魚が空を泳ぐ時
不意に見上げた夜空に、青白い一筋の光が走った。私にはそれが魚に見えた、黒い大海を自由に泳ぐ、魚だ。空にも魚が泳いでいるのだな、と思った。
「流れ星……」
目の前に佇む男は、そう言った。私に向けて言ったのか、「流れ星」に向けて言ったのか、それは判断が付かない。
「見たか?今の?」
今度は、私に向けて言っているのだな、と判った。私は答えなかった。
静寂が佇む住宅街。私は、一人の男に声を掛けられていた。辺りに人の気配は無く。立ち並ぶ住宅の電気も全て消えている。草木の寝息が聞こえる。そんな時間だった。
そんな時間に、闇に溶け込むかの様な黒い衣服に身を包んだ見慣れない男が私の家に近付いてくるものだから、最初は、泥棒だと思って警戒した。
ただ、その男は私を見るなり、「やぁ、お爺さん」と軽快に挨拶をしてきたので、私は警戒を解く事にした。泥棒が軽快に挨拶をしてくるとは思えなかった。もっと言えば、よしんば泥棒だとしても、私には抵抗する体力も気力も無かったのだ。彼の言うとおり、私は「お爺さん」だ。年老いている。
「願い事を言えば良かった」
彼は寂しそうに、夜空を見上げている。魚が泳いだ辺りだ。魚に願い事を言うのか?と私は怪訝に思う。
「もしも、世界中から車を無くして、世界中の犬達の鎖を断ち切って、動物園の檻を開けたら、世界は救われる。そんな気がしないか?」
泣き出しそうな声だった。暗がりの中なので、その表情までは読み取れないが、泣いているのかもしれない。何をそんなに悲しんでいる?私は不安を覚えて、彼を慰めようと肩に手を回そうとしたが、それも出来なかった。私は無力な「お爺さん」だ。
男は私の隣に座り込み、何も言わずに嗚咽を漏らした。泣き顔を隠す様に両手を顔に預け、しばらく、泣いていた。それを見ている内に、何故だか私も悲しくなる。
どれくらいの間、彼は泣いていたのだろう。とにかく、私は彼が泣き止むまで付き合った。やがて、彼は泣き顔をこちらに向けて、
「お前は、ずっとここに居るよな」
と、私の頭に手を置いた。
「もう、十年近くか。あんなに小さかったのに、気が付けばお爺さんだ」
彼の声色は優しかった。
「もう良いんじゃないか?」
何を言っているんだ?私がそう言う前に、彼は私の首元に手を回してきた。くすぐったさに身を捩る。
程無く、かちゃん、と音が聞こえた。その音を聞いた瞬間、全身の毛が逆立つ様な寒気が私を襲った。
男が、私の首輪を外したのだ。と遅れて気付いた。彼は見せびらかすかの様に私の前に赤い首輪を置いた。
「お節介なのかもな」
自嘲気味に、言う。辛そうな笑みを向けて、それから彼は立ち上がった。
「お前は、自由だよ」
自由。
自由が、唐突に私を襲った。恐々と、試しに一歩踏み出してみる。二歩、三歩と続ける。いつもならここで、首輪が私の首を締め付けるのだが、それが無かった。信じられなかった。
生まれて初めての自由を染み込ませる様に、春の風が私に巻きついてきた。ようこそ、自由へ。そう言っている様な気がした。
歩いていいのか?走っていいのか?吼えていいのか?
困惑と快感が、身体を駆け抜ける。同時に、年老いていた身体に力が漲るのが判った。もう一歩を踏み出す。どこまでも行っていいのか?
「怖くなんて無いさ」
男の声が、後ろから聞こえた。それが背中を押した。怖くなんて無い。私は年老いている。充分に生きた。
暗がりにぼんやりと浮かぶアスファルトの道路を見据える。
生きている限りは、この道をどこまでも歩いて良いのだ。
生きている限りは、どんなに遠くに走っても良いのだ。
生きている限りは、何度でも吼えて良いのだ。
私はアスファルトを蹴る。始めはゆっくりと、しかしやがては力強く。速度を上げるに連れて解放感も大きくなった。速度を上げるに連れて、風が荒んで来た。心地良く、力強い風だ。
空に、また泳ぐ魚が見えた。私は、泳ぐ魚を追う。
吼える。吼えて、走る。振り返らない。行くぞ。と私は叫ぶ。
自由の中を疾駆する事にした。
この物語は、「ライブラリ」とも「犬だって取引はする」ともリンクしています。出来るだけ「ライブラリ」「犬だって取引はする」本編を読んでいなくても楽しめる作りを目指したつもりですが、成功しているのかどうかは判りません。




