6・「君自身に惚れ込んだ」って、どういうこと?
「この度の話は君も不安を感じているだろう。婚約も経ずに、いきなりの話だからな。警戒しても無理もない。だから夫婦関係を維持するために、こういった契約書を作らせてもらった」
とレオン様が説明する。
すると再び後ろから、アレクさんの「うわぁ、本当に作ったんですね……」と呆れるような独り言が聞こえてきた。
さっきから溜め息を吐いたりしてたし、お疲れなんだろうか?
しかし今の私は『結婚契約書』の内容に、意識が完全にいってしまっていた。
そこには『寝室は別々とする』『ランセル公爵家は、ヘルトリング伯爵家に支度金を用意する』『公の場に出る場合、フィーネは妻としてふさわしい態度と服装を身につける必要がある』と、色々と気になることが書かれていたが……私がなによりも気になったのは、この一文。
・フィーネの治癒魔法を公爵家のために使って欲しい。しかしこれは強制ではなく、フィーネの活動は原則として自由とする。
治癒魔法を公爵家のために使って──。
「やはり、そこが気になるか」
レオン様は淡々と口を動かす。
「君もランセル公爵家の事情は知っているだろう?」
「はい。国境線沿いの領地のため、他国からの侵攻を防衛する役目を担っている……んですね?」
「そうだ」
とレオン様が首を縦に振る。
ゆえに、先の戦いではレオン様自らが戦場に出た。レオン様といえば、公爵家の当主でありながら、剣の腕も一流ともっぱらの評判である。
そのような事情から、彼のことを『公爵騎士』と呼ぶ者も多い。
そのためランセル公爵家に仕える人々は、基本的に武芸に長けている。
後ろで控えているアレクさんも、その中の一人だろう。
つまり……。
「戦争が多いということだ」
さらにレオン様は説明を続ける。
「衛生兵や軍医は、いくらいても足りない。ヘルトリング伯爵家といえば、聖女も輩出しているし、そうでなくても代々治癒魔法に長けた一族だ。だから……」
「ええ、分かっています。あくまでレオン様は、私の治癒魔法の腕を欲した。この婚姻関係には愛はない。あくまでこの結婚は政略的なもの。いわば契約結婚と称してもいいでしょうか。そう言いたいんですよね?」
レオン様も、自分の口からそう言いにくいだろう。
だから私が先んじて、レオン様が言いたいであろうことをすらすらと口にすると、彼の瞼がぴくりと動いた。
あれ? この間はなに?
私、間違ったことを言った?
私が戸惑っていると、アレクさんのこんな声が聞こえてきた。
「違いますよ。その条文はあくまで、建前のようなもの。これを付けなければ、他の者を納得させられないですからね。レオン様はあなたのことを──」
「そ、そうだ! 契約結婚だ」
しかしその声に被せるようにして、レオン様がそう断言した。
「先の戦いで、君の力は分かった。俺は君の治癒魔法に惚れ込んだのだ。君の力はランセル公爵家にとっても、有益なものだ。君を抱え込みたい、他の人に渡したくない……そう思ったわけだな」
「そこまで私のことを買っていただけるとは……恐悦至極に存じます」
皮肉じゃなくて、本当に嬉しかった。
だけど。
「はあ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜」
今日一番、大きい溜め息がアレクさんから発せられた。
やっぱり相当、お疲れみたい。騎士と執事を兼任しているのだ。アレクさんの心労も大きいのだろう。
「妹は教会のお仕事で忙しいですからね。それに……戦場の空気にも慣れていません」
先日、傷だらけのレオン様を前に逃げ出したのも、きっとそれが理由に違いない。
「本当はレオン様も、妹のコリンナの方がよかったに違いありません。だからその代わりに私……ということですか」
「そ、それは違う!」
レオン様が机をバンと叩く。
いきなりの出来事だったらから、つい驚いて目を大きくしていると「す、すまない」とレオン様は謝ってから、こう続けた。
「決して君は妹──聖女の代わりじゃない。俺は君自身に惚れ込んだのだ。もっと君は自分に自信を持ってくれ」
君自身に惚れ込んだ──。
嬉しさがじんわりと胸に広がっていくが、勘違いしてはいけない。
正しくは君自身の(治癒魔法)に惚れ込んだ、といったところだろう。
先ほどから無表情だったレオン様が嘘のように、今では焦りの色を顔に浮かべていた。
こういう彼の表情も可愛くて魅力的だな……と、ちょっと失礼なことを思ってしまう。
「おお〜〜〜〜〜〜。レオン様、ちゃんと言えましたね」
後ろからはアレクさんの、賞賛するような声が聞こえる。
さっきから、お疲れだったり褒めたり忙しい人だ。意外とお茶目な人なのかもしれない。
レオン様はそんな彼にキリッと厳しい視線を向けてから、咳払いを一度した。
「……まあ、そういうことだ。もちろん、君には不自由をさせないと誓おう。どうだ? この度の婚姻、受けてくれるか?」
「謹んでお受けさせていただきます」
私がそう言うと、レオン様が口元をピクリとさせた。
レオン様は公爵家で、私は伯爵家。
断れる立場じゃないし、仮にそれを抜きにしても実家が怖い。縁談の話はなくなりましたと報告出来るわけがないのだ。
それに実家に帰るのも嫌だ。
あそこに比べれば、戦場やレオン様の近くがどれだけ天国か。
この度の契約結婚、私に断る理由──そして断れることなど、なに一つ存在していなかった。
「そうか。良い返事をいただけて安心した」
だからきっと、レオン様の言葉も社交辞令的なもの。
「では、契約書に異存がなければ、こちらに署名していただきたい。ペンは……」
その後の手続きも淡々としたもので、浮かれた空気は一切漂わなかった。