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第二章 一つ目の願い ~空~ PART3


 洗面所に着いた後、そこで顔を洗うまでは良かったものの、歯を磨こうにも一体どれが自分のものなのかが衛には分からなかった。

 いつもの病院暮らしでは岬が準備をしてくれていたので、こんな悩みを抱えることはなかったのにとその時の衛は考えていたのだが、そもそも自分の歯ブラシがどれかを悩むこと自体が珍しいことを彼は知るべきなのかもしれない。

 

 衛は結局うがいだけを済ませた後、最初に目を覚ました自室(らしき所)に戻り、着替えに取り掛かった。

 そこで彼はまた、苦難を強いられることになる。

 今度はクローゼットの中からシャツを見つけたのだが、ネクタイの結び方が全く分からないのである。

先程から衛の首元で、ネクタイは上がったり下がったり、時には十字に交差させられたりするものの、一向に結ばれる気配を見せていない。

 時計の針は既に八時を過ぎており、このままでは何時に始まるかも分からない学校に遅れてしまうのは必至と言う状況までなったところで、衛は仕方なくネクタイを結ぶのを諦め、ブレザーを乱暴に羽織った。

 とりあえず持っていくだけ持っていこうと、彼の右手にはネクタイがギュッと握りしめられていた。


 とにかく急がなくてはならない。

 

 衛は机の横に置かれたバックを脇に抱え、階段を駆け下りた。

 玄関に着いた後も、正直自分の靴がどれなのかを一見して見分けることが出来なかったのだが、衛はそこに並べられた靴をよくよく見ていると、おおよそ自分の足のサイズに合いそうな靴は運動靴と革靴しかないことに気付いた。

 後は自分の服装のことを考えれば、おのずと答えは出てくる。


「ちょっと、いくらなんでもそれは駄目よ」

 衛が声のする方に振り返ると、先程の女性が彼の直ぐ後ろに立っていた。

「いくら歩きにくいからって。学校にはちゃんと革靴を履いて行きなさい」

 彼女の言葉で、衛はまた自分が選択を誤ったことにようやく気付いた。急いで革靴に履き替えようとするが、思いのほか尖った形状をした革靴に足を収めるのは、慣れていないと楽な作業では無い。


 あたふたする衛の背中に、女性はため息交じりの声を掛けた。

「ほら、お弁当も忘れないで」

 彼女は呆れた表情浮かべたまま、水色の巾着袋を衛へと差し出した。

「あ、うん。ありがとう」

「もう多分遅刻なんだし、あんまり急ぎ過ぎないで行きなさい。それと……」

 女性は、もう片方の手を差し出した。彼女の手の平には、小さな招き猫のストラップ付きの鍵が置かれていた。

「お父さんは今日も遅くなるみたいだし、母さんも今日はちょっと出かけるから、家の鍵を持って行ってちょうだい」

 それは彼女の口から、初めて「母」と言う言葉が発せられた瞬間であった。そして、その瞬間も衛が母親と上手く目を合わせられなかったのは、その言葉に対する衛の気恥ずかしさと、それともう一つ。

 背丈が衛よりも少し低いくらいの彼女もまた、目線を落としているからであった。


 気にはなるが、今は色々とそれどころじゃない。

 包帯の時同様、衛は特にそのことには触れず、小さく「分かった」と言って母親の手から巾着袋と、そして鍵を受け取った。

 そして最後に「行ってきます」と付け加えて、家の扉を開いたのだったが、その足はまた直ぐに止まってしまう。


 結局、学校がどの方向に進めばたどり着くことが出来るのかが分からなかいまま家を出てしまった衛は、どうしようもなく左手にはバッグと弁当が入っているのであろう巾着袋、右手にはクシャクシャに縮められたネクタイ、衛はそれらを持ったまま立ちつくしかなかった。


『ふふふ。大分お困りのようね』

 衛はその突然の甲高い声の主を探すべく、キョロキョロと周り見渡した。だが、周りには彼以外の人間の姿はない。

『ちょっと! もう大体の事情は掴んでいるのでしょ!』

「……リリィ」

 衛は頭を止めた後、ふぅっと小さく息を吐いた。

「もう少し、早く出てきてくれるのかと期待したよ」

 衛が誰に向ける訳もなくそう言うと、件の声の主はまた、『ふふふっ』と楽しそうに笑った。

『私もそのつもりだったのだけれどね。あなたがオロオロする姿があんまりにも可愛かったものだから、見惚れちゃっていたのよ』

「……そう」

 リリィの意地悪な言葉に、衛も何だか自分だけ真面目に対応するのが馬鹿らしくなってきていた。ただ、このままだと傍から見るとそれこそ独り言を呟く可笑しな人間に映ってしまう恐れがあるため、とりあえずは足だけは進めることにした。


「ここが僕の願った夢の世界なんだね?」

 衛は極力小さな声で言った。

『ええ、そうよ。あなたが願った「ごく普通の中学生が送る学生生活」の中に、あなたは今いるの』

「それは何となく察しがいったけれど、あまりに急過ぎて自分がどうしたらいいのか全く分からなかったよ」

 衛は相手の顔を見ないで行う会話による気持ちの悪さを抑えつつ、リリィに抗議の意を唱えた。

『あら、それなら大丈夫よ。ここまでのあなたの行いに概ね問題は無かったし、ここからは手伝ってあげるから。あ、そこは右よ』

 言われて、衛はリリィの言葉の通りに角を曲がる。


「本当にいい性格をしているよ」

『あら、それは心外ね』

 リリィは不服そうにそう言葉を返した後、『それに』と言葉を続けた。

『あなただってさっき意地悪していたじゃない? 自分の母親に向かってあんな余所余所しい態度はないんじゃない?』

「あれは、別にそんなんじゃないよ」

 衛は誰に対してでもなく、そっと目を逸らした。

 先程まであの家で話していた女性が自分の母親であることに、衛も彼女の顔を初めて見た時から、もちろん気付いていた。

 しかし、母親はもう何ヶ月も前から見舞いには来ていなかったし、そもそも顔つきこそ同じだったものの、衛の知る自分の母親はもっと老けていると言うか、尖った顏をしていると言うか……、少なくともさっきみたいな友好的な態度を自分にしてくることは絶対にない人間だったので、戸惑いを感じていたのがあの態度の原因であった。


「ちょっと、雰囲気が違ったから」

『あー、それは』

 リリィは思い返すような声を漏らした。

『この世界のあの人は、「病気になったあなた」を知らないからね。医者の娘として何不自由ない生活を送り、エリートの医者と結婚して、当然のように子供を授かった。今のあなたと言う「普通の男の子」をね。歩んできた人生が違う以上、その表情にも違いが生じて当然でしょう?』

「うん、まぁ、そうなのかな」

 リリィのその説明は充分合点のいくものだったが、それと同時に衛の気分を害するのにも充分過ぎるほどの悪意も込められている様に彼は感じた。


『あんまり面倒臭いことばっかり考えていると、一日なんてあっという間よ』

「……確かに」

 たったの一日だけ。その時間の少なさを衛はすっかり忘れていた。

『現実に戻る前に、今をもっと有意義に過ごした方がいいわよ』

「リリィ……」

 

 思いほかの優しい彼女のその声音に、存外この娘は良い妖精なのかもしれないな、と彼女に対する苛立ちを感じていた自分のことを少し恥じる気持ちを衛は抱き始めていた。


『あ、それはそうと』

「ん?」

『別に声に出さなくても、心の中で話しかけてくれれば大丈夫よ』

 

 前言撤回。

 そう言いながらまたクスクス笑い出すこの妖精のこと、衛はやっぱり好きになれそうもなかった。


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