猫
その仔猫は真夏の暑い陽射しの中にちょこんと座っていた。
山村のきつい坂道。保育園へ向かう道すがら。坂の一番上で最初に仔猫に気付いたのは、自転車の後ろで暢気に座っていた息子の陽太だった。
「猫がおる。お母ちゃん、触ってもええ?」
ただ懸命に足元だけを見つめながら自転車を押していた佐和子は、大声と共に急に荷台を揺らされ驚いて足を止めた。
正面を見れば確かに、小さな猫が佇んでいた。
早く仕事に行かなければという焦りはあったが、この坂道に息を切らせていた佐和子は『少しだけ』と自分に言い聞かせながら自転車を猫に寄せた。その瞬間、勢いよく陽太が飛び降りる。
「猫ちゃん」
嬉しそうに駆け寄る陽太に
「急に手ぇ出すと引っかかれるよ」
と言いながら、自転車のスタンドを立てて汗を拭きながら見守った。
佐和子の心配を余所に陽太は猫の頭やら背中を無防備に撫でまくる。
しかしよく見れば小さな猫だ。引っかかれてもそんなに大事にはなりそうにない……と思い見ていると、妙な違和感に気付いた。
それを言い当てるかのように、
「可愛い猫ちゃん。連れて帰ったらいけん?」
振り返る陽太を通り過ぎて猫を見る。
確かに、とても可愛らしい仔猫だ。
「これはシャムやない?」
「シャムって何?」
「血統とか……つまりね、とっても高い猫ちゃん。野良猫やないわね」
説明する佐和子の顔を陽太がじっと見る。
「飼い主がおると思うよ?」
「どこに?」
「そこの団地やないかな」
こんなに綺麗で小さな猫が一匹でフラフラ出歩くわけがない。坂を少し下った所にある団地に飼い主と住んでいるのかもしれない。
「勝手に連れていんだら飼い主さんが心配するよ」
佐和子はガチャンとスタンドを上げ、自転車の後ろに戻るよう陽太を促した。陽太は残念そうにもう一度だけ仔猫の頭を撫で、
「ばいばい、猫ちゃん」
何度も何度も振り返りながら、自転車の荷台にまたがった。
「それにしても人懐こい猫やったねぇ」
仔猫の居た坂のてっぺんを通り過ぎて、佐和子は後ろに向かって叫んだ。
「そうやねぇ」
帰ってきたのは、まだ未練が残っているらしい沈んだ声だ。
けれどそれも、保育園でたっぷりと一日遊べばまた元気に戻るだろう。佐和子は『ふぅ』と笑みながら溜息を吐いた。
陽太を保育園に預けた後、佐和子が向かった先は勤め先の老人施設だ。
夜勤を過ごした同僚からざっくりと申し送りを聞くと、自分の担当する部屋をひとつひとつ廻り挨拶をしてゆく。
気さくに「今日はずっとおるの?」と聞かれ「午前中だけよ。昼には帰らんといけんのよ」などと軽口を言える老人もいれば、気難しい顔のまま窓から空を睨み、返事どころか眼球ひとつ動かさない人もいる。
佐和子は「ふふ」と笑みながら、いつもと変わりない彼らの顔を順に確かめ、仕事にとりかかった。
その仕事もあっという間で、昼が来る。
昼食の準備を最後に手伝って、佐和子は再び暑い陽射しの中に自転車を漕ぎだした。
陽太の迎えは夕方で良いが、それまでにする事は山ほどに在る。同居する実母と昼食を済ませたら、掃除をして、洗濯物を取り込んで……段取りを考えながら団地を通り過ぎ、坂道を登っていると暑い陽射しの中、あの仔猫がまだそこに居た。朝と変わらない場所に変わらずちょこんと座っている。
いや、朝と様子が違う。佐和子は慌てて自転車を止めた。
「嫌だ、あれからずっとここに居たの?」
仔猫はぐったりと頭を垂れて目を閉じていた。
あのままずっと陽射しの中に居て、死んでしまったのかと恐る恐るに指で首筋を撫でると、「ひゃぁ」と小さく震えられてほっと胸を撫で下ろした。
「良かった」
とはいえ、このまま放っておくわけにもいかない。もしかしたら飼い主の知らぬ間に家を出て、行き倒れてしまっていたのかもしれない。きっと今頃飼い主も心配しているだろう。
とりあえず、と自転車の籠に小さな体をそっと入れ、佐和子は自宅に向かって坂を駆け下りた。
「きれいな猫やねぇ」
佐和子が連れ帰った仔猫を、母・千登勢も感心するように抱きかかえる。仔猫は皺くちゃの腕の中でぐったりと目を閉じている。
「人懐こいわ。飼い主がおるのは確かやろうねぇ」
「懐こいんやなくて、死にそうなの」
指に水をつけて、仔猫の口に運ぶが水滴は口端を横切って毛皮を濡らす。
「どうしよう。脱水やわ。このままやと死んでしまう」
何とかして水を飲ませなければ、と焦る佐和子に
「これはいけんかね」
千登勢が自分の食べかけていた葡萄を小さく千切って口の中にぎゅうと押し込んだ。これには佐和子もぎょっとして
「喉を詰まらせたらどうするん」
思わず叫んだが、佐和子の心配を余所に仔猫はくちゃりと葡萄を噛み、ごくりと喉を鳴らして呑みこんだ。
「ほうら。水なんかよりこっちの方が美味しいんよねぇ」
コロコロと笑う千登勢の手の中で猫はようやく、聞き取れないほどの声で鳴きながら喉を鳴らした。
結局、仔猫は葡萄を三つと半食べてやっと、自分の力で立っていられるほどに元気を取り戻した。
居間に仔猫が居るのを見て驚くより先に破顔して喜んだのは雄太であった。
「買うの? 飼い主はおらんかったの?」
保育園から帰って着替えもそこそこで猫に駆け寄り、尻尾を掴み、むちゃくちゃに抱きしめながら佐和子の顔を見る。
「飼い主がおらんかったらね。一応、迷い猫が無かったかそこらここらで聞いてみるけん」
台所仕事をしながら答える佐和子に
「おらんかったらいいね、婆ちゃん」
「そうやねぇ。うちの子になればええのにね」
千登勢と雄太が無邪気に笑う。
二人とも勝手な事ばかり言って……と思いながら、佐和子はちゃぶ台に皿を並べた。
仔猫は二人の手に弄ばれながらも、うとうとと気持ちよさそうに目を閉じている。愛くるしいその顔をちらと見ながら見なかった素振りをしつつ佐和子は台所を出た。
二人が夕食を食べている間に団地の町会長を訪ねるつもりだ。そんなに大きな団地ではないので、尋ねれば数日ほどで飼い主は見つかるかもしれない。
鼻筋のしっかり通ったアーモンド型の大きな瞳の、きれいな仔猫だ。色も白に近い上品な灰色の毛並みをしている。血統書が付いているかもしれない。だとすれば仔猫が居なくなって、団地の近所でちょっとした騒ぎになっているかもしれない事を期待した。
夜になって佐和子が家に帰ると、仔猫は相変わらずとろとろと眠っていた。その寝顔を嬉しそうに眺めている陽太と千登勢を見て、佐和子の胸に嫌な予感がよぎった。
「お母さん、この猫の名前ね、葡萄に決まったよ」
陽太が弾んだ声を上げる。予感は的中した。
「名前つけたの? 飼い主がおるかもしれんのに?」
「暑い中に置いておかれとったんやろう? 全く車も人も通らん道やないのに、半日も置き去りやなんて、捨てられたようなもんやないか」
「だからって……」
「葡萄はね、婆ちゃんが葡萄を食べさせて元気になったから、葡萄なんだよ!」
嬉しそうに報告する陽太。それに得意気な顔で頷く千登勢。
佐和子は、深く溜息を吐いた。名前なんかつけたら、飼い主が見つかって返す時に辛いだろうに……
「何日かして、本当に飼い主が解らなかったらちゃんと飼うことにするけど、それまでは余所の猫なんだって忘れないでね」
陽太は「はぁい」と、千登勢は「はいはい」と軽く答えた。
それから二日の日が経ったが、仔猫の飼い主の連絡はまったく入ってこない。佐和子が町会長を再び訪ねても、近隣で猫が居なくなったという人の話は無かった。
どうやら本当に捨てられた仔猫のようだ。
佐和子は「しょうがない」と、仕事帰りの足で小さな首輪と猫缶を買った。
迎えに行った保育園から出てきた陽太が、目ざとく猫の買い物を見つけてはしゃいだ声を上げる。
「見つからんかったんやね? うちので飼うてかんまんのやね」
「しょうがないやろう」
「お母さんも本当は葡萄におってほしかったくせに」
「はいはい」
佐和子は陽太から目を逸らしながら、溜息混じりに答えた。
葡萄に赤い首輪をつけた事でひとしきりはしゃいだ陽太を寝かしつけ、台所の片付けをしている佐和子に千登勢が重く声をかけた。
「なぁ、葡萄は何かおかしいよ」
「お母さん、どうしたの急に」
「病気やないやろか」
昼間、うたた寝していた葡萄が、突然起きだして飛び跳ね回ったのだという。
「それがどうにも普通やないんよ。
急に震えだしたかと思うたら、目ぇ見開いて、こんくらいも飛び上がって」
千登勢は手でちゃぶ台の高さほどを示した。それはさすがに大袈裟でないかと佐和子は思ったが、
「田村の爺さんが脳の病気でいけんようになってから、そがいな発作をよう起こしよった。あれに似とるような気がしてねぇ……」
ふぅっと千登勢が麦茶を飲み一休みしている間に佐和子は仔猫に目をやった。
眠る姿を見ていると、とても千登勢の言うことなど信じられない。娘の動揺を感じたのか、千登勢もそれきり言葉を閉じた。
佐和子は一晩仔猫を自分の傍に置いて過ごしたが、千登勢の言うような発作などなく無事に朝をむかえ胸をなで下ろした。本当に病気なら一度発作を起こせば、長く時間を空けずにまた起こるのではないかと思ったのだ。
「虫か何かに驚いたんとちがう? うちは古い家やもん」
「そうやろか、それやったらええんやけど」
仔猫の発作を目の当たりにした千登勢は釈然としないが、娘の言う事に期待して頷いた。
しかし、再び発作は起こった。
今度は盆の中日で、佐和子は仕事で家を空けていたが、保育園が休みの陽太は家に居る時であった。
夕方に帰宅して見た息子の強張った顔に、佐和子も仔猫の発作を認めざるを得なくなってしまった。
「病院に連れて行った方がええかもしれん」
佐和子が言うと、
「病院いうたら、なんぼくらい要るんやろか」
「動物やから保険はないし。明日にでも施設で聞いてみるわ。誰ぞ詳しいて思うけん」
「……まいったねぇ」
千登勢は頭を抱えて溜息を吐いた。
発作は日に日に激しくなってゆく。
最初の頃こそ、苦しげに飛び上がるだけだったので、終わって落ち着いた頃合いを見て陽太が抱きしめて撫でてやれば、まだ穏やかさを取り戻していた。
けれども、二日に一回だったものが一日に一回、二回と増えながら、季節は夏から冬に移り、陽太はもとより千登勢の手にすら負えなくなってゆく。
仔猫は苦しさに自分の小さな爪で胸を掻きむしり、血で茶褐色の毛玉を作る。もう、落ち着いている時であっても陽太には近づくことすら出来ない。
「触られると痛いんやろう」
千登勢が傷だらけになった自分の腕に軟膏を塗りながら呟いた。
「苦しいけんか、何ぞ縋ろうとしよるんかしらん、手ぇの届く所に爪立てよるから、足も腕も傷だらけよ」
なぜだか今まで一度も仔猫の惨状の現場を見ることのなかった佐和子も、台所の隅で小さくうずくまるその仔の震える背中を見れば、それがどんなものであるか容易に想像が出来るようになっていた。
ずっと仔猫の寝床にしていた台所は拭いても拭いても血の匂いが充満している。
「猫もね、人間みたいに《てんかん》があるらしいのよ。他にも脳に菌が入って発作を起こす病気もあるらしいんよ」
「施設の人に聞いたんか?」
「うん。薬で治るものもあるらしいけど、通院せないけんらしいし、重くなると入院して手術せないけんそうな」
千登勢は頭を抱え込んだ。
「そんなお金のあるわけがなかろう」
「うん」
千登勢の夫は佐和子がまだ幼いうちに余所の女性と手を取り逃げた。
佐和子は、母一人にしてはおけないと同居してくれる男性に恵まれながらも、陽太が産まれた翌年に先立たれた。
母の少ない年金と、佐和子の手取りだけが頼りの家族三人食べてゆくのにぎりぎりで間に合う貧しい暮らしだ。
「まいったねぇ」
千登勢の溜息を聞いて、仔猫の耳がぴくりとする。
それを見て陽太もびくりと身構える。咄嗟に座布団を抱える姿に、仔猫に対して千登勢と陽太の切羽詰まった現状が見て取れた。
家族にも、仔猫にも、もう猶予はないのだ。
仕事が休みの日を選び、佐和子は朝一番のバスに乗って隣の町まで出かけた。できれば陽太の迎えの時間までに家に帰り、千登勢と相談しなければならない。
帰るとまた、仔猫の発作があったのだろう。朝には無かった血の後が台所の隅にべったりと塗られている。
「お母さんまた傷増えとる」
千登勢の腕にも、新しい切り裂かれた傷があった。
「血だらけじゃぁ葡萄も気持ち悪いやろう」
口の端を歪めて笑う千登勢の腕に、佐和子は軟膏を塗ってやる。
発作で傷を作り、毛を血だらけにしてうずくまる仔猫を、千登勢はこまめに湯で洗ってやっていた。
触れられて痛がり抵抗する仔猫と、洗ってやりたいと思う千登勢の心と。
「けんど、湯を浴びせてやるのがもう精一杯よ。拭いてやるまではもう出来ん」
湯が傷に滲み、激しくなった抵抗に抱きかかえていた千登勢の力が緩む。その隙をついて仔猫は逃げる。
「洗ってやっとるだけでも偉いわ」
洗うことなど自分だったらとうに諦めていると思うと、佐和子は自然と頭が下がった。
「けんどなぁ……」
「うん」
「私にはもう、汚れた身体を拭ぅてやることしか、できんけんなぁ」
切なそうに、切なそうに呟く母の背を佐和子は撫でた。
仔猫の痛みも、辛さも、取ってやることが出来ない。
もっと早いうちに借金をしてでも病院に連れて行ってやればよかったのだろう。後悔が過ぎったが、千登勢の夫が消えた時、佐和子の夫が保険も残せず死んだ時、金の無心で散々に苦労した二人には、それを思い切る事ができなかった。
佐和子は母の背を撫でる手に力を込めた。
「お母さん、これを葡萄に食べさせよう」
朝からわざわざに町まで出かけ、買ってきた小さな箱を見せる。鼠の絵と、殺鼠剤と書かれたパッケージ。
千登勢が、佐和子の顔を見上げた。
「もう春やけん、じきにもっと温ぅなるよ。そしたら、葡萄も発作や傷だけじゃ済まんなる。傷が膿んで、もっともっと辛ぅなる。
葡萄に食べる元気がまだある今が、もう本当に最後のチャンスやろう」
千登勢の首が項垂れて、見えなくなった顔から「そうやね」と震える声が漏れた。
とにかく陽太には内密にすべてを進めよう。二人は内緒で話し合った。
陽太は葡萄がどんなに酷い惨状であれ好きであるのに変わりは無いのか、遠巻きに手を伸ばし撫でる真似をしながら
「今日はお刺身やけん、食べさい」
などと世話をやくように声をかけていた。
なのに親である自分たちはこれからこの仔猫を殺すのだ。
自然に死ぬのではなく、母と婆ちゃんがよってたかって殺すのだ。そんな事は知られたくない。知って心を傷つけたくはない。
殺鼠剤の封を千登勢が不器用に開けると、ピンク色の粒がばらばらとこぼれた。
「毒々しい色やな」
これがチョコレートだったなら同じ色でもそうは思わなかっただろうが、思わず息を止めたくなる肉の腐ったような匂いが『これは紛うことなく毒なのだ』と教えているようだった。
「この匂いが鼠の食欲を増進させるんやて」
佐和子が言えば、
「どのくらい食べたら死ねるんやろうね」
一粒を抓み、千登勢がぽいと口に入れた。
「毒なんやから食べたらいけんやろう!」
慌てて背中を叩き吐き出させる。驚いた顔の佐和子に反して、千登勢はケロッと言ってのけた。
「本当に毒か、見てみよう思うて。葡萄一人に辛い思いさせるんやけん、ちゃんと食べられる味かどうかくらい見てやらんと」
いつもの器にこっそりと盛られた、今までに出されたことのない粒を仔猫は警戒してか、口にはしなかった。
どうすれば仔猫が安心して口にしてくれるか、思案して肉団子に詰めたり、刺身に盛ったりしたがそれでも口にしてくれなかった。
数日に渡る仔猫との攻防に負け続け疲れ始めた佐和子が弱音を吐いた。
「毒やとバレとるんやない? 動物は聡いけんねぇ」
「こんなんなっても、まだ生きたい思うんやろうねぇ」
千登勢は頑として騙されない仔猫の生への執着力に感心して言った。
そうするうちにも、仔猫の傷は増え続け、発作は止まらない。
「これで食べてもらえんかったら、本当にお手上げだわ」
ゆるゆると、体力が尽きて死んでいくのを待つしかないのだ。
それでもいつかは死んで楽になれるのだろうか。佐和子は思ったが、何故だかそれを待つ気持ちにはなれなかった。
「今日は晩ご飯を抜いて、明日の朝あげてみよう。お腹空かせとったら食べるかもしれんやろう」
しかしその晩、佐和子は見てしまった。
台所の隅で仔猫に向かい、背を丸めてぶつぶつと何やらを唱えている千登勢の背中。戸の陰に隠れてこっそりと聞き耳を立てていると、地の底から這って出るような声が流れ出ていた。
「あんたは殺そうとしとる私らが憎いかもしれんけんど、憎むんやったらあんたを捨てた元の飼い主でぇ。
そン人は絶対、あんたが病気やと知って捨てたんや。
こがい綺麗な猫を飼う余裕のある家が、病院代惜しんでか、小さいあんたを捨てたんよ。
うちらを恨んでもええけど、元の飼い主もきっちり恨みぃよ。こがい辛い思いさせられて、黙って逝くことはないけんなぁ」
ぶつぶつと繰り返しながら、眠る仔猫を撫でている。
もう長い事、指一本たりと触れられることをあんなに嫌がって爪を立てていた仔猫が、黙って千登勢の呪文を聞きながら撫でられるがままにされているのだ。
はたして朝、仔猫は初めて、禍々しい色の粒混ざりの飯を食べた。
「お母さんの説得が効いたんかねぇ」
「嫌や、夕べの見とったん」
「葡萄の様子見にきたら、お母さんが先におったんよ」
千登勢はバツの悪そうに笑んだ。
「だってねぇ、腹が立つやない?
あんたかて拾ってきた時言いよったやない。
こがい綺麗な猫を捨てるわけがない、絶対に飼い主が居るからって。
やけんなぁ飼い主は絶対に葡萄の病気をとうに知っとって、捨てたと思うんよ。
私らはこがいに葡萄と辛い思いして、やのにその飼い主は、ちゃっと捨てて終わらせたんよ。
考えよったら腹が立つやない。なぁ」
佐和子もそれはずっと思っていた事だった。
町からわざわざ車にペットを乗せて、この田舎に捨てて行く人は後を絶たない。
おかげで山に入れば捨てられて立派に育った野犬と猫がわんさと居る。それらからの被害を抑えるために、毒の団子を盛る山主も居るのだから。
千登勢は更に続けた。
「葡萄も捨てられた上に痛い思いようけして、恨み辛みもあるやろうに。
そんなんを全部どさくさにされとったら死んでも死に切れんやろう。
恨む相手がおるんなら、ちゃんと恨みぃて教えてあげんと、心残りがあったら成仏も出来んやろう」
台所の隅では毒の盛られた皿をぺろりと平らげて、すっきりとした顔の葡萄がすやすやと眠っている。
確かに、そういうものかもしれない。葡萄の寝顔を見ていると何とはなしに佐和子もそう思えてきた。
そんな晩が二つ続いて、三日目の晩に佐和子が様子を見に台所へ来てみれば、葡萄が裏の戸口に向かってちょこんと座っていた。
三晩と三日。発作も変わらずに続き、その上で朝と夕の二回ずつきっちりと毒の混ざった刺身を食べているせいで体力は既に枯れ、寝床のクッションから動くことはとうに無くなっていたはずの仔猫が、どう這ってここまで来たのか。
佐和子に見せる背中はしゃんとして、頭は凜とガラス戸の向こうに登る月に向かっている。
「葡萄?」
息子に声をかけるように呼びかけると、葡萄は「ん?」という仕草で振り返った。
佐和子が傍にしゃがんで頭に手を触れても怒らない。それどころかピンと立てた尻尾が甘えるように揺れている。
「お水でも飲もうか?」
聞けばさっきと同じように「ん」という顔で頭をこくりと下げた。
あまりの急な変わりように焦って葡萄の水入れではなく、うっかり自分の湯飲みに水を入れてしまったが、構わず小さな口に端を当ててやると、一番最初にこの家へ来た時と全く同じな愛くるしい仕草で水を飲んだ。
そればかりか、満足するまで水を飲んだ後仔猫は佐和子の足に小さな頭をすり寄せて
「ひゃん」
と頼りない声を上げた。
「美味しかったの」
と聞けば
「ひゃん」
とまた鳴く。
喉を撫でてやると目を細めてコロコロと鳴らした。
「葡萄」
「ひゃん」
まるで人と人の子のようなやりとりが続く。
佐和子と仔猫、ガラス戸の向こうの月に向かって、揃って顔を上げた。
「葡萄、ごめんね」
「ひゃん」
「私が拾ったばっかりに、あんたに辛い思いさせたねぇ」
「ひゃん」
「あの時、あんたを拾わんとおったら、脱水であのままあんたは死ねたんにね。
そうすればずっとずっと楽だったろうにね。
私が拾ったばっかりに、命を取り留めてしもうて、繰り返さんでもよかったはずの発作ばっかりして。
長いながーい間、本当に辛かったね」
「ひゃぁん」
「上手に鳴けんの、あれのせいやね。きっと」
餌の皿に少しだけ残ったピンクの粒。
「あん時死んどったら、こんなもの食べる必要もなかったやろうにね。
美味しゅうもないやろうに、本当は食べとうもなかったんやろうに」
「ひゃん」
「ごめんなぁ、葡萄。お母さんはあんな事言いよったけど、もうええけんね。
誰ぞを恨みながら死んでいく必要はないんよ。
あんたの代わりにあたしがいっぱい、恨んだり恨まれたりしてあげるけん、あんたはもう何も考えずに眠ってしまい」
「ひゃぁん」
それが佐和子の聞いた、葡萄の最後の声だった。
翌朝はまた、変わらず定位置のクッションで葡萄は眠っているような曖昧な顔で黙って毒混じりの刺身を食べていた。
昨夜のひとときがお別れの挨拶なのだと思ってしまっていた佐和子は、ほっとしたような、がっくりしたような気持ちになった。けれども、この仔猫の最期が近いのに変わりはない。
今夜は夜勤だ。
お別れがもう目の前だと解っているけれど仕事に行かなければならない。
陽太と千登勢に「葡萄をお願いね」と頼んで、後ろ髪を引かれるように家を出た。
朝。仕事を終えて急くように家に帰ると、台所で陽太が黙々と折り紙を折っている。
保育園に行くから急いで準備するように言えば、千登勢がそれを制して、「今日は休ませたって」と請うので、佐和子は悟ってしまった。
定位置のクッションに、横たわる仔猫。
「ついさっきまでは、まだ温かったんよ」
千登勢は言うが、佐和子が触れるとその肉体は既に硬く、もはやただの塊でしかない。
「箱に入れてあげたいんやけど、こんな小さいのに重ぅて」
その為に動かす事も出来ないまま佐和子の帰りを待っていたのだろうが、それが何故かしら佐和子には嬉しかった。
裏の庭に沈めて最後のお別れをしながら土をかけようとすると、陽太が折り紙で折った猫をばらばらと放り入れてやった。
「お花やないの?」と佐和子が聞けば
「葡萄は友達がおらんかったけん」子供らしくない神妙な顔で答えた。
赤とピンクと、水色と色とりどりの紙の猫たちと一緒に、一匹の仔猫が土に戻っていく。
あの日拾わなければ。
けれどあの日拾ったからこそ、友達も人の温もりも知らないただの無機質な死体ではなく、一匹の猫として死ねたのかもしれない。
そして春は過ぎ、やがて夏も過ぎようかという頃。
夏の最後の祭に詣でた帰り道で、陽太がふっと足を止めた。
「どうしたの?」
たくさん歩いたせいで足でも痛んだかと佐和子が案じて聞けば陽太は「あれ」と視線を僅かに上げ指差した。
「葡萄がおる」
はっと思い佐和子も見上げてみればそこにはガラス屋の看板があった。
「ほら、葡萄と同じ猫ちゃん」
看板の端にどういう意図かは知れないが、一匹の白い猫が背中を向けて、長い尻尾をぴんと立てて座っている写真があった。それはまさに佐和子が最後のあの晩に見た、病気で弱りながらも凛と座っていた後姿そのものだった。
「そうやね、葡萄と同じやねぇ」
「可愛かったねぇ、葡萄」
最期までの凄惨な姿を見守り続けるしかなかった佐和子にはとても可愛かったとはもう思えない思い出だが、おそらく陽太には拾ったばかりの小さなやんちゃな仔猫のまま心に残っているのかもしれない。
まだ慣れない仔猫が外に出て迷わないよう、開け放しにしていた勝手口に付けた、小さな体の何倍も高さのある柵を軽々と飛び越えた元気一杯だった仔猫。この幼子の心の中には、未だあの姿のまま仔猫は生きているのだと気付くと、その思い出を汚す事は絶対にできないと佐和子は軽く目を閉じて、自分の心の中に居る仔猫の姿を呑み込み沈めた。
「そうやね、可愛かったねぇ」
佐和子の喉の奥から、熱い塊が込みあげて、目尻からそれがほとほとと溢れ流れる。
元々はあの仔猫を捨てた人間が悪いのだと何度も自分に言い聞かせては誤魔化してきたが、結局は自分と千登勢とでよってたかって殺した事実は変わらない。
涙は罪を消してはくれない。
けれど陽太の心に居る幼いやんちゃな仔猫を自分の心の中にもストンと座らせた事で、重い濁りが一瞬だけ流れて洗われたような気持ちに駆られた。
――こんな気持ち、人間の勝手な驕りだわ……
そう思いながらも。それでもこの瞬間を迎えたことに、佐和子は頭上の看板の凛と座る猫に、目を閉じて頭を下げた。
溢れる涙でアスファルトに小さな水玉を作りながら。
辛かった病気の日々は、あの仔猫が人の手の温もりに触れる為の必要な寿命だったのかもしれない。
それが良かったのか悪かったのか。
知らないままに打ち捨てられて自分でも命の意味すら気づかないまま消えてゆく事と、誰かの手に触れた想いを抱えながらも痛い辛い苦しいと悶えながら逝く事。
佐和子にはその答えは未だ出せない。
「ええわ。私が死ぬ時にでも、わかればええ事だわ」
名残惜しそうに何度も看板を振り返る陽太の小さな手をぎゅっと掴みながら佐和子は看板の下を通り過ぎた。