二 京都
翌土曜日の朝、笈川比沙子の自宅へ葛城が到着すると、門の脇に、既に茂が待っていた。
「おはようございます。」
「おはようございます、茂さん。」
タクシーが既に門の前に待っており、インターホンから笈川光男氏の声がする。
「今、行きますので。少しお待ちください。」
クライアントを待ちながら、葛城は、茂の言葉数が少ないことに気がついた。
「茂さん、体調が悪いですか?もしかして」
「あ、いえ、そんなことは・・・。そうではなく・・・」
「・・・?」
葛城が、常人離れした美しい両目を少し大きく開いて、茂の顔を見る。茂はすんでのところで夕べの出来事を全部話してしまうところだったが、思いとどまった。
数分後、白髪の女性と、中年男性が玄関から階段を下りてきた。比沙子氏と、息子の光男氏だ。比沙子氏はよく整えられた白髪のせいでかなり高齢に見えるが、近くで顔を見ると意外にそれほどの年齢でもないようにも見える。光男氏は比沙子氏によく似た、細見の大人しそうな男性だ。
タクシーは二台呼んである。一台目に、後部座席に比沙子氏を挟んで葛城と光男氏が乗り、二台目は助手席に茂だけが乗る。個人レベルの警護を行う場合の、基本的な位置取りである。それは新幹線でも同様に守られる。グリーン車の最前列窓側に、座席を回して比沙子氏と向き合って光男氏、二列目窓側に比沙子氏、その隣に葛城、そしてさらにその後ろの三列目の窓側に茂が座る。光男氏と茂のそれぞれの隣の席も指定席をとってあり、空席にしてある。
光男氏は、ななめ向かいの葛城に時折話しかける。
「母は、京都は久々なんですよ。本校所在地なのに意外でしょうけれど、現地スタッフがしっかりしてますからね。」
「そうなんですね。」
「今回は設立三十周年式典ということで、本校側からどうしてもと言われましたが、特にこういう状況でもありますし、代理で済まそうかとも思いました。」
「遠出はやはり不安ですよね。」
「でもおかげ様で、安心して出かけることができます。あと一週間・・・何事もなく早く過ぎてほしいです。」
ときどき、窓際の比沙子氏が、息子をたしなめる。
「光男、あまりおしゃべりばかりしているんじゃありませんよ。警護のお邪魔になります。」
早い時間のグリーン車は、乗客はあまり多くない。場が静まり返るたび、茂は、耳のすぐそばで昨日の和泉の言葉が蘇る気がして、その都度強く頭を振って警護へ集中しようと努めた。
・・・・「京都では、たぶん、もう少しきちんとしたご挨拶ができると思います。」・・・・あれは、どういうことなのか。京都での大森パトロール社の警護の目的は、昼前に行われる式典へのクライアントの出席だが、なにかその式典の場で、起こるとでもいうのか。警護時間の空白で。警護員がいない隙に。
社内アナウンスが、京都への到着を告げた。静かに京都駅のホームへ新幹線が滑り込む。一同は光男氏を先頭に、茂を最後尾にして、ホームへ降り立つ。
ホームのかなり先で、迎えに来た学園関係者らの代表らしい二人の中年女性がきょろきょろしている。光男氏は彼女たちに手を振る。
光男氏が笑って葛城を振り返る。
「もう、○○号車だって言ってあったのに、あんなところで待って・・・」
しかし葛城の顔は、光男氏を見てはいなかった。茂は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
一瞬の隙に、比沙子氏が姿を消したのだ。
どこへ?
目の前のエレベーター、小型店舗、階段、瞬時に目を配った茂の左手を、葛城が強くつかんだ。
「えっ!」
葛城は茂を無理やり引っ張るようにして、扉が閉まりかけた新幹線へ再び飛び込むように乗り込んだ。
光男氏が振り向いたときは、新幹線はゆっくりとホームを滑り出していた。さっきまで座っていた車内の様子は、窓のブラインドが下ろされているため見えなかった。ホームに残された光男氏と二人の学園関係者は、何が起こったのか理解するまでにあと1分程度を要した。
閉まった扉に挟まれた髪の毛を必死で引っ張って外し、茂は葛城の後についてグリーン車の車内へ戻ろうとしたが、自動ドアのはずの扉が開かない。
車内の光景が、ドアのガラス窓越しに、葛城と茂の目に入ってきた。
乗客は、誰もいない。いや、一人だけ、見える。向かって右側、こちらから二列目通路側の席の、通路側の肘掛に、長身の男性がスツールにでも座るように腰かけていた。服装は普通のプライベートな旅行者のそれであるが、不審な点が三点あった。サングラスタイプのスポーツゴーグルのために、目がほとんど隠れていること。両手に、緋色の旗のようなものを持ち、反対側の席に向かって広げて見せていること。そして、無精ひげに囲まれ煙草をくわえたその口元が、楽しくてたまらないというように笑っていることだった。
茂たちには見えなかったが、無精ひげの男の視線の先には、もとの窓際の席に戻った笈川比沙子氏が座っていた。
男は比沙子氏に話しかけていた。
「すんまへんねえ。俺は、交代した警護員やありまへん。」
「・・・・では、誰ですか?」
「ちょっと、ごあいさつに伺った者です。」
緋色の旗は、校旗だった。そこに、○月○日、と日付が黒く書かれている。比沙子氏がわずかに顔色を変えた。
男が、ゆっくりと、旗を半分に引き裂いた。同時に、ドアのほうから何かを強打する音がして、最前列の席の上で持ち手がドアを押さえていたスーツケースが大きな音とともに床に落ち、扉が開いた。
次の瞬間、葛城は男とクライアントとの間に左半身を滑り込ませ立っていた。
男は、感心と興味が混ざり合ったような、楽しそうな表情で目の前の葛城を見た。葛城はゴーグル越しにわずかにうかがい知れる、男の不敵な目を見返す。
「グリーン車は、禁煙ですよ。」
「それは失礼。」
ゆっくりと床に両足をつけて立ち上がり、葛城のほうを見たまま、男が煙草を肘掛の灰皿へ押し付ける。葛城が身構える。茂も援護の態勢を整える。
男はさらに楽しそうに、笑った。
「そう慌てなさんな、大森パトロールの葛城さん。」
「あなたは、どこの誰です?」
「なんでそんな怖い顔しますねん?俺、なんも悪いことしてまへんで。ただの通りすがりの、旅行者や。ちょっと退屈やったから、このオバはんと面白い話したかっただけですがな。」
「扉を開かないようにして?」
「ん?あれえ、おかしいなあ。新幹線が揺れて、スーツケースが倒れてもうたんやな。」
男は葛城の顔から目線を外さずに、その後ろにいる比沙子氏に話しかけた。
「おばはん、ほな、なんか邪魔が入ってもうたんで、これで失礼しますわ。でもなんか、おばはんも色々、大変そうでんな。」
比沙子氏が座ったまま口を開いた。
「いいえ、大変なことなど、なにもありません。」
数秒の沈黙のあと、くっくっくっと男がさっきとは違う笑い方をした。
改めて、今度は葛城に向かって、男が言った。
「それにしても、やっぱり大したもんですな、大森パトロールさん。まさかもう一度乗ってきはるとは、思いませんでしたわ。」
「車内へ戻ったとしか、あの場合考えられませんから。」
ひゅっと短く口笛を吹くと、男はそのまま車両後方、つまり葛城と茂が入ってきた扉とは反対側の扉へ向かって、ゆっくり歩き始めた。
ドアの少し手前まで来て、振り返り、首を少し傾けておどけた表情をする。
「ああ、そう、さっき葛城さん、お尋ねでしたな・・・俺が、どこの誰や、って。」
葛城は黙って男のほうを見つめている。
「もしかしたら・・・お宅のお客さんを狙うとる人間の、使いかも、しれまへんな。もしもそうやったら・・・・・」
男の、薄い皮手袋をした右手が、ゆっくりと上がり、胸の前から左肩の前へと、位置を変える。
「気いつけはったほうがええですな。ケガするかもしれまへんで。・・・次回は、ね。」
左肩の前から、流れるようにその右手が弧を描いた。何かが弾丸のように空を切り、とっさに左側によけた葛城の頭がそれまであった場所を貫いて、細い銀色のものが前方の扉のガラス部分にぶつかって、床へ落ちた。
細く華奢につくられた、ダガーだった。刃ではなく柄のほうを先にして投げられていた。しかしそれでも、葛城の右耳の横をかすめたとき、その刃が切り落とした髪の毛数本が、宙を舞い床へ落ちていった。
葛城が再び態勢を整えたとき、もう男の姿はなかった。
「葛城さん!大丈夫ですか?」
茂が駆け寄る。
「大丈夫です。」
「追いましょうか?」
「無駄でしょう。まもなく新大阪に着きます。終点です。みつけることは、不可能でしょう。」
上りの新幹線が京都駅に到着し、電話連絡してあった笈川光男氏と学園関係者に笈川比沙子氏を引き合わせると、式典後に今回のことをホテルに説明に行く旨約束して茂と葛城はいったん警護業務を終えた。
自分たちが宿泊するほうの、駅前のホテルに歩いて向かいながら、茂は葛城が何も言わないので話しかけることができずにいる。不思議なことに、昨夜あの茶髪の可愛い女性から聞いた不穏な話とさっきの出来事とがどう考えてもつながっている、その事実よりも、目の前の葛城がずっと押し黙っていることのほうが、茂を不安にさせていた。
ホテルのフロントで茂がチェックインの手続きをして、二人が同じフロアの別々の部屋へ入るときも、向かいの部屋のドアを開けた葛城は茂に「では、一時になったら出ましょう。」と言っただけだった。
土曜日の昼時は、雑居ビルに囲まれた狭隘な三角形の公園にも、子供の姿が見える。少しだけその前で立ち止まった後、再び表通りに戻り、通りに面したビルのひとつに入る。英一は初めてアポイントをとって大森パトロール社の事務所へと向かっていた。
二階入り口のインターホンを押すと、英一とほぼ変わらぬくらいにすらりと背の高い、メガネをかけた好青年が出迎える。
「いらっしゃいませ、三村さま。」
「急にお電話してすみません。」
「いえいえ。さあ、どうぞ。」
高原が英一を応接室に案内し、ソファに座るよう進め、テーブルの上のグラスふたつにピッチャーから麦茶を注ぐ。
「腕の傷はもう大丈夫なんですか?」
「ありがとうございます。ずいぶん派手に血が出たんで、切った自分もびっくりしましたけどねー。あっはっは。」
「聞いていたこちらもびっくりしましたよ。」
高原は、人柄の良い科学者のような、理知的なのに愛嬌のあるアーモンド形の両目で、ちょっと顔を傾けながら目の前の映画俳優のような美青年の顔を見る。メガネの奥のその目が、さて今日はなんのお話ですかね、と興味深げに訊ねている。
「電話でも申し上げましたが・・・もちろん、警護のお願いの話ではありません。その点お許しください。」
「はい。」
「河合茂は、今、警護業務をしていますね。おそらくは、葛城さんと一緒に。京都で。」
「なぜそう思われたんですか?」
一応型どおりに高原は尋ねる。
「河合が言ったからじゃありません。あと、葛城さんと一緒、というのは単なる俺の推測です。」
「では残りは誰から?」
「昨夜、聞きました。・・・・前回の警護で、貴方が負傷する原因となった、あの人間たちの、ひとりからです。」
「・・・・・?」
「その前に・・・。今日、三村蒼風樹のところで、彼女から話を聞いてきましたが、そのことからお話ししなければなりません。彼女のことは口外されない約束で、この話を聞いてくださいまか?」
「・・・・はい。」
前々回の警護で、葛城と茂が英一を警護したとき、蒼風樹の依頼で英一を監禁した人間たちがいたことは、もちろん高原も知っている。葛城が瀕死の重傷を負ったこの警護のことは、ひととおり波多野営業部長から内容を聞いていた。
「蒼風樹が知人の紹介で、ある探偵社に相談したとき、そこから説明に来た人間が、言った言葉は・・・こういう感じだったそうです。”お客さまの大切なご親戚を、お守りするには、今ご依頼されているという大森パトロールさんでは、たしかにちょっと不足かもしれません。”」
「・・・・」
「”・・・あの人たちは、どんな場合も、絶対に、違法なことはやらないからです。でも我々は、お客さまをお守りするために真に必要なことであれば、違法なことも実行します。そして、お客さまには、絶対にご迷惑はおかけしません。”」
「・・・・」
高原はもちろん覚えている。前回警護で、守る価値もないようなクライアントをなぜ守るのかと聞かれ、自分が英一に言った言葉・・・「我々は自分たちの責務は、なにかを判断することだとは思っていません。」「一人ひとり、正義は違うということです。ですから我々が基準にするのは、法であり、それ以上も以下もありません。」「違法な攻撃の被害に遭いうる人間は、すべて我々のクライアントになりえます。そして我々は、クライアントを守るためには、違法なこと以外はどんなことでもします。」・・・。
しばらく黙って高原の顔を見てから、再び英一は口を開いた。
「昨夜、このビルのすぐそばで、河合に、ほぼ同じことを・・・蒼風樹が言われたこととほぼ同じことを・・・言っている人間がいました。」
高原の表情が初めて変わった。
英一は、昨夜自分があの公園で見聞きしたことを、正確に全て話した。
聞き終わった高原は、英一の予想をさらに上回るほど長い間、黙っていた。英一がしかしそれ以上に意外だったのは、高原がやがてなにか合点がいったような顔で、英一の顔を見たことだった。
「なるほど・・・」
「高原さん?」
高原は、一旦自席に戻り、携帯端末を持って戻ってきた。メールボックスを開き、既読メールのいくつかを表示させ、そして驚いたことにそれらをそのまま英一に見せた。
「ご迷惑でなければ、これを見てください。」
葛城からついさっき高原宛てに届いたばかりのメールだった。そこには、京都駅に着いた新幹線で起こったことが、正確に報告してあった。
茂は三十分ほど我慢した後、どうにも不安に耐え兼ね、ホテルの自室から廊下に出ると、向かいの葛城の部屋のドアをノックした。すぐに返事があり、ドアが開く。
「どうしました?」
葛城の表情はさっきよりは少し穏やかになっているように見えた。
「いえ、あの・・・ちょっとお話、いいですか?」
「はい。」
茂の部屋と左右逆だが同じつくりの、狭いが小奇麗なシングルルームは、ベッドだけで部屋の面積のかなりが占められている。茂が部屋に入ると、葛城はちょうど湯を沸かしていたポットで二人分の緑茶を入れて、ひとつを茂に渡してテレビの前の椅子をすすめ、もうひとつを自分が持ち自分はベッドの上に座った。いつもならば茂が何か話があるときはこの後じっと茂の顔を見るところだ。しかし今の葛城は、左足をベッドの上でまっすぐに伸ばし、右足のひざを立てその上にのせた右腕で湯呑を持ち、湯呑の縁あたりを見つめたままじっとしている。
茂は、思い切って口を開いた。
「今日、新幹線にいたあの男、俺たちの前々回の警護のとき、英一を監禁して拘束していた奴です。」
「・・・・」
「はっきり覚えています・・・今日はゴーグルをしていましたが、見間違いの余地はありません。そして葛城さんも、あのマンションの廊下で、声だけはお聞きになってますよね。」
「・・・はい。覚えています。」
「ということは、おそらく、前回警護で高原さんのクライアントを危険に曝し、高原さんを負傷させた人間たちとも、同じ奴らということです。」
「そうですね。」
「なんとかして、奴らの正体をつきとめることはできないんでしょうか。あんなに露骨に、挑発してきている、あいつらの。」
「挑発。まさに、そうですね。」
葛城は茂のほうを見ずに少し顔を曇らせた。
「葛城さんや、高原さんの邪魔ができるような奴は・・・今までいなかった。奴らのほかには。でも、それはつまり、奴らならこの先も・・・」
「そうです。」
小さく鋭い声で答え、葛城が茂のほうを見た。茂は、葛城の表情を、なんと理解してよいか分からずその目を凝視した。穏やかさに包まれた、かすかな苛立ち、不満、そして・・・少しの自虐が、しかし確実に混じっていたことが茂を驚かせた。
高原が、ソファにもたれ、ため息交じりの微笑みを漏らす。
「後から考えれば、何も特別なことはしていない・・・ちょっとしたことしかしていない。それでも、厳然たる事実は、奴らが大森パトロール社の敏腕警護員を欺いたということです。」
「たしかに、後から考えれば、ですが、非常に普通というか・・・」
「普通で、そして古典的な、手法ですね。奴らは比沙子氏に、息子の光男さんのメールアドレスからの発信を装った偽メールを、数日前から毎日送っていた。新幹線の中にも、そして京都駅のホームにも襲撃犯が潜んでいる可能性を考え、京都で降りるふりをして、自分だけ新幹線に戻るようにと。自分が頼んでいるもう一人の警護員が車内で待っているからと。」
「そういうことって、意外に信じてしまうものなんですね。」
「やり方によりますけれどね。息子さんの言うことは、わりと聞いてやるタイプのお母さんなんでしょう。そういう、相手の特徴を細かく考えた上での、シンプルな仕掛け。そして・・」
「京都駅のホームに降りたところで、警護はいったん終了する。そのほんの少しの心の隙を、最大限についた。」
「そうです。大胆で、かつ、芸が細かい。京都駅のホームで待つ学園関係者に、奴らのうちの誰かが、到着車両の場所を誤って認識させた。ホームに降りた一行の注意をひくとともに、学園関係者から一番みつかりやすい比沙子さんを彼らの目から遠ざけた。さらに、グリーン車のあの車両の、京都駅以降の座席を全部買い占めた上で検札係の足止めをしたなり、あるいは買った席を直前にリリースするなりして、あの瞬間あの車両を無人にしたんでしょう。・・・こういうことを、たったひとつの目的のために、やったということですね。」
英一は、息をのむ。
「たったひとつの・・・・」
「クライアントの心理と、警護員の心理とをよく考えた、しかけです。完全に欺かれました。」
葛城はさらに顔を曇らせる。
茂は心配になり、言葉を挟む。
「でも、葛城さんは完全には欺かれませんでした。ちゃんとそのしかけに気付いて、車内に戻られました。」
「タイミング的には完全にアウトです。もしもあの男が本気でクライアントを狙っていたら、簡単にやられていました。」
「・・・・あの短時間で、あの男は窓のブラインドを降ろして入口のドアをスーツケースで固定した・・・わけですね・・。」
「そしてもっと恐ろしいことは、彼らが今日のことを準備するその時点で、もう、クライアントを脅迫している犯人をつきとめていたことです。」
「・・・・あの、日付の入った、校旗ですね・・・」
「脅迫犯の指定の日付でした。そしてそれを校旗に書き、さらに二つに裂く、このことが、クライアントに犯人が誰か認識させると、彼らは知っていた。つまり彼らが犯人を知っているということです。」
「どうして・・・」
「必要な作業は、単純です。ただその量が、天文学的です。クライアントの経歴を全部調べ、膨大な可能性の中から最後におそらく学校設立の経緯に焦点をあて、ある人物にたどりついた。そして脅迫の動機と犯人の意図を分析した。長くともわずか二週間程度で、これらの作業をやってのけた。」
「なんのために、そこまで・・・・」
言いかけて、茂はぎょっとして言葉を詰まらせた。葛城は茂の様子に気づき、その顔を見た。
「茂さん?」
「いえ・・・その、そんなエネルギーをかけてまで、なにをしたいのかと・・奴らは。」
「普通に考えれば、我々からクライアントを奪い、自分たちが受注しようとしている、ということになるのでしょう・・・。」
「しかしそれにしては、先行投資が高くつきすぎています。」
「そうですね。」
「それがなんであるかは、明らかですね。」
高原は抑揚のあまりない言い方で、しかしはっきりと言った。
英一は高原のメガネの奥の理知的な目を、じっと見ていた。高原が言葉を続ける。
「我々への、露骨な威嚇です。それが一番の目的なんでしょう。それはつまり、我々の有能なガーディアンを目の前で欺き、さらにはクライアントを脅す犯人を指し示して見せ、自分たちの存在を、デモンストレーションしたということ。」
「最後に、葛城さんに向かってナイフを投げたのも・・・」
「謀略と、調査の物量的能力と、このふたつだけではなく、実力行使もできる。三つを兼ね備えているという、アピールなんでしょうね。」
「するとこの次は・・・」
「はい。おそらく、クライアントに、接触してくるでしょう。」
約束の時間に、茂と葛城はクライアントの宿泊しているホテルに到着した。ロビーへ迎えに出た光男氏が二人を案内し、広々としたスイートルームへ三人が入ると、部屋着に着替えた比沙子氏がソファから立ち上がって出迎えた。
部屋の中は、花のよい香りが立ち込めていた。大小のおびただしい数の花束が窓下に置かれている。式典のお祝いだろう。
ルームサービスのコーヒーがテーブルに置かれる。光男氏はソファに座るなり、口火を切った。
「わざわざありがとうございます。実は今日の新幹線でのことについては、あの後、母から聞いた話で状況は私もよく把握できました。・・・母がすっかり騙されてしまったために、葛城さん河合さんには大変なご迷惑をおかけしてしまい、申し訳ありません。」
比沙子氏と光男氏は一緒に頭を下げた。
茂と葛城は恐縮して、さらに深く頭を下げる。
「いいえ、あれは我々警護員の、至らなさが原因です。我々のほうこそ、お詫びしなければなりません。」
窓の外は、昼過ぎの強い日差しを遮るものもない、青空が見えている。少し前の、不審な出来事が、まるでフィクションの世界のことだったように、日の光がまぶしい。
しかし、光男氏の青ざめた顔は、彼が新たな問題を、それも重い問題を抱えたことを物語っていた。
「すみません、新幹線の件のご説明をいただくというお約束でしたが、ご足労いただきました機会をいただいて、別のお話をしてもかまいませんか?」
「はい。」
「実はついさっき、ここに二人の・・・女性がみえたんです。」
「?」
光男氏は、言いにくそうにしながら、言葉をつづけた。
「そのとき、その女性たちがここへ訪ねてきたことは誰にも言わないでほしいと言われたんですが・・・・大森パトロールさんを信頼して、お話させてください。」
「はい。」
「その人たちは、結論から言えば我々を守る仕事を自分たちに任せてほしい、と言ったんです。」
茂はこれほど予想通りの展開にこれほどやはりショックを受けてしまう自分に驚きながら、ちらりと葛城の横顔を見た。葛城の表情からはその感情は読み取れなかった。
「・・・・」
「そして、その・・・・」
葛城は端正すぎて今は人形のようにさえ見える目をじっと相手の目に向けながら、相手の話を促す。
「どうぞ、我々のことでしたらお気になさらず、お話になってください。警備会社の守秘義務についても、どうぞご信頼ください。」
「はい、その、・・・ですね・・・。母さん、いいよね?」
「いいわ。」
母親に念のための許可を得て、意を決したように光男氏が話を進める。
「その女性たちは、探偵社のかただそうで・・・。我々が今回の脅迫をきっかけに何社か警護や調査の見積もり依頼をしたんですが、それらのうちのひとつで。我々の希望が第一に警護、第二に調査となっていたけれど、失礼ながらセオリー通り少し調べさせていただいた結果、これは通常の警護で解決する問題ではないと。そして事前調査の結果を見せてくれたんです。その内容はこうでした。・・・・母の、とある、三十年ほど昔の知人がいるんですが、ええ、もう長い間音信不通ですが・・・その人間が、母を、物理的にではなく社会的に傷つけようとしている、というんです。」
「・・・・」
「母への脅迫電話をした際の、通話記録も調べてありました。ぴったり一致していました。」
「・・・・」
「脅迫の動機は、異性関係・・・結婚にまつわることだ、と彼女たちに指摘されました。わ、私の亡き継父が、その、母と結婚する前に交際していた相手だとのことです。・・・母を脅迫している人間は・・・。三十年前のことですよ、でも、母は、そのことを確かに、そのとおりだと、認めております。」
「お心あたりがおありだったのですね。」
「あの日付は、○月○日は、次の金曜日ですが、それは・・・その脅迫犯が継父と母の関係に気づき、継父と破局した日だと。そこまで、調査をしてしまっていました。」
「学園とのご関係もあるのですよね」
「はい。その人間は、母とともに学園づくりを目指した人間で・・・母が学園を設立した後、未来の校長として学園で教鞭をとってもらうつもりだった人だそうです。母さん、全部、あの女性たちの言ったとおりだね?」
比沙子氏は息子のほうを見て、頷いた。
ゆっくり瞬きをして、一瞬瞼を伏し目にした後、再び葛城がまつ毛を上げ相手をしっかりと見た。光男氏だけではなく、比沙子氏の顔も見て、それからもう一度光男氏のほうを見る。
「では、脅迫の言葉にあった、”傷つける”、その手段もわかったのですね?」
光男氏は、床の自分のカバンから、封筒を取り出し、中身を出して茂と葛城に見せた。探偵社の女性たちが持ち込んだものであろう。写真付きの履歴書のような人物情報だった。
「××予備校理事長兼それを経営する(株)△△社長の、余湖山史江。彼女が本気である証拠は、彼女が今年になって急に、会社と予備校での役職を引退したことなんだそうです。そして、つまりそれは、社会的に彼女も一定のダメージを負う覚悟をしているのであると。・・・当時の、余湖山と母とのいきさつを、宇目田学園三十周年を飾るスキャンダルとして公表するつもりなのであると。」
茂はつい口をはさんだ。
「そんな昔の、それもプライベートなことが、この有名な宇目田女学園を脅かすようなスキャンダルになるんでしょうか・・・。」
「有名な、しかも女学園の理事長だからこその、ダメージです。そしてその方法は、当時母が継父に出した手紙・・・それを余湖山が入手したことで二人の関係が発覚したもの・・・その実物であろう、ということです。」
茂は危うくコーヒーカップを取り落すところだった。これはもう、営業活動のための事前調査などといったレベルの話ではない。
比沙子氏は、表情をほとんど変えずに、補足した。
「お恥ずかしいことですが、事実です。わたくしは、自分が身ごもったことを書いて、亡夫に、決意を迫ったのですから。」
確かに、雑誌社に持ち込まれたら、想像するだけで恐ろしい。茂はようやく事態が呑み込めて小さく身震いしたが、葛城の声の調子はさっきからまったく変わらない。
「・・・その探偵社の女性たちは、どのようにして、比沙子さまを守ると、言ったのですか?」
「自分たちに任せてもらえたら、公開される前に必ずその手紙をこの世から消滅させる、と。」
「・・・・」
「そして、依頼主・・・お客様には、絶対にご迷惑をおかけしませんと。彼女たちは、そう言ったんです。」
「・・・なるほど。」
全部話して、逆に少し肩の荷が降りたのか、光男氏は身を乗り出して葛城の顔を直視した。
「大森パトロールさん、私は、その手紙が公開されることを、なんとしても阻止したい。それは、母ひとりのためではありません。」
光男氏は、窓の下のおびただしい数の大小の花束に目をやった。
「母は、まだまだ、学園にとって不可欠な存在です。学園の人間たちは、母を経営上のみならず、精神的な支柱にしているんです。三十年間、母は、学園のためだけに、ほぼすべての時間を使ってきました。母が社会的に傷を負うことは、学園にとって不可欠な人を失うことになります。そして、母のプライバシーのために、母が心血を注いだ学園そのものが傷を負うことにもなります。」
光男氏の表情は、恐ろしいほど純粋で、そして静かな確信に満ちていた。
「しかし私は、今日我々のところに来た、あの探偵社の女性たちに、母を守ることをお願いするのは、なるべくならば避けたいと感じました。あの人たちは、言ったんです・・・絶対にお客様にはご迷惑はおかけしない、ただしその代わり、手段・方法については全てお任せいただきたいと。」
「・・・・」
「これは、つまり、依頼主にも言えないようなことも含めて、彼女たちがあらゆる方法をとる・・・・言い換えれば、手段は選ばない、ということですよね。」
「そうでしょうね。」
「できれば、いくら学園を守るためとはいえ、不穏当なことが行われることは避けたいのも事実です。わがままな望みではありますが・・・。それに、それ以上に、やはり彼女たちを本当に信頼してよいかどうか、確信だってありません。」
「はい。」
「なんとか、大森パトロールさんのお力を、お貸しいただくことはできないものでしょうか。」
「我々の・・・?」
「防止していただきたい・・・・いえ、阻止していただきたいのです。余湖山史江が、手紙を持ち出し、公開するのを。具体的には、彼女の身辺の徹底した監視・・・そのことを、お願いしたいのです。」
光男氏の視線を受け止め、まっすぐにそれを返しながら、葛城はしばらく黙っていた。
次の葛城の言葉を、茂は両目を閉じながら聞いた。
「それは、できません。」
「・・・できませんか・・・?」
「申し訳ありません。」
予想通りの言葉を聞いて、自分がこれほどショックを受けるということに、茂は非常に驚いた。
いや、正確には、予想通り、ではない。「予告」通り、である。
そしてそのショックの理由は、予告が当たったことではなかった。
葛城が光男氏に頭を下げ、もう一度顔を上げた。
「ここまですべてお話くださいましたのに、申し訳ありません。・・・我々にできることは、違法な攻撃からお客様を合法的な手段でお守りすることだけです。」
「この場合は名誉棄損などにあたるかどうかは、確かに、微妙というか・・おそらく犯罪ということには、ならないでしょうね。たしかに。」
「それに光男、悪いことをした証拠もない人を、勝手に監視するのは、悪いことですよ。」
比沙子氏が言葉を挟んだ。
「母さん・・・母さんひとりの体じゃないんだからね・・・。葛城さん、どうしても、無理ですか・・・?」
「はい。どうか、お許しください。」
「・・・・わかりました・・・。急に、このようなことをお願いしてしまいましたこと、こちらこそ、お許しください・・・。」
光男氏が葛城と茂に向かって頭を下げた。
「今お話ししたことは、もちろん、絶対に口外なさらないと約束してください。」
「はい。お約束します。」
答えた葛城は光男氏の次の言葉を待った。もちろん、明日の警護を予定通り実施するかどうか、についてである。
光男氏はそのことに気付いて、茂と葛城を見ながら言った。
「明日の、帰路の警護や・・金曜日までの警護は、予定通りお願いしてよろしいですよね?まだ、彼女たちの話が真実と決まったわけではありませんし。」
「もちろんです。では明日、時間通りに、京都駅のホームでお待ちしております。」
クライアントのホテルを後にし、地下鉄への階段を下りながら茂は横にいる葛城に、京都へ出発する前夜にあの可愛い茶髪の女性から聞いた不穏な話について、打ち明けようと決心した。しかし先に葛城が足を止め、茂のほうを見て言った。
「すみません、茂さん。先にホテルへ戻っていてもらえませんか?夕食までには戻ります。」
「・・・・はい。」
茂は言われたとおり、ホテルの自室へ先に戻り、そしてベッドに寝っころがりながら夕食の時刻までには頭を整理しようと努めた。
葛城はクライアントのホテルのロビーへいったん戻り、フロントで一通りの用を済ませると、近くのカフェに入り、携帯端末からメールの入力を始めた。送信後、驚くような速さで携帯電話に着信があり、電話に出た葛城の耳に高原の急いた声が飛び込んできた。
「メール見たよ、怜。河合は一緒か?」
「いや、先にホテルに戻ってる。」
「怜、今すぐホテルに戻れ。」
「え?」
「河合から目を離すな。すぐ戻るんだ。説明は途中でする。」
「・・・・わかった。」
葛城はカフェの前でタクシーを拾い、携帯電話で通話したまま乗り込んだ。
タクシーの中で高原の話を数分で聞き終わった葛城は、電話を切りすぐに茂の携帯電話をコールした。電話には、誰も出なかった。
ホテルに戻ると、葛城の部屋のドア下にメモが入っていた。茂からのもので、「すみません、夕食、一人で食べてきます。今日中には戻ります」と書かれてあった。
川べりに停めた車の運転席で、和泉は改めて非礼を詫びた。
「先日といい、今日といい、突然のことばかりで申し訳ありません。」
助手席の茂は前を向いたまま黙っている。
「でも、いらしてくださり、ありがとうございます。」
「京都での挨拶とは・・・なんのことですか?」
茂が、和泉に少し似ている琥珀色の淡い色彩をした目を、和泉のほうへ向ける。
「新幹線では、私たちの仲間が、ちょっとやりすぎたようです。興が乗ると悪乗りするタイプの人間で・・・お恥ずかしいことです。」
前を向いたまま和泉が、艶やかで健康的な小麦色の肌によく似合う、香しい花のような微笑を浮かべた。茂は心臓を突かれたように押し黙った。
「そして・・・」
和泉は、ようやく、茂のほうを見た。あの夜と同じ、不穏な光を、わずかに両目に湛えていた。
「笈川さまたちに、聞きましたでしょう?私たちが、今日、あの人たちに話したことを。」
「・・・聞きました。」
「大森パトロールさんが、守れないものが、あります。それは、第一には、”合法な”攻撃にさらされるひと。第二には、”違法な”ことをしないかぎり、守れないひと。」
「そうです。」
「そして・・・笈川さまが、守られるべき人ではないと、誰にいえますか?」
「・・・そうです。」
茂の、葛城ほどではないが和泉よりずっと白い肌をした頬が、さらに青ざめたようにみえた。
和泉は、表情を和らげ、夕暮れが迫った空を指差した。
「今日は、ずっとお天気がよさそうです。このまま少し、ドライブしませんか?」
「・・・・・・」
茂の答えを待たず、車は静かに発進した。
京都の街の少し外れにある静かなホテルの一室で、酒井はヴェランダ際のリクライニングチェアに体を預け、丸テーブルの上の携帯電話につながったスピーカーから聞こえる音声に耳を傾けていた。和泉が車を運転しながら、ときどき茂に他愛のない言葉をかけているのが、明瞭に聞こえてくる。
やがて酒井は、ふと気づいたように、ツインルームのふたつのベッドのうち、入口に近いほうに座っているあまり背の高くない青年が、なにか言いたげにしているので促してやった。
「なんや、板見。なんか質問か?」
板見と呼ばれた、宝石のように大きく硬質に光る目をした青年は、その両目を酒井のほうへ向け、背筋を伸ばして言った。
「まさかとは思いますが、和泉さん、なにか身持ちの悪いことをさせられるわけでは、ないですよね?」
酒井は無精ひげに囲まれた口から、思わず煙草を落としそうになった。が、すぐにその長身を揺らして笑い出す。
「あほか、板見おまえ。恭子さんがそんなことさせるわけないやろ。お前、京都まで来て恭子さんと会われへんかったから、頭おかしゅうなっとんとちゃうか。」
「そうですよね。すみません。」
「まあ、京都駅でも新幹線でもよう働いたから、許したるわ。」
「・・・・酒井さん、気のせいかもしれませんが、吉田さんからの指示以上に、派手な感じでしたね。」
「はははは。・・・って、なにいうとんねん。俺は地味好きなんや。」
車は京都市内から小一時間走り、京都の東北、琵琶湖の西にあるドライブウェイを上っていく。
すっかり日が暮れ、観光シーズンを外れているせいか、すれ違う車もまばらだ。
「私は、仕事で関西に来ると、時間があればよくここに来ます。街中もいいですが、遠くから街を見下ろすのも、よいものです。」
大きなカーブを曲がると、驚くような美しい夜景が広がった。
「それは、大津市です。綺麗でしょう?ここを上がると、下りて京都を見下ろす場所がありますよ。」
ほどなく、車はドライブウェイの途中にある駐車場に入って止まり、和泉が運転席から降り、助手席の扉を開けた。
茂が和泉について歩いていくと、目の前に、暗い木々に囲まれた鮮やかな街の灯が広がった。
「あれが京都市内の明りです。ここから見える景色が、私は一番好きなんです。」
ホテルでクライアントから聞いた話。葛城の表情。今日の記憶が茂の中で街の灯のように混じりあい、混沌とし、しかし目を閉じても瞼の裏に残る光のあとのように全身を包囲する気がした。
和泉の声が、遠くから聞こえるような、穏やかさと圧力とで茂を取り囲み響く。
「私たちは、法に触れることなどの汚い部分はすべて引き受け、お客様のために尽くします。」
夜に冷え始めた空気が、微風とともに辺りに満ちていく。
「そしてエージェントは、組織に命を預けて、全力で働きます。危険は常につきまといます。でも、我々はどんなリスクも・・・犯罪者と呼ばれることも、もちろん・・・厭わずに、働きます。なぜだかお分かりでしょうか。」
冷たい空気が肺に入り、小さく咳き込みながら、茂は和泉のほうを見た。彼女は少しだけ茂の目を見て、また街の灯のほうへ視線を戻す。
「我々が、どんなときも、お客様の利益を絶対に優先し、そのために必要なことを実現する、このシンプルなことへのプライドがあるからです。」
「・・・・」
「そしてもうひとつ。うちの探偵社は・・・我々の組織は、忠誠をつくすエージェントを絶対に見捨てません。しかも、同時に、脱退は自由です。裏切られて困るような組織運用はしていないからです。そして脱退しても裏切り行為をする者はほぼいません。たとえ仕事が失敗し逮捕されても、家族は守られ、本人のその後の生活は保障されます。組織のために働いて倒れた者は、組織が一生見捨てることはありません。」
ホテルの部屋で、酒井が楽しそうに笑い、板見は不審そうにこの関西出身の先輩の顔を見た。
「酒井さん、なにか面白いことでもありますか?」
「いや、そうやないねん。」
「・・・?」
「和泉、ほんまに、本当のことしか言わへんなあと、思ってな。」
「まあ、確かにそうですが。それがなにか・・・」
「こういう当たり前のことを、割とこういう風に丁寧に説明せなあかんというのが、おもろいなあと思うんや。俺らみたいな仕事してるとこって、やっぱり、映画に出てくるようなブラックな組織やと思われるんやなあ・・ってな。」
「確かに、そうなのかもしれませんね。」
「失敗したら殺されるとか、裏切者は消されるとか、組織を抜けることは許されへんとか、そういう非現実的なイメージなんやなあ。あほな話やで。」
「そうですね。・・・・いつか和泉さんがおっしゃっていたことが端的です・・・”上司に命を預けることと、部下を使い捨てにすることとは、まったく違う”。」
「恐怖で組織が保てるのは一瞬や。人を大事にしない組織が、長続きすることもないし仕事でうまくいくことも、絶対にない。」
和泉が茂のほうを再び見た。今度はそのまま目をそらさず、そしてきっぱりと言った。
「うちにいらっしゃいませんか?河合茂さん。あなたはきっと、良いエージェントになれます。」
茂は和泉に少し似ている、色の淡い琥珀色の目を大きく見開いて、長い間和泉の両目を見返していた。
「お返事はすぐにとは申しません。考えておいてください。」
「・・・・・」
「もしもお返事がイエスなら、こちらにご連絡ください。」
和泉は茂に電話番号の書かれたメモを手渡した。
「ただしそのときは、テストを兼ねて一つのお仕事をしていただくことになります。新しく我々の仲間になるエージェントは皆そうです。そして、もしも一両日以内にお返事いただけた場合は・・・・」
茂よりさらに明るい色の目を優しく細め、最後に和泉は言った。
「その場合は、笈川さまをお守りする仕事を、最初の仕事として、やって頂けます。」
夜が更けて茂がホテルへ歩いて戻ってくると、狭いロビーで葛城がソファーに座っていた。
茂は少し驚いたが、すぐに葛城に近づき、一礼して詫びた。
「・・・申し訳ありません・・・勝手に出歩いて・・・。」
「業務中ではありませんから、外出は自由です。ただ、携帯電話はいつでも出てください。」
「はい。」
ようやく茂は、葛城が、クライアントのホテルを出てきたままの服装であることに気がついた。
「・・・葛城さん、もしかしてあれからずっとここで待って・・・・?」
葛城は答えず、茂を促してエレベーターへと向かう。
茂は立ち止まる。葛城も立ち止まり、振り返る。
「あの・・・・葛城さん・・・・」
「・・・なんですか・・?」
「あ・・・・」
二人はしばらく顔を見合ったまま、黙っていた。
そのまま言葉に詰まった茂に、葛城が言った。
「庭に、行きましょうか。」
ホテル入口を出て建物の裏手に回ると、小さいが小奇麗なホテルに似つかわしい瀟洒な中庭が広がっている。吹き抜けになっている上層階のレストランから明りが落ちてきている。
先に立って歩いてきた葛城は、いくつか並んでいるベンチのひとつに腰かけ、立ったままの茂のほうを見た。庭の芝生に埋め込まれたいくつもの明りが、辺りを柔らかく照らし、木々に反射したかすかな光が葛城と茂の互いの表情を辛うじてうかがわせている。
「すみません、こんなことを、サブ警護員の俺がお尋ねしてはいけないということは、わかっています。」
「クライアントの依頼を、私が断ったことですか?」
「はい。うちの・・・・大森パトロールの業務として、どうしてもやっては、いけないことなのでしょうか。笈川さまのような、ああいった依頼に応えることは・・・。」
「いけないというより、我々のできる範囲を、超えている。それだけのことです。」
「もちろん、クライアントの望みをすべてかなえることはできないとしても・・・。監視業務など、一部でも、できることはあるのではないでしょうか。このままでは、確実に・・・」
「・・・確実に、学園は危機に曝されると?」
「はい。」
「そうかもしれませんね。」
そのきっぱりとした口調と同じくらいに動かし難い目で茂を見上げながら、葛城が答えた。
茂の声と表情が、懇願に近くなった。
「それでも・・・なにも・・・・・?」
葛城が小さく、しかしはっきりと、頷く。
「警護員にできることは、わずかです。私たちは、自分で、そのことをよく理解する必要があります。」
「・・・・・」
茂は、下唇を噛み、足元の芝生に目を落として沈黙していたが、やがて、泣きたいのをこらえている子供のような大きな目をしながら、うつむいたまま、言った。
「奴らが・・・夕べと、それからさっき、俺のところに来て、言ったんです。あなたたちには、お客様を守ることは、できないと。」
「!」
葛城が驚いたことに茂はもちろん驚かなかったが、その理由が茂の思ったものとは異なっていることは、もちろんまだ知らなかった。
茂が再び葛城の顔を見たとき、葛城は、穏やかでありながら、これまで茂が見たことのないような硬く厳しい色をその端正な両目に湛えて、座ったまま、目の前に立つ茂をじっと見上げていた。
茶色の絹糸のような茂の髪が、かすかな夜風に揺れるのを合図にしたように、葛城が言葉を返した。
「それで、どうされるんですか・・・・茂さんは。」
「葛城さん・・・・」
茂は、自分がなにを求めているか、葛城に分からないはずはないと思った。しかし、それが葛城から戻ってはこないことを、長い沈黙のあとの次の葛城の言葉が、宣告した。
「いえ、それは、私がお尋ねすることでは、ありませんでしたね。」
泣くのを我慢している少年のようだった、茂の大きな目に、その瞬間、失望の色が満ちた。
「失礼します。」
それだけ言うと、茂は踵を返し、一人で先にホテルの自室へ戻っていった。