだったけれど、哲がそれをだしたとたん、動きを止めた。
「ほら、あなただけの赤子だよ」
木を削って作った赤子の像を、女に差し出す。彼女の子供が近くで眠っているらしいという、欅の木の枝から作ったものだ。
────おおん、おおん
嘆くように、嬉し泣きのように、女は声をあげた。
女が赤子の像に手をのばすと、哲の目には赤子が笑ったように見えた。
笑う赤子を抱く女の目には光が宿り、慈しむような表情でわが子のための歌を歌う。
そこにいるのは、ただ幸せなひと組の母子だった。
女はにこりと笑って、哲のほうを向いた。
生前の姿に戻ったのだろうか、白く美しい手を哲にのばす。
握手するようにその手を握った瞬間、
そのまま、哲ごと一緒に、池の中にひきこまれた。
(うお、ちょっと待ってくれ! これはちょっと想定外────)
踏ん張るのが遅れて、土を踏み締めようとした足は虚しく水をかいた。
鼻から、口から、肺に残った空気が漏れる。
視界は暗く、白い女の手だけがぼおっと光る。
(やばい、もう息が────)
次の一手も考えられずに体から力が抜けたとき、
着物の襟あたりを、ぐいと引っぱり上げられた。
水面の上から、無骨な男の手が一本のびていた。
「────ゴホッ」
ずるり、と岸まで引き上げられた。
体に入った水を咳と一緒に吐き出して、哲は恩人を探すように振り向いた。
「ありがとうございます、助かりました────」
が、しかし、そこには誰もいなかった。
遠くで蝉の声だけが、夏を惜しむように鳴いていた。
◇
「さすが、月神さまですな!」
哲はすぐに、祓い師たちの事務所兼協会に報告をしに戻った。
彼らは濡れ鼠になった哲を驚いて迎え入れ、風呂と着替えと夜食を用意してくれた。
ひとごこちついたあと、祓い師たちと同じ灰色の詰め襟の服を着て、白髭のじいさんに報告をした。
哲の報告をきいたじいさんの第一声が、先の発言だ。
「たまたまですよ。運が良かった」
「いやいや、ご謙遜を!」
謙遜も何も、あの腕に助けられなければ、哲は今ここにはいない。
「数日様子を見てください。子を取り戻した事で女が成仏していれば、以前のように徘徊する事もないでしょう。────それで、私の帰り道は何とかなりそうですか」
白髭のじいさんは、芝居がかったようすで額を叩いた。
「それが────いろいろ試してはいるのですが、現状は厳しいですな。何しろ前例が無く」
まぁ、期待はしていなかった。
じいさんはしばらく申し訳無さそうな顔をしたあと、それはそれとして────と、きらりと目を光らせた。
切り替えが早過ぎないか。
「いらっしゃるうちにもうひとつ、解決していただきたい案件がございまして────」
せめて今日1日は休ませてくれと思ったけれど、突発的な仕事には慣れている。
人の死は、いつだって予定外だ。