表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/5

四 マンション

 水曜の夜も、木曜の夜も、大森パトロール社の事務所に茂は姿を見せなかった。夜だけではなく、昼も茂はいつもいるべきところにはいなかった。

 まだ暗い空は晴れてはいるが不穏な湿った空気が漂う金曜日の未明、街の中心部にある高層マンションの正面入り口から一本脇道に入ったところにある小さな駐車場に、一台の軽自動車が停まっていた。

 運転席には明るい茶髪の健康そうな小麦色の肌をした若い女性が、隣の助手席にはそれと少し似たイメージの青年が、それぞれに時計を見てしばらく黙っている。

 和泉が、茂のほうを見て、穏やかな口調で言葉を出した。

「お仕事の内容は極めてシンプルですし・・・打ち合わせ通りに、やっていただければ、特に問題はありません。ただ常に、これが、テストを兼ねているということを、心に留めておいてください。」

「・・・和泉さん。」

「なんですか?」

「和泉さんが、上まで一緒に来られるのは、無駄なリスクではありませんか?」

「そうですね。はっきり言って、監視役を兼ねています。ごめんなさい。」

「俺が、途中で裏切ったりしないように、ということですね。」

「ええ。我々は、裏切者を・・去る者を、追うことも制裁を加えることもありません。ただし、業務途中でそうした行為があった場合、その者の無事の逃走だけは、積極的には支援できなくなります。このこと、覚えておいてください。ご自身の安全のために、途中の裏切りは極めてデメリットが大きいことであると。」

「そして、もうひとつ、ありますね。」

「・・・・・」

「このマンションの警備を請け負っているのが、俺の同僚だから。・・・大森パトロール社が警備しているから、ですよね。」

「・・・・・」

「そこまで心配されなくても、大丈夫です。俺は新人だから誰も知り合いではないし。それに、そんなことで俺は仕事がやりづらいと感じる程度には、初心じゃありません。」

「そうですね。」

 和泉と茂の装着しているインカムに、酒井の楽しそうな声で、スタートの合図があった。

 先にマンション内に入っていた板見と酒井とが、茂と和泉をオートロックの二重の入口の内側まで案内する。二台のエレベーターに別々に乗り込み、茂と和泉は最上階の三十階へ向かう。

 板見はそのまま、第一のオートロックの内側にある無人のコンシェルジュ・デスクへ向かう。

 そして茂と和泉は、最上階の三十階に三部屋しかない広いマンションの、そのうちの一室のドアの前まで来て、簡単な道具を取り出した。必要な作業を終えると、階段室の目立たぬ一角で、あとはひたすら待ち時間となる。

「手際がいいですね、河合さん。」

「そうですか。」

「大森パトロールさんの新人教育は、とてもしっかりされているようですね。」 

 茂は表情を変えない。


 朝日が昇りその高さを増してきたはずだが、雲に遮られまだ朝靄の続きのような空が広がっている。午前八時四十五分、余湖山史江は、身支度を済ませ、いくつもあるクロゼットのひとつの、奥の引き出しから、用意した封筒を取り出した。マンションの玄関にはすでにいつもの会社のタクシーを呼んである。

 あれから何度、携帯電話をチェックしたことだろう。ついに、着信はなかった。それが安堵であるようでもあり、そして同時にあきらかに、失望でもあった。

「行ってくるわね。」

 ケージの中の、白い二匹の猫に向かって手を振る。外出するときはいつもこうしている。いつだったか、地震のときにマンションの管理人が頼んであったとおり猫を助けにきてくれたのだが、マンションの部屋が広すぎてみつけるのに大変な時間がかかったことがあるからだ。


 酒井がインカム越しにたいくつそうな声で無駄話をするので、板見は閉口して抗議した。

「酒井さん、おしゃべりには極力おつきあいしますが、今の状況を考えてください。万一、住人や通行人に聞かれたら・・・」

「すまんすまん。ほら、もうすぐ予想時刻や。そろそろ和泉からも発言があるやろ。」

「その和泉さんと、それから河合さんのお仕事の邪魔にもなってるんですよ。」

「はいはい。」

 インカムの声は関係者四人に常時筒抜けである。

 酒井は、河合に聞こえていることがわかっていて、わざとしゃべっている。和泉も板見もそのことがわかっていたが、仮にも緊張感ある業務の現場で、引き続きリクルート活動に余念がない酒井のゆとりには、まだまだついていけない自分たちを実感するほかなかった。

「河合さんも、聞こえてますよね。」

「はい。」

「今日は、阪元探偵社のポリシーを、実感してほしいんですわ。手紙ひとつ処分するのに、普通は四人も動員しまへん。」

「そうですね。せいぜい二人で、凶器を持って部屋に押入り、強奪するか、あるいは」

「あるいは、ちょっと乱暴な奴らやったら部屋ごと燃やして、入れ物を特定してしまいますわな。その部屋にあるということさえ、わかってたら。」

「はい。」

「でも我々はね、ターゲット以外の、一般の皆様に、なるべくご迷惑をおかけしない主義なんですわ。」

「はい。」

「こういう高級マンションは、警備システムもご丁寧にできてはる。しかも警備は大森パトロールさんやしね。マンションのドアも、勝手に開いたら警報。部屋の中にも、非常を知らせるボタンがありますわ。無粋なやり方したら、マンション中の、関係ない善男善女さんたちを、お騒がせしてしまいます。しかも・・・」

「マンションのどこに手紙を隠してあるか、たとえターゲットを脅迫しても、探すのに手間取る可能性も高い。」

「そうですわ。こうしたことを考えたら・・・」

 マンション最上階の三十階にある余湖山史江の部屋のドアが、がたっという音をたてた。しばらく静かになり、再び、今度は続けざまに、がたがたがたっと振動する。

 中から、小さく、女性の声がする。

 インカムから今度は和泉の低い声がした。

「板見さん、準備お願いします。コンシェルジュは遠ざけられていますね?」

「はい。」

 酒井が、楽しそうに続ける。

「・・・こうしたことを考えたら、全部、ターゲットにやっていただくのが一番ということに、なりますわな。」

 板見の声がインカムから届く。今度は仲間に向けたものではない。

「はい、コンシェルジュ・デスクです。・・・はい、余湖山さま、おはようございます・・・どうされましたか?・・・・・」

 コンシェルジュ・デスクのガラス窓から見える空は、さらに暗くなり、遠くから雷鳴が聞こえ始めた。

 板見の声が続く。

「・・・わかりました。すぐに作業員を行かせます。ええ、まれにありますよ。申し訳ございません。緑の作業帽を被った、うちの関係会社の常駐の者ですので、ノックしましたらご指示ください。」

 三分後、板見からインカムにゴーサインが入った。茂は緑の作業帽に白いマスクをつけ、余湖山の部屋のドアをノックする。

「コンシェルジュ・デスクからの連絡がありましたので参りました。こちらのお部屋ですね?」

 部屋の中から女性の声が答えた。

「ああ、そうです。いったいどうしたのかしら・・・・押しても引いても、全然だめなのよ。」

「ごくまれにですが、このタイプのドアロックでは起こる場合があります。余湖山さま、お急ぎでいらっしゃいますか?」

「急いでいるわ。今からどうしてもでかけなきゃならないの。」

「では、直ちに作業しますので、ドアから少し離れてください。」

 茂は、数時間前に自分で装着した、ドアが開くのを防ぐ留め具を、少し大きな音をたて、二~三分かけて取り外した。器具をそのままドアのキーボックスに当て、再度部屋の中に声をかける。

「余湖山さま、もう一度開けてみてください。」

 ドアが内側から、外開きに廊下に向かって開き、外出の準備をした黒髪の中年女性が現れた。地味だが高価そうなスーツを着て、ブランドものの大きめのバッグを抱えている。笈川比沙子より若く見えるのはややふくよかな体型のせいかもしれないが、顔立ちも、余湖山のほうがはるかに美しかった。余湖山は安堵の表情で扉と茂を交互に見た。

「ああよかった」

「鍵は取り替えたほうがよいですね。あ、すみません、ドアの警報を解除していただけますか?」

「ああ、そうね。」

 余湖山が玄関ホール脇のタッチパネルまで行き、操作する。

「どうもありがとう。私、急ぐんで、鍵の取り換えは改めてお願いします。今日はドアチェーンでしのぐわ。」

「行先は、雑誌社か、郵便局ですか?」

「・・・・?」

 瞬時に近づいた茂の両腕が、余湖山を抱きかかえるようにその背後に回り、魔法のようなスピードで余湖山の両手を後ろ手にビニールテープで拘束していた。

「すみません、失礼します」

 そのまま両足首も縛られてようやく何が起きたか理解した余湖山が、床に座り込んだまま声を出そうとしたとき、やはり白いマスクをした和泉が音もなく玄関に足を踏み入れ、銀色に光るバタフライナイフをターゲットへ向けた。

「しばらくの間、お静かに願います。我々、こちらを・・・・いただきたいだけですので。」

 和泉は薄いゴム手袋をした左手で、余湖山のバッグの中の封筒を指差した。その後ろで、玄関ドアが低い音をたてて閉まった。

 余湖山が体を小刻みに震わせながら、横に片膝をついている茂と、目の前に立っている和泉とを交互に見る。

「あなたたち・・・・手先なの・・・?・比沙子の、手先なの・・・・?」

「信じられないかもしれませんが、そうではありません。でも、そんなことは、どうでもよいことですね。」

 和泉が穏やかに笑った。

 茂がやはり薄い手袋をした手で、余湖山のバッグから封筒を抜き取った。そのまま立ち上がる。

「こちらを、いただくことで、多くのかたが救われます。どうか、おゆるしください。」

 取り出した小さなナイフで封を開け、中を確認する。和泉がライターを取り出すと、玄関ホール奥の一番近い部屋に入り、バルコニーに出るガラス戸をひとつ開け、さらにキッチンの換気扇のスイッチを入れる。万一にも火災報知器の発動を防ぐためだ。

 余湖山の声のトーンが下がった。

「比沙子じゃないわね。」

「・・・・?」

「たしかにこれは、比沙子の命令じゃないわ。」

 その声は、ようやく物事を冷静に考えられるようになったことを示すように、静かでなおかつ芯の強いものだった。

「比沙子は、あの三回の脅迫電話が、私からのものだと、よく理解していたはず。だから私は、比沙子からの連絡を待った。」

「・・・・」

「連絡はなかった。比沙子は、三十年かかった私たちの結論を、出すことに、同意したのよ。彼女以外の全員が反対したとしてもね・・・・全てを公開することに。私には、わかった。」

「・・・・」

 キッチンから戻ろうとした和泉が、異様な気配に気が付いて玄関ホールを凝視した。

 茂が、立って封筒を手にしたまま、そのまま動けずにいる。

 茂の記憶の中に、比沙子氏の言葉が蘇る。

・・・・「いいえ、大変なことなど、なにもありません」・・・・新幹線の中で、国旗を引き裂いた酒井に向かって、言った言葉。

・・・・「お恥ずかしいことですが、事実です。わたくしは、自分が身ごもったことを書いて、亡夫に、決意を迫ったのですから。」・・・自らの醜聞を、赤裸々に語った言葉。

・・・・「それに光男、悪いことをした証拠もない人を、勝手に監視するのは、悪いことですよ」・・・監視業務を、してほしくないという言葉。


 茂の手から、封書が滑り落ち、玄関ホールの大理石の床の上に落ちた。

 窓の外から、雨の音とともに、次第に激しくなる雷鳴が聞こえている。

 すぐ近くにいる和泉が、叫びたいのをこらえて、インカム経由で低い声で茂を促す。

「河合さん、どうされたんですか?早く手紙を・・・」

「・・・できません。」

「河合さん!」

「本当に、すみません。」

 茂が、もう一度床に片膝をつき、顔を俯けてうなだれた。驚いた顔で、余湖山が茂の顔を見た。余湖山に、茂がかすれた声で、話しかけた。

「俺は、手紙を燃やすことが、多くの人を助けるために不可欠なことだと思っていましたし、今も、思っています。・・・でも、・・・守られるべき人が誰なのか。本当に、本当の意味で、守られるべき人は、誰なのか。そのことが、俺は、結局わからない・・・。」

 和泉がたまりかねて玄関ホールに駆け込み、手紙を拾った。そのとき、余湖山が茂の脇をすり抜けて、タッチパネル下の赤い警報ボタンを、額をぶつけるようにして押下した。

 部屋中に警報音が鳴り始めた。

 茂は片膝をついて座ったまま動かない。余湖山は、警報ボタンの下に座り込んだまま、再び茂のほうをじっと見ていた。

 ドアを大きく開けて、酒井が入ってきた。和泉から封書を受け取り、自分のライターで、火をつけた。

 手紙が、捻れるように燃えつき、黒い塊になって、玄関ホールの床に落ちていった。

 インカム越しでない、大きな声で酒井が茂に向かって言った。

「一般用エレベーター三台はこの階で足止めした。業務用エレベーターで降りる。階段は二か所あって閉鎖は無理や。まもなく警備員が上がってきますで。まだ今なら、間に合います。手荒なことせんでも逃げられます。この程度やったら我々の寛大な上司は許してくれはるでしょう。一緒に来てください。新人さん。」

 和泉と板見は息をのんだ。茂の行為は明らかに”業務途中での裏切り行為”である。この場合、茂を置いて他の者だけが逃走することが、正しい。

 茂は、酒井を見上げ、そして、首をふった。

 酒井は、一瞬唇を噛み、そしてその数秒後にようやく、この部屋にいた人間たちの中で最初に、バルコニーのある部屋の人影に気が付いてそちらを見た。

 人影はバルコニーから窓のカーテンを持ち上げるようにして部屋に入り、こちらを見て、微笑んでいた。

 玄関ホールから、酒井が呼びかける。

「大森パトロールの、メガネの警護員さん。こんなところで、なにしてますねんな」

 バルコニーから部屋に入ってきていたのは、高原晶生だった。

 ライダー用ヘルメットを被り、雨で全身ずぶ濡れになっている。開いた窓から、激しい雷鳴が室内に轟く。

「窓を開けておいてくださり、ありがとうございます。おかげで、破る手間が省けました。」

「いつからそこにいはったんです?お人が悪いですな。」

「窓を開けていただいてすぐですよ。それにしても阪元探偵社さん、相変わらず今回も、見事なお手並みですね。」

「それはおおきに。」

 茂は、目の前の部屋の奥に立っている先輩警護員の姿が、本物だとはにわかに信じられず、ぼんやりとその姿を見つめていた。

 酒井はいつもの興味深げな視線に戻り、改めて高原の顔を見る。

「どうやって、入ってこられました?いやそれより、今日のこと、なんでわかりました?」

「ここは三十階つまり最上階ですから。屋上からだと、すぐなんですよ。そして今日のことは・・・考えれば、わかることです。○月○日。脅迫犯は、自らのダメージを覚悟しているとはいえ、少なくとも秘密保持そして確実な実行のため、共犯者はつくらないでしょう。ひとりで行動するということです。その当日に、自らの手で、持ち込むなり発送するなりするはずです。ですから、必ず自宅に手紙はあります。そして手法は、あなた方の組織のポリシーを考えれば、わかります。最も、他の関係のない人間たちへの影響が少ない方法を選ぶでしょう。そうなれば、出かけ際を狙うとしか、考えられません。」

「その予想、大当たりですわ。兜を脱ぎます。そしてそれ以上に、兜を脱ぐのは・・・」

 酒井は楽しそうではない笑い方をした。

「・・・それは、あんたが、我々の予想を裏切ったことですな。まさか大森パトロールさんが、同僚が守っているマンションに住居侵入しはるとは、夢にも思いませんでしたで。」

「これ以上は侵入しませんよ。」

 茂のほうを見て、高原が恐ろしい大声でどなった。

「おい、そこの新人警護員!」

 茂ははっとして、高原を見た。

「立ち上がって、こっちへ来い。」

 玄関の酒井とバルコニー際の高原に前後を挟まれた格好になっている茂が、ふらふらと立ち上がり、高原のほうへ足を進め始める。

 高原が、手に持っていたもうひとつのオートバイ用ヘルメットを、茂へ向かって放り投げた。

「ないよりマシだ!それを被れ!そして・・・」

 大きく両手を広げ、後ろ向きに窓からバルコニーへと一歩下がりながら、高原が続けて茂に向かって叫んだ。

「そして、ここにハグ!」

 インカムを投げ捨て、ヘルメットの顎紐をかけながら茂が高原へ向かって走る。高原の右手が大きく弧を描き、茂と入れ違いに、何か光るものが茂の脇をすり抜け酒井の脳天めがけて閃光のように空を切った。

 顔をそむけて避けた酒井の左耳横をかすめ、銀色の細長いものが酒井の後ろの玄関ドア激突し、大理石の床に落ちた。

 京都から新大阪に向かう新幹線の中で、酒井が葛城に向けて投げた、あのダガーだった。柄を先にして投げられていた。

 茂が高原に正面から抱きつくようにし、高原は腰につけたロープの先のカラビナを茂のベルトにつなぐ。

「河合、六秒間だけ、俺に命を預けろ。」

「はい!」

 そのまま高原は、茂に正面から抱きつかれたまま後ろ向きにバルコニーの手すりから飛び降りた。

 茂は、とりあえず目を開けないでいることにした。

 一秒。二秒。ほぼ正確に、スリングロープの巻き取られる音と伸びる音とが、耳の傍で交互に響く。高原は、両手首に装着したスリングロープ二本を交互につかって、マンションの三十階から一〇〇メートル下の地上へ、滑るように降りていった。

 地上に降り立つと、茂のベルトからカラビナ付きロープを外してその手をつかみ、高原は猛スピードで脇道へ駆けこんだ。見慣れぬ車が待っている。高原に促されて後部座席へ乗り込む。運転席にいたのは、葛城だった。二人が乗り込むなり車が発進し、激しい雨の中を、裏道から静かにマンションを離れた。

 後部座席のびしょ濡れの二人に、運転しながら葛城が、助手席に置いてあったタオル二本を後ろ手に手渡す。

「晶生、相変わらず、スリングロープを使わせたら世界一だな。」

「ふふふ、ロープだけじゃないよ、俺が世界一なのは。」

「この雨の中、一度もフックのコントロールを誤らなかったみたいだね。」

「当たり前だ。」

 茂は高原にタオルを頭からかぶせられて、ようやく我に返った。

「高原さん、葛城さん・・・。」

 ヘルメットを脱ぎタオルで顔をふきながら高原が茂のほうを見た。

 茂は前を見たまま、頭を垂れるようにして、うつむく。

「助けに・・・俺を、助けにきて・・・くださったんですね・・・・・・俺は、あいつらのところへ、行ったのに・・・俺は・・・・」

 顔がさらに下を向き、くしゃくしゃになった顔の、両の目から涙が止め処もなく流れだす。膝の上に涙の滴があとからあとから落ちる。

 高原が複雑な表情をしながら、茂の頭に手を置く。

「泣くなよ、河合。」

「すみません、すみません・・・・・俺は、高原さんと葛城さんの、気持ちも知らずに・・・・俺は生意気なことばかり・・・」

「気持ちなんてのはさ」

 タオルの上から右手で茂の頭をぐしゃぐしゃにしながら、高原が言った。

「わからないのが、あたりまえなのさ。皆、そうじゃないか。」

「そうかも・・・しれませんけど・・・・」

「それに河合、お前は、土壇場で、俺たちのことを、考えてくれたんじゃないか?」

「・・・・」

「さっきマンションで、どうして、手紙を燃やさなかった?」

「比沙子さまが・・・クライアントが・・・それを望まないのではないかと、急に思えたからです・・・・」

 さらに大粒の涙が茂の鼻先をつたって膝に落ちていく。

 高原が、運転席のほうを見る。

「おい怜、さっきから黙っていないで、メイン警護員として何か言え。」

 葛城は、前を向いたまま、そして少しためらった後、少し小さく聞こえる声で言った。

「望まないと、なぜ、思われましたか?茂さん。」

「・・・確信はありません。ただ、望んでおられない可能性があると、思いました。これまでの、クライアントのご様子を、全体を、考えると・・・。」

「はい。」

「それに、もっと大事なことは・・・今回の”攻撃”が、違法なものではない、そのことが、意味するのは・・・そして同時に、クライアントの意思が明確でないこと、それはもしかしたら、真に合法なことで、友に破滅させられることが、本人の望みである可能性さえある。だとするなら・・・」

 高原が、静かに微笑んだ。茂は、タオルでごしごしと涙を拭きながら、続ける。

「だとするなら、結局、我々は、何かを判断すべきではない、ということです。真に、クライアントの意思とか、・・・そう、自由とかを、尊重したいと思うなら。」

 葛城が再び口を開く。声がさらに小さく聞こえるが、明瞭さは増している。

「それでも・・・茂さん、手紙が燃やされたことで、たくさんの人が、救われました。そのことは、確かに、事実です。」

「はい・・・」

「比沙子さまのお考えも、結局は、誰にもわかりません。」

「はい。」

「客観的に考えれば、今回のことは、ほぼ完全に、我々大森パトロール側の敗北です。あらゆる面で、です。」

「・・・・・」

「それでも、私たちと、一緒に来ますか?」

 茂は、バックミラー越しに、葛城の目を見た。それは、京都のホテルのあの中庭で茂を見上げていたときと、とてもよく似た目だった。

 涙が止まった両目をしっかり開いて、茂は答えた。

「はい。俺は、高原さんや、葛城さんに、ついて行きます。」

 高原がもう一度茂の頭をぐしゃぐしゃにして、笑った。

「それはつまり、全然この先も、答えが出ないっていうことだよ。いいんだね?」

「はい。わかっています。」

「あきらめられない人間にとって、それは結構、つらいことだよ。」

「はい・・・」

 茂は目も鼻も真っ赤になった顔で、笑顔になり、高原の顔を見た。

「・・わかってます。」




 高層ビルの一室にある事務所で、板見から一報を聞いた吉田は窓から外を見下ろしながら、部下の帰りを待った。雨は止んでいるが、まだ外の空気が水を含み揺らいでいる。

 最初に事務所に帰ってきたのは、板見と和泉だった。戻るなり、和泉が吉田に詫びた。

「申し訳ありません。一番の目的を、達成できず・・・。」

 鼈甲色のメガネの奥の、穏やかな目を和泉に向け、吉田は「まずコーヒーでもお飲みなさい。」と言って先に応接セットのほうへ行った。

 板見が三人分のカップを持って最後にやってくる。

 地味な白いブラウスに地味なタイトスカートといういつもの姿で、セミロングの髪が額や頬を包み込むように覆っている吉田は、見たところ何の特徴もない平凡な容姿の女性だ。しかし、板見と和泉の様子は、彼女がふたりにとって特別で非凡な存在であることをよく表している。

「お客様の獲得に成功したこと。そのご依頼内容を、途中経過はともかくとしても、完遂したこと。まあ、最低限の成果は出たとはいえる。」

 静かに吉田が言い、板見と和泉がソファに浅く腰掛け、恐縮しながら聞いている。

「ただ・・・大森パトロールのあの新人警護員さん、もう少しのところだったと思うと、残念ね。」

「吉田さんは、成功率は低いだろうとおっしゃっておられましたが、成功した場合のメリットは計り知れない、と、今回わたくしにご許可をくださいました。せっかくチャンスをいただきましたのに、・・・・悔しいです・・・。」

 和泉の顔が青ざめている。

「そうね。私も、ちょっと悔しいもの。」

「吉田さん・・・」

「でもね。今回一番悔しい人は、たぶん・・・」

 事務所の扉を大きく開けて、酒井が入ってきた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ