2・聖女様が逃げた!
「え……?」
そんな声が耳に入って、私はなにが起こっているのか分からず混乱していた。
いくらあのコリンナでも、怪我人を前に逃げることなんて有り得ないと思っていたから。
「取りあえず、事情を聞きにいこう」
本当にコリンナが逃げたなら、レオン様が危険な状況だし……。
立ち上がり、私は急いで部屋を後にした。
野営地の至る所では、騎士達がおろおろと右往左往している。どうすればいいのか分からず、困惑しているようだ。
「あの、すみません。コリンナが逃げた……と聞こえましたが、なにがあったんですか?」
私は近くで焦りの表情を見せる騎士に、そう質問する。
「は、はいっ。レオン様が戦場で負傷したことは知っていますか?」
「もちろんです」
「それで聖女のコリンナ様が治療に向かったんですが……傷を癒すこともなく、突然逃げ出したらしいんです」
「にげた」
私が反芻した言葉に、騎士は頷く。
「なので、レオン様はまだ危険な状態。お願いします。フィーネ様、聖女様の代わりにレオン様を──」
「分かりました。すぐに向かいます。レオン様はどちらへ?」
「あ、ありがとうございます! こちらです」
騎士の後に続いて、私はとあるキャンプに入る。
入ると、むせ返るような汗と血の臭いが鼻腔をくすぐった。
普通なら思わず顔をしかめてしまうけど、この程度で私は逃げ出したりしない。
私が到着すると、その場にいる騎士が一斉に私を向いた。みんな、すがるような瞳の色をしている。
人を掻き分けて奥に進むと、先ほどコリンナを呼びにきた騎士の姿もあった。
「あなたは……?」
彼が私にそう問いかける。その声は震えていた。
「フィーネです。ここの軍医をしています」
手短に名乗る。
私は一つの場所に留まらず、戦争が起きれば各地の野営地や詰所に派遣される。今回来た野営地もその中の一つだ。
ここにも昨日着いたばかり。まだ私の顔と名前を覚えている人も少ないだろう。
だから目の前の彼も、私の身分を尋ねたのだ。
「軍医……! あ、あなたに頼みがあります!」
そう言って、彼は地面に両手両膝を突く。
「聖女様はレオン様の容態を見た途端、悲鳴を上げました。そして『手の施しようがない』と、逃げるようにこの場を去っていったのです。現在のレオン様を見たら、そう思うのも仕方ないかもしれませんが……あまりにも無責任なことです」
彼の声には、コリンナを非難するような感情が含まれていた。
私は彼の言葉を聞きながら、ベッドに寝かされている男に視線を向ける。
──血まみれの騎士。
体中傷だらけで、誰が見ても酷い状態。大量出血のせいで意識を失っていて、その瞼は固く閉じられている。呼吸で胸が微かに上下しているが、それも今にも止まってしまいそう。
騎士の話を聞くに、この人こそがレオン・ランセル公爵なのだろう。
こんな一刻も争う状態なのに、コリンナは逃げ出したということ?
なるほど、レオン様の容態はかなり酷い。普通の令嬢なら、動揺して卒倒してしまうレベルかもしれない。
しかしそれは血を……瀕死の患者を見たことがない令嬢だからということ。
だからといってそれは、傷ついた人を見捨てていい原因にはならないのだけど。
「聖女様が匙を投げるくらいですから、もう手遅れなのかもしれません。しかしレオン様は、私……いや私たちの命の恩人。ここで見捨てることなど、到底出来ません。どうかレオン様を救って……」
「分かりました」
彼の瞳を真っ直ぐ見て。
私はこう即答した。
「私がレオン様を絶対に死なせません。安心してください」