02話 『謎の生物』
彼は眠っていた。
少なくとも彼自身は眠っていると思っていたのだ。
奇怪な夢を見た気がした。
妙な人影が、やたらと見た目のいいヒト族の男が己を組み敷き、圧し掛かってくる夢。
(Je suis fort.)
殺されるのではないか、彼はそう思い抵抗した。
最も、殺されるのは身体ではないのだが。
男が彼の中に侵入してくる。
(Je suis aujourd'hui à votre ami.)
彼は呻き、自慢の怪力でもがいた。
(Regagnez le pouvoir.)
(Je.)
彼は兄妹で一番頭が良いというわけではなかったが、一番の足の速さと、歯の鋭さと、顎の強さを持っていた。
しかし、反撃は形にならぬ。
彼は……。
(Soyez prudent.)
(Je.)
(C'est le même comme un tremblotement de la bougie dans le vent sérieusement.)
(Je.)
不快な声が、彼の耳と頭にパルスとなって流れ込む。
なにやら、魂がすこしばかり重くなった気がする。
心の臓が力強く脈動した。
目がうっすらと開く。
声はもう聞こえない。
身体が何かに固定されている。
濁った視界と泡が、液体の中に居るという事を教えてくれた。
口と鼻には謎の筒。
彼は表情を歪めた。
まるで見覚えの無い空間であり、場所がわからぬ。
記憶は曖昧で、名前も、姿も、家族の顔すらもおぼろげだ。
しかし、良くない事が起こっている、それだけは理解できる。
声は何と言っていただろうか。
力。
力だ!
奪還。
奪還せよ!
注意。
注意せよ!
風の前の塵に同じ。
まだ力が足りない!
彼は筒を噛み砕き、四肢に力を込めた。
魂の中から力が湧いてくるのが判る。
枷が破壊された。
粘性の液体に辟易としつつ、腕を振り回す。
彼の体表に貼り付けられていた各種の回線が引き千切られる。
そして。
「博士!計器に異常、あ、あああ、あ」
半透明の筒を砕き割り飛び出した彼の目に、学者風の少女が映り込む。
見覚えは無い。
少女は不可解な事を叫び、狼狽していた。
彼は周囲を見回した。
薄暗く、謎の装置が大量に設置されている。
「どうしたサンキエム」
彼の視線が音に反応し、部屋の端に向く。
喇叭状の機械が、壁から生えている。
音は、声はそこから流れていた。
気に障る、音。
「050番が、が!」
「死んだか」
彼はふと自分の掌を見た。
間違いなく掌だ。
彼は身体を見た。
恐らく自分の体だ。
足元を見た。
力強い脚と、粘液にまみれたハーフパンツ。
恐らく自分の脚だ。
拳を握り締める。
力が漲り、拳が鏡のように煌いた。
少女が何か話している。
再び部屋の端を見る。
彼は跳んだ。
「何だと、意……」
爆音が響き、彼は部屋の外に飛び出していた。
音は、彼自身の拳がもたらしたものだ。
彼は周囲を見回し、再び壁を殴った。
爆砕。
「ギ…………」
彼は顔を歪めた。
二番目の壁を破壊した先は土だ。
朦朧とする頭で考えを巡らせる。
「上」
頭に力を入れると、今度は額が鏡のように煌いた。
高く跳躍する。
爆音。
彼は舞うように着地した。
「上」
再び跳躍。
更に跳躍。
「HYAAAAA!」
空気が軽く、滑らかになる。
わずかな岩と硫黄の匂い。
彼は大地に降り立っていた。
解き放たれたのだ。
「アー……ア……力?」
(Regagnez.)
「アア?」
(Regagnez.)
(Regagnez.)
(Regagnez.)
(Regagnez.)
(Regagnez.)
(Regagnez.)
(Regagnez.)
(Regagnez.)
(Regagnez.)
彼はがむしゃらに走り出した。
どこまででも行ける気がする。
「えー……と……どこだここ……お腹空いた……」
ひとしきり自由を満喫した彼は周囲を見回した。
“わからない場所”からひたすら逃げてきたのだ。
彼の脚力と六感は兄妹の中で一番である。
しかし、走っても走っても山の中だ。
彼は気温と風を肌で感じた。
涼しい……いや、一般的には寒いと評するのだろう。
だが彼の皮膚と魂は寒さなど物ともしない。
たとえ、彼がハーフパンツ一丁だとしても。
ともかく、彼は腹が減っていた。
彼の改造された鋭い視力が闇の先を見通す。
何かが動いた。
彼は狂喜した。
全身を鏡のように煌かせ、彼は駆ける。
彼の金色に輝く虹彩と黒い結膜には、白い甲殻に包まれた四足歩行の獣が映っていた。
シェルエルク。
彼は知らないが、その硬さと美味で知られる魔物だ。
鹿が地の小精霊を食べるときに生まれると言われ、深い山に棲む。
彼は銀色の光となって跳んだ。
自慢の足と、爪が煌き、シェルエルクの長く太い首に張り付いた。
大鹿が暴れ、装甲の欠片を撒き散らす。
彼の全身に欠片が突き刺さり、足の腱が裂かれ、左腕から鮮血が噴出した。
だが彼は怯まない。
彼の種族の特徴である、大きく開く顎と鋭い牙を白い魔法装甲の上から突き立てた。
大鹿が痙攣する。
「グガ……肉……」
大鹿は動けない。
喉に彼の牙が食い込んでいるからだ。
白い血液を流しつつ、大鹿の体から力が抜けてゆく。
彼は食事に歓喜し、神に感謝した。
どんな神だったかは忘れていたが。
肉を裂き、咀嚼し、嚥下するごとに全身に力が漲る。
(Regagnez.)
まただ。
彼の頭の中には誰かが住んでいる。
誰かが囁くのだ。
“戻せ”と。
「あれ?」
シェルエルクの首と頭を食べ終わったところで、彼は異常に気づいた。
傷が完全に修復されている。
高位の回復魔法のように。
更に、どこかから脱出してからずっと感じていた、頭に靄のかかった感じが消えていた。
論理的な思考!
まず彼が思いついたのは、大鹿魔物の肉をこの先も食べられるようにすることだ。
白濁液にまみれながら腹を割き、いくつかの袋と心の臓と肝を食べ、腸と豆とうまそうでない袋を捨て、クリスタルを引き抜いた。
母が言っていた。
内臓とクリスタルを抜き取れば、魔物の肉と骨は長く使えると。
彼は安堵した。
しばらくの糧を得られたからだ。
しかし、母の顔と名前までは思い出せなかった。
やはり記憶がおかしくなっている。
彼は大鹿の胴体を引きずり、歩き出した。
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深い森の中、赤黒いフードマントの人影がどすどすと歩いている。
別に彼女が巨体というわけではなく、丸太に縛り付けた獲物を担いでいるため静かに動けないのだ。
彼女……ファルギ村所属上級水晶集めリュミエラは仕事中だった。
フードに隠された顔は判然としない。
陰になって見えないのではなく、激しく光っているためだ。
周囲を見回すごとに光の線が移動する。
彼女が森の中で不可視光線を使うことはあまりない。
寝ている他人などいないし、そもそも獣や魔物がどんな波長を視認できるかなど判らないので、わざわざ面倒な調整をする理由もなかった。
それに、弱い生物が光に驚いて逃げてくれるのも、他の水晶集めが彼女の存在に気付いてくれるのも助かる。
周囲から危険な波長は感じられず、森に慣れた彼女にとっては平穏そのもの。
「暇ねー……ん?」
立ち止まったリュミエラが首をかしげる。
敏感な瞳が、普段と違う波長を捉えた。
反応は半マイルほど先にあるようだ。
リュミエラは何か起こっても素早く反応できるよう体温を高めると、周囲を警戒しつつ不自然な波長に近づいた。
「なにこれ」
リュミエラの視線の先に、何やら魔物の胃袋かあるいはブレス袋を縛ったものと思しき荷物を背負った、ヒト型の生き物が転がっている。
浅黒い肌に細身の体。
ヒトより長い指と鋭い爪、やや逆立っている剛毛めいた髪の毛と尖った耳。
肌には全く皺が無く、極めて若い個体と思われた。
彼女はこの種族をよく知っている。
高い意思疎通能力と陽気な性格で有名なゴブリンの特徴だ。
父ロドリグと仲の良いクリスタル商人もゴブリンであったし、リュミエラの焼肉屋台の上客にもゴブリンの一家が居た。
……しかし。
「ゴブリンってこんな大きかったかしら?それに寒がりだったような」
記憶にあるゴブリンは、大人でもせいぜい身長四フィートほどのはずだ。
だが目の前で樹に寄りかかり静かな息を立てている若いゴブリンのような生き物は、リュミエラより少し低い程度、五フィート半ほどありそうである。
また、竈の神の血を引くと言われているゴブリン達は、炎に強く冷気に弱い。
ファルギ高地のような涼しい場所で上半身裸など、到底ありえないことだった。
「んー……」
特に危険な感じはしないのだが、念のため少し間合いを取ってマントを開き、素肌の一部と顔を外気に晒した。
全身でエネルギーを吸収し、体表から光として放出するリュミエラの固有形質は、肌の露出が多ければ多いほど強力になる。
通常は顔が見えていれば足りるのだが、相手は正体不明のためなるべく警戒すべきと思われた。
彼はどうやら寝ているようである。
獲物を縛り付けた丸太を近くの樹に立てかけて身軽になったリュミエラは、体表から暖かく柔らかな熱を持った光を発した。
仮に凍えているのなら、暖めれば目覚めると思ったからだ。
少年の浅黒い肌に赤みがかった光が吸い込まれてゆく。
少年がわずかに動き、呻いた。
「オオ……」
「あ、気がついた?
生きてる?どしてこんなとこにいるの?言葉わかる?っていうか何?」
「オオオ……オ……」
「え?」
「おなかすい……た……」
リュミエラの放った熱線により暖められ、起き上がった少年は数歩歩くと、空腹で再び倒れた。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「よくそんな硬い肉を食えるわね……で、あんた何なの」
「わからん!」
倒れた不確定名ゴブリンの少年に、リュミエラはフラスコの水と自分用の携帯食をわずかばかり与えて様子を見た。
獲物の一部を与えても良かったのだが、飢えているときに食べ過ぎると身体に悪いという話を聞いたことがあるからだ。
しかし、それを一瞬で飲み込んで起き上がった少年は、更に食事を欲しがったのだった。
到底直前まで死にそうだった生き物とは思えないその動きに威圧されたリュミエラは、ついつい獲物を譲ってしまったのである。
「お礼は?」
「あ、ありがとうだぜ」
地べたに座った少年は、皮を剥いで熱線で焼いただけの肉を骨ごと貪っていた。
当然、熟成も済んでいなければ味付けもしていない。
それはともかく、血と内蔵を抜いた状態でリュミエラの丸太にくくられていた数匹の中型魔物はパイクエイプと呼ばれ、長い腕を槍のように使って戦う。
その少し加工するだけで簡素な武器になるほどに硬い腕の骨を、しかし少年は普通に噛み砕いている。
恐るべき顎の力だ。
少年を観察していたリュミエラは、ふと妙な事に気がつく。
「あんたってさ、なんか全身から魔力が出てるみたいだけど止めらんないの?」
「……え? あ、それでこんなすぐお腹すいてたのか」
気の抜けた声を上げた少年が、展開していた力を引っ込める。
どうやら、彼の食事はすべて魔力操作のためのエネルギーとして消えていたらしい。
リュミエラは肩をすくめた。
「なによそれ、気付いてなかったの」
「ええと、俺、怖かったから」
「まあ、この辺の魔物は結構強いらしいから、警戒は悪いことじゃないわよ。
あれ? でも今まで一人でいたのよね?」
太い樹の枝に腰掛けたリュミエラが首をひねる。
生まれた時からファルギ村に居たリュミエラにとって、魔物といえばファルギ高地と周囲の森、あるいはその奥のルキエル火山に棲息している連中の事を指す。
だが、父ロドリグ曰く周囲の魔物は非常に強く、ルクスコリ共和国の敵対国家である魔国(正式な国名はシュバルドと言うらしい)との国境にある巨大山脈に出現するものといい勝負らしい。
つまり、多少腕に覚えがある程度の生き物が武器も魔法の増幅器も持たずに、一人で森をうろつけるわけがないのだ。
飢えるほどの時間生きていて無傷という事は、目の前の少年は最低でもファルギ村に滞在する、リュミエラ自身を含めた腕利きの水晶集め達と同等の強さを持っているという事になる。
特に悪意などを感じるわけではないが、相当に怪しい。
「うん、もうずっと迷ってたんだ。数えてないけど多分十日以上ぐらい。
だからリュミエラ……さんが、俺が森に入って初めて会った会話できる生き物」
「食事とか寝るのとかどうしてたの」
「んとな、適当に魔物を食べて、寝るのは樹の上。
でも三日ぐらい前から全然餌がみつかんなくて……」
「そんだけ魔物の血の臭いさせながら魔力放出してたら一マイル先からでも気付いて逃げるわよ。
っていうか、やっぱしあんた強いのねえ、だけどどうしてこんなところに。
それ食べたらさ、色々質問に答えてもらう。
あたしはこれでもファルギを守るのが仕事なんだから」
少年はリュミエラの顔を覗き込み、無邪気に頷いた。
二人の視線が合う。
リュミエラはそこでようやく、少し前から感じていた違和感に気がついた。
少年の瞳は、今まで様々な種族や魔物を見てきたリュミエラがはじめて見る不思議な色合いをしていたのだ。
吸い込まれそうに美しい金色の虹彩を、黒い白目が取り巻いている。
強い魔力と、アンナチュラルな印象を受けた。
「食べたよ。
答えられることなら何でも答えるぜ」
欠片も残さずパイクエイプの腕を腹に収めた少年が立ち上がり、大きく伸びをする。
よく見ると、少年が座っていた地面がわずかだが凹んでいた。
そのゴブリンに近いが明らかに通常のゴブリンでない身体は、見た目の数倍の重量を持っているようだ。
「そうねえ、まず種族、名前、出身地、何でこんなところに居るのか。
年齢は……どうでもいいわ、後は家族とか得意な魔法系統。
固有形質ってわかる?わかんないかな?わかるならそれも」
「名前……名前……」
「そこから曖昧なの?!」
「俺、記憶が怪しくて、ごめんなさい。
えっと、020……違う……030……じゃない、んと……05……そうだ!
俺の名前は、050。サンカント。
種族は、ゴブリン……のはず。
生まれとかここがどこかはわかんない。
で、家族はかあちゃんと兄妹がいるけど、思い出せない。
魔力操作は使えるけど、魔法自体はあんまり得意じゃないと思う。
固有形質? って何?」
「なんだか変わった名前ね、サンカント。
固有形質ってのはさ、昔は“祝福”って言われてた特殊能力とか、魂固有の体質とかのこと。
検査してもらってなかったらわかんないと思うから、別にいいわよ」
「検査! 俺、そういうの検査された事あるぞ」
突然、少年が、サンカントが大声を上げた。
リュミエラが目を見開く。
こんな怪しげな野生児が固有形質の検査を受けているとは思わなかったのだ。
「そうだぜ、確かになんとか形質つってた。
魂適合だっけ?
なんかそんなの、それと、ええと」
(Regagnez.)
「そう!Regagnez!」
(Erreur!)
「え?」
(Hideo!)
「Hideo?」
(C'est juste.)
「うん、それだ、勇者」
リュミエラは首をひねった。
どうにも、わからない事が多すぎる。
友好的、少なくとも敵ではなさそうなのは確かだが。
「いや、あんた明らかに“勇者”じゃないでしょ。
どっちかって言ったら“魔王”?
ま、よくわかってないみたいだし深くは聞かないわ……っげ、逃げるわよサンカント」
「何?」
慌てて枝から飛び降り、丸太を担ぎなおしたリュミエラが叫ぶ。
視線の先には灰色の不定形浮遊物。
ハイ・レイスと呼ばれ、物理干渉を無効化するそれは、魔力の扱いに長けた魔物のアンデッド怨霊だ。
ファルギ高地に出現する敵対存在の中で、唯一リュミエラが苦手な相手である。
“偽りの聖女”の放つ光は、純粋なエネルギーであり一切魔力を含まない。
耐魔法能力を貫通できる代わり、魔力でないと干渉できない相手には無効化されるのだ!
敵を攻撃するような高等な魔法を一切使えないリュミエラがハイ・レイスを倒すには、いくつかの理由から普段は自宅にしまってある“牙”が必要である。
つまり、今の彼女ではどうにもならないというわけだ。
魔法が得意ではないらしいサンカントも素手であり、明らかに相性が悪い。
「ハイ・レイス。
足は遅いけど殴っても効かない上呪われるわ、さあ!」
「あれが?」
サンカントが不思議そうな顔をして、悠々と立ち上がる。
地面がみしり、と音を立てた。