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第三章 二つ目の願い ~理~ PART1


 東京都。

 そこは人口密度の高さには定評のある日本の中においても、一際人が集まりやすい場所として名を馳せる、この国の首都である。

 しかし、この都市で生まれ育ったという人間は案外少なく、割合的には他の都市から移り住んできた人間の方が圧倒的に多いのは、日本人であればわざわざ口に出して言うまでもない、共通の認識として皆が持っている常識でもあった。

 

 相も変わらず今日も満員電車に辟易しながら出勤をしているこの女性、藤木岬もそんな都外からここ東京に移ってきた人間の一人である。

 ただ、彼女は生まれが埼玉であった分、それほどこの地に来ることへの抵抗は少なかったのかもしれない。

 

 仕事を休みたい……。

 岬は心の中でそう小さく呟いた。

 季節はもう六月の半ばを過ぎた辺りであったが、まだ梅雨は来ておらず、その反面肌に纏わりつくジメッとした暑さがこれだけ毎日続いていれば、彼女がもう終わったはずの五月病をぶり返すのも仕方が無いことなのだろう。

 岬は中学校、高校と、特に熱中する何かを見つけることもなく、ただ何となく毎日を過ごし、別段親から強制された訳でもないが、親戚が経営する大学へと進学し、そこで看護の勉強をして看護師になる、今乗っている電車と同じように、何の変哲もないレールをただ進む人生を彼女は歩んでいた。

 ただ過ぎ去っていくだけの毎日に不満が無いと言えば嘘になるのだろうが、一般的な家庭と比べても自分が恵まれていることを岬は自覚していたし、普通であることが何よりも幸せと言う言葉を借りるのであれば、自分は最も幸せな人間の一人であると言わざるを得ないことを、彼女は半ば諦めが入ったような感情で受け入れていたのだった。

 

 目的の駅が近付いてきたので、岬は握っていた携帯電話を鞄に仕舞った。彼女は視線を前に戻すと、不意にこの後一日の大半を共に過ごすことになる従弟の少年のことを考え始めた。

 彼が生まれた時、岬はもう中学生であったものの、姉弟がいない彼女は年が離れた弟が出来たようで、そのことを嬉しく思ったのだが、何より待望の大病院の跡取りが出来たことを親戚一同が皆喜んでいたのが、彼女には子供ながら印象的であった。

 しかし、嬉々とした時間も長くは続かなかった。

 彼の体に先天性の障害が見つかったのである。

 とは言っても岬の親族には医学分野のプロフェッショナルが集まっている。彼等にとって並大抵の病気はそう怖いものでもなかったのであろうが、その相手が日本はおろか、世界的にもその原因が究明されていない脳障害と聞かされた途端、皆一斉に白旗を振ってしまったのであった。

 実は岬も大学試験の時に受けた面接で、障害を抱えた彼のことを話題に上げてしまった節もあり、彼に対する後ろめたさを感じていた。

物心がついた時、いや、生まれた瞬間から不自由な生活を余儀無くされている彼に比べれば、岬は嫌でも自分が育ってきた環境の良さを自覚させられてしまっていたのだった。

 ただ、こうやって社会人になった後、彼と毎日顔を突き合わせる生活を送ることになるとは、当時は夢にも思っていなかった。


 ※※※


 衛が体の異変に気付いたのは、目を覚ました直後であった。そもそも意識を覚醒させたきっかけと言うのが、この「息苦しさ」が原因だったのである。

 夢の中でのあの一件を過ごした後、衛の「嗅覚」は完全に失われていた。

 鼻で息を吸う際、そこに吸っている感触は確かにあるものの、匂いがまるで無いことでそれを実感することが出来なかった。それも初めは、自由に動けていた夢の中から現実に帰ってきたことによる反動で、体の不自由さにヤキモキしているだけかとも彼は思ったのだが、こうも毎回一呼吸するのに苦労させられていては、嫌でも他の原因に気付いてしまうのであった。

 匂いを感じることが出来ない、ただそれだけのことだとタカを括っていた衛だったが、ただでさえ不自由な彼の生活を苦しめるのに充分すぎるほどの効力を発揮していた。


「衛君、やっぱり先生に見て貰おうよ?」

「……ううん、だいじょ、うぶ」

 鼻に違和感があるせいで、衛は上手く声を出すことも出来ない。

 毎日顔を見合わせている岬がその異変を見落とすわけもなく、彼女は朝食を運んできた時からしきりに彼の体調を気遣っていた。

「でも……」

「ほんと、に、だいじょ、うぶだから」

 心配そうな顔を浮かべながらも、岬が衛の言う通り医師にこのことを知らせていないのは、彼女の記憶にはない速度で衛が朝食を完食したことが好印象だったのと、その医師と言うのが他ならない彼の父親であったことだった。

 父親と顔を合わせることが衛のためにならないことを、岬は知っていたのだ。

 因みに衛の食欲がいつもよりあったのは、夢の中での出来事を、彼の脳が覚えていたのが要因なのかもしれない。

 

 岬は結局、普段完食すら珍しい朝食を元気に食べていた衛の今朝の姿と、彼の今の言葉を信用しようと、他の人間に彼の体調の変化を伝えることを諦めた。

「……うん、分かった。でも辛くなったらすぐに言ってね」

「ありが、とう……」

「え?」

 岬の驚いた顔を見た衛は、昨夜の夢の中で母親と過ごした朝のことを思い出した。母親も衛が食器を下げた時に、今の彼女と同じような顔をしていたのだ。

 虚を突かれた岬だったが、直ぐに笑みを浮かべ、「どういたしまして」と短く言葉を残し、病室を出て行った。

 

 彼女の背中を見送りながら、衛は周りの人間に対する自分の振る舞いを思い返した。

 確かに衛の中には「ありがとう」と言った記憶など久しく無かったのだが、それでも結局のところはそれがどうしたのだと言う、自分本位な感情しか彼には湧き上がってこない。

 こんな不自由な体で生活しているのだから、周りはもっと自分のことを労わるべきだし、所詮人間なんて自分のことしか考えられない動物なのだ、とまるで反省の色を示す気に衛はなっていなかった。

 しかし、リリィはそんな衛に対して「自分だけを特別だと思うな」と言う。

 そりゃ周りの人間だって悩みの一つや二つぐらいは抱えているのだろうが、立って歩けることがどんなに幸せなことかを本当に理解できている者は、自分以外にそう居ないだろう、と衛は思いながらも、自分が憧れていたその「普通の生活」も、所詮は醜いものであったと言う現実(正確には夢?)を彼は目の当たりにしたことで、何が正解か分からなくなってきていた。

 

 強いて言うのなら……。

 いつもの様にベンチに腰掛けていた例の少女へと、衛はまたいつもの様に視線を向けた。

 あくまで衛の憶測でしかなかったのだが、自分よりも弱い立場にいる彼女ぐらいには多少は同情してやってもいい。

 いつもに増して虚ろな目をしている彼女を見ながら、衛はそっと目を閉じた。


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