4・妹の代わり
──縁談の話に移る前に、まずは私の実家での生活のことについて説明すべきだろう。
実家での一日は池の水汲みから始まる。
まだうっすらと暗い早朝、私は他の人に見られないように小屋を出る。そして桶に水を入れて、小屋に戻るのだ。
「なんで、こんなにコソコソしないといけないんだろう……」
思わず、そんな不満が漏れてしまうが、それを口にしたところで現状が改善されるわけではない。
実家は伯爵家ということもあって、大きな屋敷を構えている。
しかし──というより、これは必然なのだろうけど──私は屋敷の中に住まわせてもらえない。
敷地の端っこにある、小さくてオンボロの小屋に押し込められているのだ。
どうやら元々、馬小屋として使われていた場所らしい。
そして用事がない時は、小屋から出ないように厳命されている。私がコソコソするのはそのせいだ。
池の水を汲んできたのは、髪を洗いたかったから。
冷たい水で髪を洗っていると、風邪を引きそう。
しかしこうでもしないと、髪がベトベトしてさすがに気持ち悪い。こうでもしないと一日が始まった気がしない。
昔、私の恩人でもある兵士長が、言っていた言葉がある。
『お前さんみたいな美人は、こんな戦場じゃ耐えられないだろ? 風呂なんて、三日に一回でも入れれば上等だしな。逃げ出したければ、さっさと逃げだしゃいいんだぜ』
……と。
美人というのはリップサービスにしろ、その時の兵士長は貴族にあまり良い印象を抱いていなかったんだろう。
だから私もすぐに逃げ出すと思われていた。
しかしいくら過酷な戦場だろうと、実家に比べれば天国そのもの。
例を挙げればキリがないけど……ちゃんと食べられる食事も出てくるし、池の水を汲んでも怒られない。
だから彼の言葉を聞いて、私は首を傾げたものだ。
「一週間経っても、私が逃げ出さないのを見て……あの方は驚いていたなあ。『舐めた口をきいて、すまなかった』と謝ってくれたし」
謝罪なんて必要ないのに……。
というわけで、実家での私はそれはそれは肩身が狭いものだ。
両親も私と滅多に喋りたがらないし……まあ、会ってもろくな目に遭わないから、それはいいんだけど。
──だから昼時に差し掛かろうとした時、お父様が小屋に顔を見せた時は驚いた。
しかも。
「レオン・ランセル公爵様から……私に縁談のお話がきてる?」
と、きたものだ。
問いかけると、お父様は忌々しげに私を見て、こう続けた。
「ああ……なにかの間違いだと思っているんだがな。我が伯爵家──ヘルトリング伯爵家の令嬢に、結婚を申し込みたいのだと」
結婚……どうして私?
不可解なことが多すぎて、疑問が頭の中を渦巻いた。
「えーっと……結婚を申し込むのだとしたら、妹のコリンナじゃないでしょうか? どうして私に……」
「うるさいっ!」
まるでなにか都合の悪いことを聞かれたかのように──。
お父様が怒声で、私の問いかけを遮った。
「コリンナは私の大事な娘だ! ランセル公爵といったら、国境線沿いの防衛を任されている。そんな危険なところに、コリンナを嫁がせられるか!」
「も、申し訳ございません! だからぶたないで……」
恐怖で体が縮こまり、咄嗟に顔を両手で守る。
お父様の怖さに比べたら、戦場で聞こえる戦いの音など小鳥の囀りのようなものだ。
「しかし公爵家と繋がりが出来るのは大きい。お前なら最悪、死んでもいい。だからお前がランセル公爵に嫁いでこい」
鼻で息をするお父様。
なるほど……そういうこと。
合点が付く。
私は妹の代わりだ。
公爵家との繋がりは欲しい。
しかし危険な領地に、コリンナを嫁がせるわけにはいかない。
そこでいつ死んでもいい私を、妹の身代わりで公爵に差し出すことにしたのだろう。
なんなら、そこで死んでくれた方が助かる……そう思っている節もある。
だけど。
「でもどうして、私たち……ヘルトリング伯爵家に、縁談を持ちかけたのでしょう? レオン・ランセル公爵なら、もっと良い人がいると思うのに」
その疑問がなくなるわけではない。
「さあな。なんでも、先日に行った戦場で公爵と会ったみたいだな? その時に色目でも使ったんじゃないか?」
バカにするように笑うお父様。
そう……私は先日、レオン様を助けた。
つい最近のことだし、もちろん覚えている。
しかしあれも戦場での出来事。
軍医が人の命を助けるのは当然のこと。
いちいち命を助けられたという理由で、男が女に惚れていては身が持たないだろう。
私だって、恩を売ろうと思ってレオン様を助けたわけではない。
目の前に傷ついた人がいたから、助けたまでのこと。
私の違和感は拭えないままだった。
「分かれば、さっさと支度をして公爵家に向かえ。今まで役立たずだったお前が、ようやく私たちに恩返し出来るんだ。そのことを感謝するんだな」
吐き捨てるように言って、お父様は馬小屋から出ていった。
あまりの剣幕に聞くのを忘れていたけど、レオン様はコリンナのことをなにか言ってなかったのかしら?
先日、彼女はレオン様を前にして逃げ出した。そのことはお付きの騎士……アレクさんも覚えているはずだ。
「お父様の態度も気にかかるしね……」
だけどそれを問いただすような真似はしない。
なにがお父様の逆鱗に触れるか、分かったものじゃないから。
それにあまり追求されたくない雰囲気も感じ取ったし。
数々の疑問を残しつつ、レオン様のいる屋敷へと向かうことになった。