空っぽの部屋〜立つ鳥跡を濁さずとはよく言ったもので〜
街頭に照らされた明るい町並みが流れていくのをぼんやり眺める。
時刻は夜の11時。
こんな時間だというのに電車の中はそこそこ混んでいる。
そんな中で、座れた私はラッキーかもしれない。
寝てしまうと降り過ごしてしまいそうで、私は正面の窓の外を何となく見ていた。
まだまだ気持ちでは若いつもりだが、30才を超えてからはなんだか疲れやすくなった。
何をするにも気力が必要でフットワークが重く感じる。
人間30才になると体質が変化すると言う。
32才になってしまった私はもう20代の体ではないということだろう。
ため息を吐きつつスマホを取り出す。
何をしようと思った訳ではないが、手が自然とSNSを開く。
結婚。出産。子育て。
友人たちが上げる幸せな報告で溢れる中、私は何の報告もない。
それはそうだ。
もう10年ほど、代わり映えのない日々を送っているのだから。
SNSも更新しなくなって久しい。
以前は自分の事は書かないないが、友人の報告にコメントを残したりしていた。
しかし、それをきっかけに会話がはずみ、友人から「そっちはどう?」なんて聞かれても「まぁ、ぼちぼちだよ」としか言えず、なんだか惨めになったのでコメントを残す事も辞めてしまった。
暗い車掌の声でアナウンスが流れる。
もうすぐ私の最寄り駅のようだ。
もう一度ため息をついてSNSを軽く眺めてから、私はスマホを鞄にしまった。
電車が停まると同時に立ち上がり、ホームへと降り立つ。
風が何となく冷たい。
駅から出て、やや薄暗い道を少し進むと私の住んでいるマンションが見えてくる。
マンションに入り、カードキーで自動扉を開けて、エレベーターに乗る。
女の二人暮らしなんだからセキュリティはちゃんとした所に住もう。
そう同居人が言ったためこのマンションはカードキーと通常のシリンダータイプの鍵の2種類ついている。
当初は面倒に感じたが、もう何年も住んでいるのだから慣れたものだ。
エレベーターを降りてからは、目を閉じてても行けるほど通り慣れたフロアを通り抜けて自分の部屋へ行く。
軽く深呼吸をしてから鍵を開けて中に入った。
玄関が開く音を聞きつけた同居人が、リビングの扉を開け放つ。
「サナちゃん、おかえりー!」
同居人である、カオリが満面の笑みで私に駆け寄ってきた。
「ただいま」
明るく元気な様子のカオリに内心うんざりしつつ、おざなりに返事を返す。
顔もろくに見ることなく隣を通り過ぎるが、カオリは特に気にする様子もなく嬉しそうな顔のまま私の後ろをついてきた。
「お疲れ様!お夕飯は食べる?帰り遅いみたいだから、おうどんにしたんだけど」
「食べる」
喋り続けるカオリを半ば無視しつつ、リビングを通り過ぎて自分の部屋のドアを開ける。
「ついてこないで、着替えるし邪魔」
そう言ってカオリの目の前でドアを閉めた。
「はーい」
ドアの向こうから明るい返事が聞こえる。
冷たい態度を取られても気にしないその様子に苛立ちがつのる。
整頓され掃除の行き届いたキレイな部屋にバッグを放り投げ、服をそのへんに脱ぎ散らかす。
畳まれてベッドの上に置かれていた清潔な部屋着に着替えると部屋を出る。
リビングには出汁のいい香りが漂っていた。
「おつかれさまー!はい、おうどん。ネギたっぷりだよー」
にこやかに笑うカオリが台所から丼を持ってくる。
湯気の立っているうどんを横目で見つつ椅子にぐったりと腰掛けた。
カオリはうどんを私の目の前に置くと私の部屋のドアを開ける。
「あ!サナちゃんってばまた洋服脱ぎっぱなし!ダメだよー!ちゃんと洗濯に出したりハンガーにかけたりしないと。シワになっちゃうよー」
「んー…」
カオリの言葉を聞き流しつつスマホを手に取り動画サイトを開く。
SNSは家では見ないようにしている。
動画を再生すると軽い調子の配信者が軽快に話し始めた。
ぼんやりと動画を眺める。
「サナちゃん!サナちゃんってば」
集中している訳ではないがぼんやりと見ていたためカオリの言葉が耳に入っていなかった。
気がつくとすぐ隣でカオリが不満げにこちらを見ている。
「え?なに?」
「だからー、おうどん伸びちゃうよ?せっかく温かいのだしたのに冷めちゃうし」
テーブルを見ると湯気のなくなったうどんが所在どころなさげに鎮座している。
「食欲ない?いらなかった?体調悪い?」
心配ですとでも言いたげなカオリの顔に苛立ちが増す。
「…食べるよ」
ため息混じりにそう言って、のろのろと置いてあった箸を手にとる。
視線はスマホのまま私はうどんをすすった。
「おいしい?」
カオリのいつもの問いかけにいつもの様に生返事を返す。
代わり映えのない風景。
いつも通りのやり取り。
カオリと私は一緒に暮らしている同居人というだけではなく、恋人だ。
現状ははたからみるとルームシェア仲間だが、実態は同棲。
私達はいわゆる同性カップルというやつだから。
カオリと知り合ったのは高校生の時。
都内のとある女子校で、同じクラスだった。
当時は付き合うだとかそういった雰囲気は全くなく、普通の気の合う友人同士。
カオリはもしかしたら私の事をそういう目で見ていたのかもしれない。
だけど、私は別の高校に彼氏が居たしカオリはただの友人だった。
カオリとそういう関係になったのは大学四年生になってからだ。
高校を卒業してから私とカオリは別々の大学へ進学した。
毎日会うことは無くなったが、私達は月に一回以上は会ういわゆる飲み仲間となり関係が続いた。
そして大学四年生のときに私は当時付き合っていた彼氏と、大喧嘩のすえ別れた。
これから社会人になるというプレッシャーに不安になっていた時期。
情けない彼氏ではあったが心の支えにしていたため、猛烈に寂しくなった私はカオリを呼び出して一緒に飲むことにした。
いつ呼び出しても来てくれる穏やかで優しいカオリに安心し癒やされる。
お酒もはいり、口の軽くなった私は彼氏の愚痴を言いながら、冗談で「カオリが彼氏…いや彼女だったらいいのにな」と言った。
カオリは穏やかな顔のまま「いいよ」と返事をした。
冗談だと笑い飛ばすには真剣な口調と表情のカオリに気圧されるようにして私とカオリは付き合い始めた。
それからは友人以上恋人未満のような関係が3年ほど続き、職場の付き合いに疲れてきた私はまた冗談のつもりで「いっそ嫁が欲しいよ」と言った所、お互いの職場に程よく近い今のマンションに引っ越して同棲することになった。
同棲しているマンションの間取りは2LDK。
狭いながらお互いに自分の部屋がある。
家賃や光熱費、食費などは折半だが、買い出し含む家事はほぼカオリがやってくれている。
私は毎月カオリにお金を渡すだけなので、とても快適だ。
社会人になってからは一人暮らしをしていたのだが、その時よりも安く暮らせているから貯金も溜まってきた。
仕事で遅くなっても帰れば温かくて美味しい食事が用意されているし、部屋はいつでもキレイで、シャンプーや石鹸の備蓄が切れることもない。
休日は好きなだけ寝て、好きなことだけをして過ごしても文句も言われないどころか何か不便な事はないかと聞かれるほど快適な生活。
そう、快適過ぎて時間はあっという間に過ぎていった。
20代も後半に差し掛かれば友人たちから結婚や出産の報告が増えてくる。
そうなるとだんだん、結婚することの出来ない同性の恋人と過ごす日々に焦りのようなものを感じ始めた。
決定打は30才の誕生日を迎えた時だった。
私の誕生日だと嬉しそうにケーキを買ってきて、ごちそうを用意するカオリに強烈な違和感を感じた。
その違和感は毒のように全身へゆっくり広がった。
そして違和感は煩わしさや鬱陶しさといった感情になり、この2年ほどはカオリに冷たく当たるようになっている。
それでもカオリは私に変わらぬ愛を与えてくる。
毎日私を見るたびに会えて嬉しいと言わんばかりに笑顔で挨拶をしてつきまとう。
一時は同性でもいいかと思えるほど可愛らしいと思っていた仕草や行動がやたらと、うざったく煩わしい。
別れようかと思った事もある。
しかし、ウザさ以上に今の生活が快適だったため別れることなくだらだらと過ごしてきてしまった。
今更別れた所で新たな恋人が出来て結婚出来るとは限らない。
それに、将来的に別れるにしてももう少し貯金を貯めてからでもいいだろう。
そう考えて別れる事を先延ばしにしてきた。
温くなって、伸びてきているうどんを汁まで飲み干す。
丼をテーブルに置くとドンっと鈍い音がした。
「おそまつさまー。どう?お腹いっぱいになった?」
食べ終えた丼と箸を台所へと片付けながらカオリが聞いてくる。
私はスマホへ視線を向けたまま生返事をした。
「サナちゃん。サナエさん」
食器洗いを終えたカオリは私の名前を呼びながら近づいてきた。
鬱陶しい。
「お話があるんだけどいいかな?」
以前、疲れているのに隣で楽しそうに雑談を振ってくるカオリに対してイライラが限界を超えた時。
「うるさい」と怒鳴ってしまった。
さすがにまずかと思ったがカオリは笑って「疲れてるのにごめんね」と言った。
それ以来、カオリは私と話をしたい時はこういった前置きをしてくるようになった。
「えー?やだー」
カオリの話なんて今日は会社で何があったとか、こういう連絡がきたとかそんなくだらない話ばかり。
以前は一緒に盛り上がっていたが、今は煩わしいばかりでちっとも楽しくない。
一人で動画を見ている方がよっぽど楽しい。
「お願い、週末だし。明日お休みでしょ?ちょっとだけだから!」
「えー…」
週末だからこそ一週間分の疲れが来ているというのに。
事務職のカオリと違って、こっちは技術職で疲れているんだから夜くらいゆっくりさせてほしい。
これみよがしにため息をついて立ち上がる。
「分かった。じゃ、シャワー浴びてから聞く」
「ありがとう!」
嬉しそに笑ったカオリをなるべく視界に入れないよう、お風呂場に向かう。
手早くシャワーを浴びて寝間着へと着替えた。
着ていた部屋着や使ったタオルは洗濯機の横にあるカゴに入れておく。
カゴの中には先程部屋で脱ぎ散らかしていた服も袖などが丁寧に直された上で入っていた。
後でカオリが洗濯するのだろう。
髪の毛をタオルで拭きながらリビングに戻るとカオリはスマホをいじって座っていた。
「おかえりー。アイスコーヒーでいい?」
「んー」
ぱたぱたと台所へ向かっていくカオリを横目に私は座ってスマホを手に取る。
動画の再生ボタンを押すと再び配信者が軽快に話し始める。
アイスコーヒーを片手にカオリが台所から戻ってきた。
「はい」
テーブルの上にコースターを置いて、その上にグラスを乗せたカオリは満足そうに私にグラスを差し出す。
椅子を引く音がして、カオリが私の前に座った。
「ねね、話しても良い?」
カオリの問いかけに動画見ながら私は小さく頷いた。
アイスコーヒーを飲もうとグラスを手に取る。
グラスの中の氷がカランと音を立てた。
「私達お別れしよう」
雑談を始めるのと同じテンションで言われた言葉は、私の耳を素通りした。
「ん?」
「そうだよね。よかった」
口から漏れた声を肯定ととったのかカオリは深く頷いた。
カオリはバサバサとテーブルの上にいくつかの書類を置く。
「これが、ここの契約書類だよ。電気から水道まで必要な書類は全部あるはず。で、これ」
書類の上に通帳とハンコが乗せられる。
通帳の名義は私の名前になっていた。
「家賃とかその他もろもろはこの口座から落ちるように変更しておいたから。家賃は私の分で三ヶ月分と今月かかるであろう光熱費分くらいは入れておいたよ」
「え?な、なに?」
ようやく動けるようになった私は持ち上げただけで飲まなかったアイスコーヒーをコースターの上に戻す。
「三ヶ月くらいあればサナちゃんも引っ越しできるでしょ?一人で暮らすにはこの家は広いし家賃高いかなって思って」
私の強張った表情を見て、カオリは小首をかしげる。
「あ、もちろんこのまま住み続けても全然いいよ。だからこそサナちゃんの名義で口座作ったんだし」
こんなに色々とやっておいたよと、いつも私に報告をするような口調と表情のカオリを信じられない気持ちで見つめる。
先程の別れるというのが聞き間違いだったのではないかと思うほどにカオリはいつも通りだ。
「いや、そこじゃなくて。別れる?って?」
「え?うん、別れるでしょう?」
「は?なんで?」
「なんで?って?」
いまいち会話の成立しないカオリに苛立ちが募る。
「なんで別れるわけ?」
「だってサナちゃん。…いや、サナエは私の事好きじゃないでしょう?」
「は?私達付き合ってるんだよね?好きじゃない訳ないじゃん」
「確かに付き合ってたけど、サナエは私の事を友達以上の好きにはなれなかったでしょう?」
カオリの言葉にドキリとする。
「そんな事ない!ちゃんと恋人らしいことも散々してきたじゃん!」
「そうだね、たくさん思い出が出来た。最初は私もいつかは友達以上の感情をサナエが持ってくれるのかなって期待するほど」
「でしょう!?だから…」
「でも期待は裏切られたというか、なくなったの」
「は?」
びっしりと汗をかくアイスコーヒーのグラスと同じくらい冷たい汗が私の背中を流れる。
「二年前くらいからサナエの心が離れていくのを感じたんだよね。ってこんな言い方すると詩的というか自分に酔ってるみたいで恥ずかしいんだけど」
照れたようにカオリは笑って頭をかいた。
「せめて以前の関係に戻りたいなって足掻いてたんだけど、無理みたいだし諦めたの。だから、お別れ」
「何言ってんの…」
「ほら、私達ももう32才だし別れは早い方がいいでしょう?」
「ふざけないでよ!ならもっと早く開放してくれても良かったじゃない!そもそも、なんで私がっ…!」
思わず声が大きくなる。
それでもなんとか「なんで私が振られないといけないの」という言葉を飲み込んだ。
カオリの好意にあぐらをかいていた自覚はある。
だからこそ、そんな自意識過剰な高慢女みたいにはなりたくなった。
気持ちを落ち着けようと深呼吸をする。
そんな私を見てカオリはへらりとした情けない笑みを浮かべた。
押し込めようとしていた激情がこみ上げてきて更に言葉を強くする。
「なにヘラヘラ笑ってんのよ!」
激情に身を任せ、アイスコーヒーの中身をカオリにかける。
氷がカオリに当たってから床に落ちて硬い音を響かせた。
「ごめんね」
コーヒーをかけられた側であるカオリが謝る。
誤っているというのにカオリはまだヘラヘラ笑っていた。
「バカにしてるの!?」
「してないよ」
だとしたら何だと言うのか。
「私とのお付き合いってサナエにとって苦痛だったんだなって改めて思ったら笑えてさ」
カオリの言葉に私は首をかしげた。
なおも笑いながらカオリは言葉を続けた。
「だって私との別れを開放って言っちゃうくらいには苦痛だったんでしょう?」
心臓が締め付けられた。
とっさに出た言葉だったが、言葉選びが悪いことくらい今の私でも分かる。
「それは言葉の綾で…」
「それにサナエは私がサナエを振るなんてかけらも思ってなかったでしょ」
断定的な言い方に私は息を飲む。
前髪から滴るコーヒーを気にする様子もなくカオリは私を見た。
「確かに今でも私はサナエが好きで好きでたまらないよ」
「ならっ」
「でも別れるの」
「どうして…」
私の言葉を聞くこともしないカオリに焦りがつのる。
カオリは一呼吸置くように小さく息を吐いた。
「私ね、結婚したかったんだ」
「結婚?」
日本では同性婚は認められていない。
カオリが何を言い出したのかわからず私は困惑する。
「式をあげるとかそういうのじゃなくてキレイなドレス着て、めいいっぱいオシャレして写真を撮るだけでも良かったの」
「それなら私とだって…」
出来ると言いかけて思い出す。
「無理だよ。だってサナエ断ったじゃん」
カオリの目に初めて冷たいものがうつる。
「恥ずかしいんでしょう?」
心臓が嫌な音を立てて、顔からさっと血の気が引いていく。
「女同士でそんな事するなんて恥ずかしい。女同士で付き合ってるなんて恥ずかしくて周りには言えない。女同士で手を繋ぐなんて恥ずかしい」
全部私が言ったことのある言葉だ。
「昔はね、いつかは結婚式だってしてもいいって言ってたからさ。期待してただけど、心情の変化ってやつなのかな?こうなったらもう昔にも戻れないよね」
「そんな事…」
そうだ。
確かに最近はカオリが煩わしくてそういった事も言ってしまったかもしれない。
しかし、昔は本気でカオリと結婚式してもいいと思っていたし、親や友人に付き合っているとカミングアウトしたいと思っていた。
だとしたら…。
「む、昔にだって戻れるかもしれないでしょう?」
そうだ、昔は本気で思っていたのだから気持ちさえ追いつけば戻れる。
「無理だよ。私だっていつかはー、なんて夢も見たけどサナエは結局私のことを友達以上には見れない」
「で、でも」
情けない自分の声が響いて私は驚愕する。
なぜ、私が縋り付く側なのだ?
元はと言えばカオリが私を好きで私はカオリに流されて付き合っていただけだ。
「…わかった」
そう、だからここは素直に受け入れていい。
どうせ後で縋ってくるのはカオリなのだから。
「ごめんね、冷たかったでしょう?」
そう考えられたらカオリの事が可愛らしく見えてきた。
最近冷たくしてしまったから意趣返しにこんな事を言ってきたのだ。
私のしたことではあるが濡れた前髪が気になり、触ろうと伸ばした手は振り払われる。
「ううん、全然大丈夫だよ」
笑顔になったカオリは机の下からタオルを取りだした。
「こうなるかなって少し思ってたし」
別れ話をしたら手近にあったコーヒーをかけるような人物だと思われていた事にまたすこし苛立つ。
落ち着け、私。
「それより、これからはどうするの?家を出ていくみたいな事言ってたけど。まだ荷物とかたくさんあるんだからゆっくりしていきなよ」
極力穏やかと思われるような笑顔を浮かべる。
そんな私にカオリは飽きれたような悲しいような笑みを返してきた。
「ううん、荷物はほとんどないよ。それにもう新しい家は決まってるし」
手際の良さから別れ話は突発的な感情からではなくよく考えたうえでの事だったのだろう。
それこそ台本とかも考えていたのかもしれない。
そこまで準備しないと私と別れられないという事に、カオリの私への執着を見て内心ほくそ笑む。
「そう、忘れ物には気をつけてね」
「うん、これで安心してこの家を出られるよ。今までありがとう」
そう言いながらもカオリは少し切ない表情を浮かべる。
ほらね、私の事がまだ好きなんだから無理して別れるなんて言わないで一緒に居ればいいのに。
「カオリ、本当にこれでいいの?」
精一杯の切ない声と表情でカオリに訴えかける。
「今までずっと一緒だったんだよ?話し合いもほとんどなしにいきなりお別れなんてやっぱり納得がいかないよ」
ぐっと目に力を入れて涙を浮かべる。
「幸せだった時の方が長かったのにこんな終わりなんてないよ」
カオリの目が動揺に揺れる。
もうひと押し。
「もう一度、もう一度だけやり直さない?カオリの事が大切なのは今も変わらない」
カオリの目から涙が溢れた。
私は勝利を確信する。
「ありがとう」
落ちたな。
私は微笑みを浮かべるカオリを抱きしめようと私は両手を広げて伸ばした。
お気に入りの寝間着がコーヒーに濡れてしまうが、それもカオリが処理してくれるだろうし問題ない。
「でも、ごめんね。もう無理なんだ」
「え?」
カオリに手が届く直前、彼女は私から距離を取った。
そのせいで、両手が宙をさまよう。
「三ヶ月」
眉をひそめる私にカオリは3本指を立てて見せる。
「サナエには三ヶ月の猶予があったの」
「は?」
「この三ヶ月で元に戻れるならって色々試していたの」
「なにそれ?」
「全然気が付かなかったね」
悲しそうに俯くカオリ。
これはまずい流れだ、なんとか挽回しないと。
「あ、あぁ!結婚の事とかでしょう?それなら追々やっていけばいいじゃない、なんなら式場を借りてもいいいと…」
「それだけ、というかそれじゃない。それに…」
カオリは手にしてしたタオルを畳んで床に置いた。
「これから一緒に暮らす人にも迷惑かけちゃうし」
「なっ!はぁ!?」
そんなの聞いてない。
「なにそれ?浮気してたってこと?」
言葉にも顔にも剣がこもるのが分かる。
「違うよ、その人とは手を繋ぐどころか体に触れた事すらないよ」
「そんなのカオリの証言だけじゃん!」
「しかも、相手の人は男の人だし。浮気にならないよ」
驚愕に目を見開く。
「はぁあああ!?立派な浮気じゃん!しかも男とか裏切りだよ!どういうことなの!?」
「浮気じゃないんだって」
「信じられないってば!」
「まぁ、でも浮気だとしたらそんな浮気者と別れる事が出来て嬉しいって思ったらいいんじゃない?」
再びへらりと笑うカオリに怒りが再熱してくる。
「一応弁解しておくけど、本当に浮気じゃないの。彼も同性愛者で私と全くおんなじ境遇だったってだけ」
「おなじ境遇?」
「彼のほうは中学からの初恋の人だから私よりよっぽどだけどね」
カオリは立ち上がった。
「私と同じ様に振られたところにつけ込んで付き合って同棲始める所まで全く一緒。すごくない?だからさ…」
カオリが私の顔を上から覗き込んでくる。
「第三者目線で自分の事を見ることが出来たの。自分の事じゃないとなると、どう考えても別れるのが最善にしか見えなくてさ。だから別れたら一緒に暮らして傷の舐めあいでもしようかって約束してお互いの相手を試してた」
「…サイテー」
「試した事に関しては申し訳ないとは思ってるよ、でも必要な事だと思ったから」
下から睨むがカオリは表情一つ変えない。
「だからここで結論が覆ることはないんだ」
グツグツと私の中の怒りが煮える。
抑え込めていた激情が再び頭を上げる。
「出てって!」
そう言って私は近くにあったティッシュケースをカオリに投げつけた。
カオリはそれをあっさり避けるとそのまま玄関へと向かっていく。
「サナエならそう言うんじゃないかなって思ってた」
コーヒーの染みがついたまま、髪だって濡れたままカオリはリビングを出ていく。
顔なんてもう二度と見たくないと思ったのに、いざ目の前から居なくなると不安にかられ、玄関へ向かう。
カオリは靴を履いている所だった。
カオリがいつも持ち歩いている小さい鞄も玄関先に置いてある。
本当に用意周到なことだ。
「あ」
引き止めたいけど言葉が思い浮かばず、思わず漏れただけ声が聞こえたのかカオリが顔をあげる。
目のあったカオリはにっこり笑った。
「サナエは自分が思ってるよりずっと私の事を見てなかったね」
そういえばあの小さい鞄はずっと前に私がプレゼントしたものだ。
今でも大切に使ってくれているのだと、こんな時でも嬉しくなる。
「それがいかに残酷か知らないんだろうね」
独り言のようにそう言うとカオリは玄関を開けた。
「バイバイ」
笑顔で手を振ってカオリは出ていった。
ご丁寧に鍵は外からかけた上でポストに投函している。
硬い鍵とカードキーがポストの金属部分に当たって音を鳴らす。
「なにそれ」
訳のわからないカオリの捨て台詞に笑いがこみ上げる。
どうせ戻ってくるのに捨て台詞とはなんて滑稽なんだろう。
声を上げて笑いながらリビングへと戻る。
リビングに戻ると足に何か冷たいものが触れた。
「冷たっ!なに!?」
足元には氷と溶けた水が広がっていた。
私がカオリにかけたアイスコーヒーに入っていた氷だ。
仕方なくカオリが畳んで置いていったタオルで床を拭く。
タオルを洗面所のカゴに入れた時、自分が小刻みに震えているのに気がついた。
「な、なにこれ」
落ち着こう思って笑顔を作って声に出してみたのに声までが震えている。
深呼吸をして洗面所の鏡を覗き込んだ。
にっこりと笑って見せる。
「ほら、全然大丈夫」
振られて取り乱してなんかいない。
そうだ、せっかくカオリが居ないんだから何か美味しい物でも食べながらお酒でも飲もう。
健康に悪いとか水を差すような事をいう人が居ないんだから暴飲暴食の限りを尽くそうではないか。
もう一度、深く呼吸をしてから鏡を見る。
鏡に映る私がいつも通りだと言うことにホッとしてのもつかの間。
洗面所に強烈な違和感を感じた。
「えっ?」
思わず洗面所をまじまじと見つめる。
大して特徴のない普通の洗面所だ。
流し台があって、鏡があって、ライトが付いてて、鏡の両サイドに小物がおけるようになっている。
その小物入れは右半分は埋まっているのに対して左半分は空っぽだ。
引っ越してきたときに私物が混ざると嫌だからと洗面所にある鏡の収納は右と左で分けたことをぼんやり思い出す。
右が私で左はカオリの。
「いつから…」
いつから左側の物がなくなっていたのは全くわからない。
カオリは鞄1つで出ていった。
しかし、住む場所は決まっていると言っていた。
「まさか」
洗面所から飛び出してリビングへ行く。
カオリの使っていたものを探した。
読んでいた本も、カオリが買ってきた小さい観葉植物もお揃いで買ったカップやお皿、箸に至るまでカオリの物は何一つ見つからない。
「嘘でしょ?」
恐怖すら感じて私はカオリの部屋だった場所のドアを見つめる。
暮らし始めた当初はお互いに部屋のドアは常に開けっ放しで、せっかく部屋分けた意味がないねなんて笑っていた。
今でも掃除だなんだとカオリはよく私の部屋に来ていたけど、私は?
いつからカオリの部屋に行ってないんだっけ。
わずかに震えながらもカオリの部屋のドアに手をかける。
ドアが小さく音を立てて開く。
部屋の中は、空っぽだった。
小物だけじゃない、家具からカーテンまで何もなかった。
「う、嘘…嘘だ」
こんなにもカオリの私物がなくなっているのに私はこれっぽっちも気が付かなかった。
カオリの最後の言葉が蘇る。
私はこんなにもカオリのことを見ていなかったんだ。
力が抜けて膝から崩れ落ちる。
「あ、カオリ…ごめん。ごめんなさい」
懺悔をこうように両手を組み、私はカオリに謝りながら泣いた。
もう二度とカオリが戻ってこない事をこの時はじめて私は気がついた。