第一章 四つの願い 終
『気付いていたの?』
そこでようやく少女が言葉を返すと、衛は特に頷くこともなく口を開いた。
「流石に病室で寝ていたことは覚えているよ。さっきは余りの衝撃に、興奮しちゃったけどね」
衛は少し照れた様子で言葉を続けた。
「それに、君みたいな不思議な女の子が現実の存在だなんて簡単に信じることは出来ないだろ?さっきから口が開いていないみたいだけど、それでも君の声が僕に届いているのはテレパシーってやつかい?」
衛の言葉の通り、この女の子の口は先程から一度も開いたことはなく、彼女の声はまるで衛の脳に直接語りかけてられているかのように響いていた。
『まぁ、そんなところよ。それよりも驚いたわ。ただのウジウジした弱虫かと思ったら、意外に考える頭があったのね』
本当に驚いた様子で目を丸くする彼女に、正直ムッとした衛は「それは褒め言葉のつもりかい?」とやや挑発的な言葉を返した。
『いいえ、私はめったに相手を褒めたりはしないわ。これは率直な感想よ』
「……そうかい」
『でも衛、あなたの予想は半分しか当たっていないから五十点ね』
「え?」
半分だけ?じゃあ正解の残りの半分は何なのだ、と言う批判を目一杯込めた視線を衛が投げ掛けると、
少女は後ろに手を回して得意げな表情で話し始めた。
『ここは確かにあなたの夢の中よ。でも、それと同時に現実に起こっている出来事でもあるの』
「それって一体―」
『話を最後まで聞きなさい。あなたがさっき言った通り、私は現実の世界では存在することが出来ないわ。人の夢の中だけで生きているの。いえ、人間だけじゃないわ。犬や猫や鳥、色んな生き物が見ている夢の中を渡り歩いているわ。つまり、私は今あなたが実際に見ている夢の中にお邪魔させて貰っているってことなの。私の言っている意味、分かる?』
「……なんとなく」
要するに少女は衛が自分の夢の中で作り上げた架空の生き物ではなく、また別の、実際に存在する生命であると言うのだ。
確かに、彼女の言っている通りならば、これが現実に起こっているという話も何となくだが頷けた。
だが、それで衛の疑問が全て解決したわけではない。
「でも、じゃあどうして僕のところに会いに来てくれたの?」
衛の問いを聞いて、女の子はその表情から笑みを消した
『そうね。そろそろ本題に入ろうかしら』
「本題?」
『そう。私はあなたに良い話を持ってきたのよ』
少女はそう言って、一度衛に背を向けるようにクルりと体を反転させた。
『ここ数日、私はあなたの行動を見ていたわ。あなたは朝起きて、ほんのわずかな朝食を摂って、また眠って、お昼ご飯を食べて、少し動いてからまた眠って……。毎日毎日、生活の大半をベッドの上で過ごしていた。これって、ある意味死んでいるのと同じじゃない?』
「……」
衛は返す言葉を思いつくことが出来ない。
『私はね、そんなあなたのつまらない生活を壊しにきたのよ』
そう言って振り返った女の子の表情には、何やら意味深な笑みが浮かべられていた。
『あなたの願いを四つ、何でも叶えてあげる』
「は?君は何を言って―」
少女は「だから最後まで話を聞け」と言わんばかりに、グイッと衛に顔を近付け、人差し指を彼の口元に差し出した。
『さっき言った通り、私は夢の中でしか存在することが出来ない。だから、願いを叶えると言っても現実の世界のことは無理よ』
女の子はそこまで言うと、一度言葉を切った。そして一呼吸程の間をおいてから、彼女は再び口を開いた。
『だから、好きな夢を四つ、何でもあなたに見せてあげるわ。囚われた姫を救うために大魔王へと挑む勇者、世界を股にかけるハリウッドスター、どんな球でも打ち返してしまうメジャーリーガー、どんなに現実離れしていた願いでも、あなたを中心に描かれるその世界を作り出してみせるわ』
両手を大きく広げて得意気に話す彼女の姿に衛は圧倒され、自分の日常を揶揄された先程とはまた違った理由で直ぐには言葉を返すことが出来なかった。
しかし、衛が声を取り戻すまで、今度はそれほど時間が掛からなかった。
「それは……、凄い、本当に凄いことだよ。僕はやりたいことがいっぱいあるんだ」
『そうでしょ?何でも言ってくれて構わないのよ。他にも―』
「でも」
今度は衛が、彼女の言葉を遮った。
「でも、それはタダでって話じゃないのだろ?」
女の子は一瞬だけ面を食らったような表情をした後、そして再び不敵な笑みを浮かべた。
『ふふ、あなた、意外と話せる人なのね』
「やっぱり……。それで、僕は一体何を支払えば好きな夢を見ることが出来るの?」
少女は『そうね』と言った後、一度間を置いた。まるで勿体ぶることを楽しむかのような彼女のその仕草には、どこかあどけなさが残っていた。
『私があなたに要求する代価は――、「感覚」よ』
「感覚?」
『ええ、そうよ。そもそもの話になるのだけれど。あなた達人間が見ている夢と呼ばれるものは、
無意識の内に脳が作り出している虚像なのよ。と言うことは、元をただしていくとその脳が夢の発端であり全てであるということになるの』
「はぁ……」
『さらに考えてみて。じゃあその脳は何で出来ているの?』
「え?脳が何で出来ているかって……」
いつの間にか話が脱線しているような気がしていためか、衛はうまく頭を回すことが出来ていなかった。
「……血液、とか?」
衛が何とか絞り出したこの答えはどうやら不正解らしく、少女はやれやれと言わんばかりの表情で首を横に振った。
『零点』
「……じゃあ、一体何でできているんだよ?」
衛の不機嫌なその顔が面白いのか、彼女は嬉しそうに表情を浮かべた。
『脳は「神経」で構成されているのよ。そしてその様々な神経が、それぞれ違った感覚を伝えているの。それに、君が抱える病気も脳が原因なのでしょ?』
「僕の、病気……」
彼女のその言葉を聞いて、衛は改めて自分の病気のことを思い返していた。
『つまり、私は自分が身を置いているこの世界を創りだしてくれている脳、もっと言うとその脳を構成している神経を差し出して欲しいの』
少女はおそらく言葉を噛み砕いて説明しているつもりなのだろうが、それでも衛には話の意図がまだイマイチ見えて来なかった。
「ねぇ、君が言っていることがよく分から無いのだけど」
衛が素直にそう言うと、少女はそれを聞き分けが良くないと感じたのか、それとも二人が出会ってからそれなりに時間が経過していたせいなのか、少女は「はぁ」と溜め息を吐いて疲労感を滲ませた。
まぁ、「時間が経過した」と言ってもこれは衛の夢の中である。実際にどれほどの時間が経っているのかは定かではないのだが。
『もう、結論だけでも分かってくれたらいいわ。つまり、私が欲しいのはあなたの神経が伝える感覚、差し当たってはその集約である「五感」なの』
「うーん……」
『……五感が「視覚」「聴覚」「触覚」「味覚」「嗅覚」を示していることは知っているわね。これからあなたに四つの願いを一つ叶えてあげるごとに、この五感の中からも一つ貰っていくってこと。要するに、全部叶えた後にはあなたの中にはたった一つしか感覚を知る術が残されていないことになる訳よ』
自分の五感を失う……。
ただでさえ、人並みの生活を遅れていない自分が、これ以上に障害を抱えるとどうなってしまうのか。
想像するだけでも目眩をおこしそうなその苦悩が衛の顔にも出ていたためか、少女は心なしか優しい口調で言葉を続けた。
『まぁ、急に決めてとは言わないわ。一日だけ考える時間をあげるから、明日答えを聞かせてちょうだい』
少女が『それじゃあ、またね』と言って背中を向けた時、彼女はその小さな手がギュッと握られたのを感じた。
「その前にもう一つだけ、教えてくれない?」
少女は、その視線を衛に向けることで何を聞きたいのかを問うた。
「君は、なんて名前なの?」
それは予想にしていなかった問いだったのだろうか。まるで少女の時間が一瞬止まってしまったかのように彼女は表情を固めた。だが、彼女は直ぐにクスッと笑い、口を開いた。
『リリィよ』
「……リリィ」
衛がさらに言葉を付け足そうとした時、彼の視線は急に暗闇に覆われたのだった。
※※※
「お帰りなさい」
ヒラヒラと舞いながら、ゆっくりとこちらに近付くリリィに彼女は声を掛けた。
『うん、ただいま』
リリィは先程までいた衛の夢とはまた違う人物の夢の中、つまり自分ではないどこか遠くに向けて優しい目線を投げかけている「彼女」の夢の中に戻ってきたところである。
「彼には会えた?」
『うん、問題ないと思う。……でも、本当に良いの?』
リリィは彼女の目線の下から、伺うように尋ねた。
『こう言っちゃなんだけど、あなたがそこまでしてあげるほど、彼は価値のある人間なのかしら。今だったらまだ――』
「いいの」
彼女は優しく、そして強く言い放った。
「いいの。彼は、私にとっての全てなのだから」
彼女のその言葉には強い意志が含まれているようだった。しかし、そこには闇とまでは言えないものの、何処かねじ曲がっているような感覚もリリィは感じていた。
『まぁ、私にとっては同じことだからいいのだけれど、本当にあなた達人間って分からない生き物よね』
「ふふふ。あなた、意外に優しいのね」
自分よりもずっと少ない時間しか生きていない彼女の言葉に、リリィは憤慨した。
『私があなた達にやろうとしていることを聞いて、よく「優しい」なんて言葉が出るわね』
リリィは皮肉を含んで言ったつもりだったが、どうやらその思いは彼女に届いてはいないらしい。
「ええ、あなたは優しいわ。私達人間なんかよりも、ずっと」
まぁ、あなたの歪んだ愛情に比べれば、可愛いものかもね……。リリィはそれを口にする代わりに、わざとらしく彼女から視線を外した。そして意識的に冷たい口調で『もうそろそろ夜が明けるわ』と言い放った。
「ええ。……リリィ?」
彼女は目をゆっくりと目を瞑り、自分の願いを叶えようとしてくれる、その小さな妖精の名前を呟いた。
『なに?』
「ほんとうに、ありがとう」
彼女のその言葉に、リリィは何故か自分の背筋が冷たくなっていくのを感じた。