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前編

 それは雨の日だった。春の桜を打ち落すかのように、毎日冷たい雨が降っていた。


 俺はそれが濡れないように、落としてしまわないように抱きしめて、家に帰った。ランドセルを玄関先に投げながら部屋に入り、そして洗い立てのふかふかのバスタオルを床に敷くと、そっとそれを置いた。


 それは、灰色の毛並みの子猫だった。恐らく産まれたばかりで目はまだ開いておらず、目ヤニと鼻水で顔の周りはカピカピになってしまっていた。

 学校の帰り道、偶然にも路上で発見したのだ。

 俺はすぐに部屋から出て台所へ向かうと、冷蔵庫を開けて中から牛乳を取り出した。頭の片隅にある“子猫を拾ったらやりそうなこと”のイメージをかき集めて、ひとまず牛乳をひと肌程度に温めると、母さんが味見でよく使う小さい平皿にそれを移した。


 飲んでくれるだろうか? 飲んでくれるといいな……。


 幼少のみぎり、とても可愛かった俺の愛らしい期待。平皿を片手に、俺はドキドキしながら自室の扉を開けた。そして見下ろした。


 ――――しっかりと二足で直立する、目ヤニ鼻水だらけの子猫を。


「吾輩は魔王である。名前は……まだないッ!!!」


******


 早いものであれから四年。

 俺の部屋には新聞を読む猫が住み着いている。

「ふむ……。日経平均2万円越えか。しかし消費税増税も控えておるからな」

 ピンとした耳、すらりとしたフォルム。瑠璃色の右目と深紅色の左目。

「ふむ……。羽生(はぶ)弓弦がフリー1位か。しかし投げられるプーは災難だな」

 青みがかった灰色の短毛、ゆらゆらと動くかぎしっぽ。

「……おい! 安めぐみんが妊娠したぞ!!」

 そして猫なのに渋い声。


「―――――うるせーよッッッ!!」

 俺は新聞を声に出さなければ読めない齢四歳の喋る猫――――魔王――――に、絶叫した。

「なんだ? 近頃の子どもは逆上型だな。ゆとり世代に戻った方が良いんじゃないか。そうだ、その方がアベノミックスより良さそうだ」

「ほっとけ! 俺が今日、何で珍しく学校から午後二時なのに帰ってきたか、分かりますか?」

「テスト期間」

「知ってるのかよ!」


 俺は突っ込みながら再び勉強机に向かった。数学の教科書を開き、ひたすら問題を睨み付ける。高校に入った途端、こうも勉強が難しくなるとは。

 記念受験がたまたま当たり、“ラッキーなことに”元々入ろうと思っていたところよりもレベルの高い高校に受かることが出来た。……そう思っていた。


 ラッキーじゃない。全然ラッキーじゃない。今まで一夜漬けで凌いできたテストが全く凌げない。初日の英語、物理、日本史は、一時限目の英語でペンの持ち方を忘れ、二時限目の物理はペンを転がすのがやっと、三時限目の日本史はペンで喉を突いたらどれだけ楽になるだろうかと真剣に悩んだ。明日の二日目は、心臓が止まるかもしれない。


「どれどれ、なんだ。ただの二次関数ではないか。全く、こんな問題も解けないのか? まったく、この世界に転生してからまだ四年しか経っていない吾輩でも解けるぞ」

 いつの間にか勉強机に乗り、嫌味を吐く魔王に俺は、

「だ・か・ら! テスト期間なの! まだ太陽が昇ってるこの時間帯が俺にとって最後のチャンスなの! 分かる!?」


「分からん」

 バッサリと言い捨てられ、俺は思わず固まる。

 魔王は一歩、また一歩と二足歩行で近づくと、ガラスのような緑色の目をずずいと寄せた。

「授業を受けているのであろう? なぜ親に金を払ってもらい師にほぼ毎日学びを受けているというのにこの時間帯がチャンスなのか、吾輩にはさっぱり理解しかねる」

 嫌味の次にまさかの正論。痛いところを突かれて、一気に冷汗が噴き出す。

「……う。そ、それは……」


 生唾を飲み込む俺に、

「おぬしさては、予習復習どころか授業をまともに聞いてもいないんじゃないか?」

 ぎくりとする。

「いや、それは……」


 ぎくりとするが、

「大変なんだよ。大変。すげえ大変なの。ほぼほぼ家でニートされてる猫さんには分からないでしょうがね。高校生ってのは、授業ひとつとっても、とっっっても大変なの!」

 そう。この喋る飼い猫の生活と比べると、俺の高校生活は大変である。朝7時に起きてずっと尻が痛くなる夕方まで勉強しているのだ。その間、この元魔王猫は好き勝手に生活をしている。新聞読んだり、日向ぼっこしたり、ネットサーフォンしたり。


「ぬう。確かに、吾輩は高校に通ったことがない。そして転生し魔王職を離れてからはこの通り、毎日猫である。しかし、吾輩に言わせれば、この世界自体がぬるい。

他人の家に堂々と昼間から入ってはタンスの薬草を盗み去ったり、経験値を稼ぐ為だけに銀色の魔物を毒針で刺そうとしたり、戦友として苦楽を共にした女性戦士に破廉恥極まりない布きれを宛がうようなことをし、挙句吾輩の城にずかずかと入ってくる、しかも竜の背に乗って上空からの奇襲!!

そのような獰猛、冷徹、卑劣愚鈍、無慈悲残忍、悪魔の所業。血も涙もない悪漢どもが跋扈(ばっこ)しておらん。

ぬるい。実にぬるい。そのような世界で、大変なことなど一つも有りはしないわ!」


 う。確かに言われてみればそのとおり。……いやいや、お前の世界と俺の世界違うし。ってかお前いま俺の世界で猫だし。

 口達者な猫に矢継ぎ早に責められ、俺は逆切れした。

「いくら言ってもニートなのには変わらんだろ、このニート猫! 悔しかったら高校生になってみろ! っていうか、俺の勉強の邪魔するな!」


 と、言ったところで、

「ゆうちゃーん、にゃーちゃーん、おやつ食べるー?」

「「あ、はーい」」

 母親の呼びかけで口喧嘩は終わったのだった。


*****


「……と、思ったんだが、そうじゃないのか?」

 テスト期間が終わり、肩の荷が下りた次の週。早朝の部活前にカバンを開けたらそれと目が合った。

「あれは休戦というのだ、佑介よ……」


 普段、部活用にタオルと着替えを詰め込んでいるボストンバックに猫。猫だけ。猫だけ一匹。

 道理でいつもよりなんだかほっそりしてるのに重いと思ったら……、

 俺はくらりと自分の愚かさに眩暈を感じた。


「おぬしが大変という学校とやらを見に来たのだ、佑介よ……」

 魔王は怪しげな微笑をたたえて、ヒゲをニヒルに動かす。

「はぁ!? ふざけんっ――――」

「可愛い!」

 突然、背後から黄色い声。俺は驚いて後ろを向いた。


 ロクシタンのクラシックローズの甘い香り。チェックのミニスカートに黒のオーバーニーソックスという最強の組み合わせの太ももが麗しく、スポーツ用伸縮素材ロングスリープシャツのお陰で強調された胸元(下はピーチジョンのランジェリーという同級生山下の情報)は正に生きる楽園、加えてショートカットが似合うという正真正銘の美少女っぷり。


「岬先輩……(あなたがいたからテニス続けられてます)」

「それ、佑介君のところの猫? ついてきちゃったの?」

「そーなんすよー。もー、うちの子やんちゃで!」

 これ幸いとボストンバックから猫を伸ばす。魔王は観念したように呟いた。

「……にゃあ」


「可愛い! ロシアンブルー? シンガプーラ?」

「ざっ……ミックスです。捨てられてて……」

「そうなんだ。名前は?」

「まお、じゃなくて、にゃーちゃんです」

「にゃーちゃん!そのまんまだねー、かわいいー。抱っこしても、良いかな?」

「どーぞどーぞ!」

 初めてちょっと、拾って良かったと思いながら魔王を差し出す。岬先輩は優しく魔王を抱き上げると、

「うちの子はヒマラヤンでふかふかなんだけど、短毛種の猫ちゃんも直接温かい感じでいいね~」

 慣れた手つきで魔王の喉を撫でた。


(美しい女子と会話が続いてる……。幸せすぎる……)


 うっとりと、しかし表情に下心を見せないように爽やかさを装いながら美少女と猫を見る。猫が胸に押し付けられ、ふくよかな柔らかさが強調されているのが尚好し。眼福ここに極まりと悦に浸っていると、

「フン」と、魔王が鼻を鳴らした。

 見下すような、憐れむような瞳を投げると、「にゃ~ん」と喉を鳴らして、ちょっ、おまっ、胸にそんなに顔埋めてんじゃねーーーーッ!

 魔王の心の声が聞こえる。羨ましいか。可哀想に。憐れな生き物よ。おぬしじゃ無理よね、捕まるよねッ☆

「ど、どうしたの……?」

 いつの間にか悔しさのあまり口腔内を噛み切り唇から出血していたらしい。心配そうに、しかし猫を抱くことを忘れず俺に慈愛の声をかける。

「ちょっと、朝日が眩しくて……」

 俺は流れ落ちそうになる涙を堪えながら、そう答えた。


*****


 昼休み。麗らかな校舎裏でひっそりと一人飯(+一匹)。

「やはり大変ではないではないか」

 俺の弁当からウインナーを奪い取り、はぐはぐと咀嚼しながら魔王は言った。

「きっと、先週のテストも大したことはなかったのだろう?」

「何を言ってるんだ。俺は先週テストなど受けてはいない。俺はペンを転がす大切なお仕事をしていたんだ」

「ふむ、自分の墓でも掘ってきたかのような顔をしていたが、なるほど、単純作業は精神を脅かすものなのだな」


 いつのまにやら二本目のウインナーに投入してつつ魔王は首を傾げた。

「それにしてもなぜ、3時限目の数学、教師の問いに答えられなかったのだ? 半ば夢の中におった吾輩でも、あれはX=3と分かっていたぞ。なぜ分からぬのか」

 こいつは、ボストンバックに入りながらずっと授業を聞いていたらしい。授業中、ボソボソと「そこは2だな」だの「答えは墾田永年私財法」だの「グリーン先生はサムに玉子を投げつけました(英訳)」だの、念仏を説いていた。お陰で俺は散々授業で当てられ、「高橋、なんで解けない? 今、ボソボソと答えを言ってたろう?」と疑惑の目を教師に向けられ、ただひたすら貝になるしかなかった。


「ボストンバックに入ると視界が遮られるから緊張しないんじゃねえの。俺はまだ本気出してないだけだし」

「おぬしは一月に一度は必ず、まだ本気出してないとか本気出せば出来ると言ってるなあ。空しくならないか?」

「言うなッ」


 このままでは完全敗退してしまう。飼い主としての地位が今まで以上に下がってしまう。俺は臍を噛みながら魔王をぎゃふん(古い)と言わせるべく方法を思案した。全く浮かばないけどな!

「しかしまあ、おぬしの言うことも一概に的を得ていないともいえないの。確かに、傍観者として観察するのと、実際に生徒として経験するとでは、肉体的・精神的な負担は差が出よう」

「あら意外と優しいのね」

 お情けを鼻で笑って返すも、魔王は一ミリも動じず、頷いた。


「そうだな。うん。優しさ……、優しさが足りなかったかもしれんな」

 そして妙案が思いついたという表情で、

「よし、おぬしと吾輩の体、しばし交換しようではないか」

「はいはい……って、え?」

 予想だにしていなかった台詞に耳を疑い魔王に視線を向けた瞬間、目の前が一瞬で暗くなった。二足立ちの猫の形をした漆黒の闇が空中に現れ、巨大に膨張し俺を包む。

「嘘だろッ!?」

 轟音と共に俺の体を通って何かが突き抜けていき、俺はそのまま勢い良くごろごろと転がり、地面に倒れこんだ。


「うう……」

 全身を強打し、喘ぎながら体を起こす。

 よくもやりやがったなっ、と罵声を飛ばそうとして、俺は止めた。そこにいたのは、魔王ではなく“俺”だったから。

 俺は弁当を片手に俺――――猫の姿となった俺――――を見下ろしながら、眉根を上げる。

「おおっ。目線が大分高い」

「おま……」

「久しぶりに体を借りるな。少し背が伸びたか」

「おま……」

 あまりのことに言葉を失う俺をひょいと抱っこすると、

「おぬしが苦悩する高校生活とやら、しっかりと味あわせてもらおう」


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