第二章 一つ目の願い ~空~ PART4
校舎内には蒸し暑さが充満していた。
それでもブレザーを着る生徒の姿が目立つのは、早すぎる夏の到来に学校からの指示が追いつかなかったことが原因なのだろうが、そんな生徒を傍目に教員だけがクールビスを発令することなんて出来る筈もなく、これほどの暑さの中、大人も子供も皆が厚着を着ている光景は異様と言わざるを得なかった。
そんな暑さの中でも最も気温が上がる昼下がりの午後、衛は自分の席に座って今朝母親から手渡されたお弁当を食べていた。
「やーべぇ、マジ無理」
「船曳マジムカつくわ~」
四限目が終わった後、弁当を取り出そうとする衛の席にやって来たこの二人は、さっきから妙な言葉を駆使しながら引っ切り無しに愚痴をこぼしていた。
衛の目の前に座る、黒縁メガネをかけた男子の名は今川、そしてその隣に座る頬のニキビが印象的なもう一人の男子は仁井と言う名である。衛は彼等の名をこの時間までにも交わした何気ない会話から知ることが出来ていた。
二人は近くの机と椅子を反転させ、衛の机とくっつけて食事を摂っていた。その手際の良さから、これが彼等の昼食時におけるいつものスタンスであることが伺える。
因みに仁井が言った船曳とは、午後の授業として予定されている英語を担当する教師の名前らしく、どうやら彼等はそこで小テストが行われることに不服のようだった。
「でも、もしかしたらワンチャン……、ないかぁ」
「ないない」
不満がある割に、二人は先程からその話に夢中であった。まぁ、自信が無いとは言っても、本当に学習時間がゼロの衛に比べると、よっぽどその成果には期待できるのだろうが、きっと彼等なりには超えたい水準があり、そこに到達する見込みが薄いことを嘆いているのか、それともテストが頻繁に実施されていることに対する怒りを収まらないのかのどっちかだろうと、衛は何となくだが自分なりに予想をしていた。
「てか、衛。お前、朝から元気ないな?」
「ああ。さっきから全然喋ってないじゃん」
不意に二人の目線が衛の元に集まった。
「あ、いや、うん。……ごめん」
「いや、別に謝んなくてもいいけど」
お互いが謝り合うことで、その場が妙な雰囲気に包まれた。衛はまだまだこの世界に馴染んでおらず、その口数が少なくなることも致し方ないことではあるのだが、同時にそれは二人に関係のないことでもあった。
何だかバツの悪さを感じた衛は、二人の視線を避けるべく再び弁当へと箸を伸ばした。
母親から渡されたお弁当は二段重ねだった。衛はその中身を見た際、それだけの量のご飯をとてもじゃないが食べきれないと思ったのだが、初めて食べた母親の手料理は想像以上に旨く、もう箱の中にはおにぎりと卵焼きが一つずつしか残っていなかった。
衛が最後の卵焼きを口に運ぶのとほぼ同時に、仁井が再び口を開いた。
「俺はてっきり能登とケンカしたのかと思った」
衛はまた二人の会話が始まるのだろうと思い、そのまま口をもぐもぐと動かしながら今川の返答を待った。
しかし、彼の意図に反し、次の言葉が彼の耳に中々届いてこない。
どうしたの?という意思を込めて衛が顔を上げると、自分に向けられていた二人の視線目が合った。
どうやら仁井は自分に話しかけていたらしいことに、衛はそこでようやく気が付いた。
「え?能登って?」
率直な疑問を口にした衛に、二人はわざとらしく手を広げて見せた。
「おいおい、またのろけか?」
「もうお腹一杯だっての」
「え?お弁当残すの?」
すると二人はポカンと口を開けたまま、顔を見合わせた。そんな彼等の様子を見ていれば、流石に衛も会話が噛み合っていないことが分かった。
『衛、ちょっとちょっと!』
衛の頭の中で、リリィの声が唐突に響いたのはその時だった。
「ちょ、ちょっとトイレ!」
衛は自分でも不自然と思いながらも、衛は急いで残ったおにぎりを頬張り、席を立った。
衛が廊下に出ると、まだ五限目までには時間があるせいか、そこには幾人の生徒の姿が立ち話をしていた他、教室からも漏れる、これまた生徒の声で溢れていた。
衛はリリィと会話をしている姿を見られないで済む場所を探すため、ひとまず校舎を出ることにした。リリィの姿は自分も他の生徒も見えていないことは分かっていたが、それでも一人で突っ立っている姿を見られたくなかったのだ。
運動場、はもちろん部活の練習や遊びやなんやらで人気は多く、今時学校の屋上が生徒に解放されているとは考えにくい。
となれば、残されている場所は……。
衛は色々と考えた末、体育館の裏出口に腰を落ち着かせた。
(ねぇ、リリィ。さっき今川が言っていた人って?)
今朝リリィに教えられた通り、衛は心の中で彼女に問いかけた。
『私も彼女について話そうと思ったていたところなの』
衛にはリリィの表情は分からないが、彼女の声音は何処となく普段のおちゃらけた感じよりも落ち着いているように聞こえていた。
『彼女は、あなたの「彼女」よ』
(は?)
衛は思わず聞き返してしまった。
『あなたねぇ、「彼女」って言ったら、ガールフレンドのことしかないでしょ』
「え、いや……、え?」
『あなたが願ったことじゃない?今時のJCだったら彼女の一人や二人くらい居るのが当然だと思って設定しといたわ』
ふふふっと不敵な笑みを交えながらそう言うリリィの口調は、いつも人を小馬鹿にしたものに戻っていた。そもそも衛にとっては「JC」が何の略なのかも怪しい。
『……少年漫画のことじゃないわよ?』
(わ、分かっているよ! それくらい)
衛の思考などリリィにはお見通しだったようだ。
『そんなに慌てちゃって、やっぱり可愛いところもあるじゃない。それとも彼女の存在はお気に召さなかったのかしら?』
(……じょうぶ)
『ん?』
(大丈夫、そのままで、いい)
『……そ』
リリィは小さく頷いた。
『彼女は隣のクラスだし、今から緊張しなくても放課後まで会うこともないわ。でも――』
(でも?)
『あなたはもう少し自分が普通の男子中学生であることに自覚を持つべきだわ。見るもの見るものにイチイチ驚いていたのじゃ身が持たないし、それじゃあ、折角願いを叶えた意味がないわ。あなたにとっても、私にとっても、ね』
(君にとってもって、問題があるの?)
『こっちの話よ。さ、そろそろお昼休みも終わりよ。教室に戻りなさい。堂々とね』
教室に堂々と戻ると言うのは一体どんな態度なのかは分からなかったが、衛は言われた通りゆっくりと腰を上げた。