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第一章 四つの願い PART1

「それでは衛君、右手を挙げて下さい」

「はい」

衛は指示に従うため、右肩に力を入れようとした。しかし、まるで右腕が後ろから引っ張られているような重い痺れが脳裏に走り、思うように動かすことが出来ない。


「ゆっくりでいいからね。無理はしないで」

みさきはそう言いながら、衛の額に浮かぶ汗をタオルで拭った。


 十四歳の少年が一人で使うには広過ぎるこの病室の中に今居るのは、部屋の主である衛と、普段から彼の身の回りの世話を行っている看護婦の岬の二人だった。

病院の中でも衛の存在を出来るだけ知られたくないと考える彼の両親の意向により、岬は衛の専属看護婦として身の回りの世話のみならず、今日のようなリハビリにも付き合っている。

 岬がこの大学病院の看護科を二年前に卒業した後、この役割を任されることになった理由は幾つか考えられるが、その中でも最も大きな要因は、彼女が衛の父親の実弟の一人娘だったことだろう。

 幾ら衛の父親が自分の息子の障害をひた隠しにしようとも、やはりそこには限界はあり、身内、つまるところ弟や両親、そして妻の親には知られざるを得なかったのである。


岬が先程の指示を出してから三・四分経っただろうか。ようやく不自然な形で開いた衛の右手は上がった。


「凄いよ、衛君。よく頑張ったね」

岬が今拭っているのは、衛が流す汗だけではない。自分の片腕一つ満足に挙げられないばかりか、

この程度のことで「頑張った」などと褒められている己を恥じた衛が流す涙も、一緒に拭き取られていた。

「じゃあ次は、左手も挙げてみようか?」

 岬は衛の右手を支えながら次の指示を出した。

 

 今衛がやっている固まった筋肉をほぐすリハビリは、極度にその使用回数が少ないことによる筋肉の劣化を防ぐことが目的である。

 リハビリと言ってしまえば多少は聞こえが良いが、要するにこれは「現状を維持するため」の治療であった。

 これを続けたからと言って、衛の病気が改善されることはない。

 もちろん、そんなことは岬も分かっているのだが、一介の看護婦でしかない彼女がだからと言ってもっと有効的な治療を行うべきだと主張することは出来ないし、よもやその術を知る筈もないために、今日もこうして衛が今の状態のままの生活を送れるように手助けしているのだった。

 

 最早、この病院に衛の病気を治そうと思っている者はいない。主治医も、看護婦も、両親も、そして衛自身さえも……。

 

 先行きの見えない生活を送るためのこの少年の闘いは、この後約一時間続くのだった。


 ※※※


 岬とのリハビリを終えた後、衛はぼんやりと病室の窓から見える景色をベッドの上から眺めていた。

 彼女とのリハビリでたくさんの汗を掻いた衛は、一度シャワーを浴びて服を着替えた後、安静にしておくように、といつもの言葉を残し去っていく岬を目だけで見送ったところだった。

 もちろん、シャワーも着替えも岬の手を借りて行っていた。

 十四歳と言う年齢は、本来なら最も周りの眼や異性のことを気になる年頃なのだろうが、衛は特に羞恥心を抱いていなかった。

 

 いや、羞恥心だけではない。

 衛は自分の惨めな運命に対する悲壮感も、世間体ばかりを気にして自分のことを人間扱いしようとしない両親への恨みも持ち合わせていなかった。

 これは彼が抱える病気によるものなのか、それともまともな教育をしてこなかった彼の両親のせいなのかは分からないが、そんな衛が許せないことはただ一つ。

 

 それはどうしようもない自分と言う人間の存在が放つ、「弱さ」であった。

 何故自分がこんな惨めな状況を受け入れなくてはいけないのか、と言う理由が重要なのではない。結果として「弱い自分が存在していること」を、どうしても許すことが出来なかったのだ。

 何が何処でどう間違ってこうなってしまったのかは分からないが、今のこの現状に甘えていることやこれを覆す力を自分が持っていないことに、憤りを感じているのである。

 この病室で自分以外に誰も居なくなった時、衛はいつもこうやって自己嫌悪に陥り、人知れず涙を流していた。

 

 と、そこで衛が放つ空虚な視線の先に、一人の少女が映った。

 その少女は誰かと会話をしている訳でも、本を読んでいる訳でもなかった。

 彼女はただ一人、病院内の公園のベンチで座っていた。静かに噴水の水を眺めるその姿には、何処となく哀愁と清楚さを感じなくはないが、一人で外に出歩いている入院患者と言う時点で単なる「ぼっち」である可能性が極めて高い。


 ……今日も一人で居る。

 衛は頭を小さく動かし、頬を流れた涙を枕で拭いながらそう呟いた。

 そしてその時、衛は動揺しかけていた自分の心が落ち着き始めたことも感じていた。

 

 この二人に面識はない。しかし、衛は彼女の姿をいつまでも見ていたいと思っていた。それは衛が彼女に特別な感情を抱いている、からではなく、彼は自分と似た境遇を彼女から感じ取っているにも関わらず、いつも一人で居る彼女を「自分の祖父が経営する病院のおかげでお前は生きることが出来ているんだ」や、「人と話しているところを見たことないけど、家族や友達はいるのか?」と、見下したかったのである。

 しばらく岬と主治医以外の人間の顔を見ていない衛が、自分のことを棚に上げて人を愚直することに惨めさを感じることなど微塵もない。

 自分よりも弱い人間(これも衛が勝手に決めつけているだけ)を見つけて自尊心を保つ、彼をそうすることでしか生きる活力を得ることが出来ない、悲しい人間と罵ることは簡単だろうが、当事者にしか分からない黒や悲しみもそれと同時に存在する以上、それを他人が理解することこそ到底無理な話なのである。

 これが衛のアイデンティティーであり、生きる術であった。


 そんな二人の視線が交差したのはその時だった。

 一瞬ドキッとして顔を背けようした衛が上手く体を動かすことが出来ないのは当然なのだが、それに対し、体を自由に動かすことが出来る筈の少女もその視線を外そうとはしなかった。


 こうやって二人が見詰め合い始めて、果たしてどれ位の時間が経っただろうか。

 いつもに増して時間の流れを遅く感じていた衛は、ようやく寝返りを打つことでその視線を彼女から完全に外すことが出来たのだが、衛がゆっくりゆっくりと体を反転させている最中も、少女はジッと彼の顔を見つめ続けていた。

 それはあまりに突然のことだったため、衛は高鳴った鼓動を鎮めるようとフーッフーッっと何度も大きく息を吐く。

 今まで少女のことを何度となく観察してきた衛だったが、目が合うのは初めての体験だったのだ。

 一方的に優位な立場と思っていたのに、もしかすると彼女も自分の存在に気付いていたのだろうか?

だとすると、彼女は自分のことをいつも変な視線を送ってくるキモチ悪い奴と思っているのか?


 衛は急に立場が逆転してしまったような気持ちに苛まれて、やっとの思いで視線を外すことが出来たものの、衛の脳裏には先程までこちらを見つめていたあの少女の目つきがこびり付いていた。

 そして、彼女の考えを想像すればするほど、衛の体には冷たい汗が滲み出るのである。

 自分が唯一、優位な立場居ると思っていた彼女にすらバカにされていたのだろうか、と嫌でも衛の思考は府の方向へと導かれてしまう。


 心の支えが無くなることへの恐怖なのか、それとも怖いもの見たさなのか、衛が再び窓の外へと視線を戻したとき、そこにはもう彼女の姿は無かった。




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