魔王の少女は森の中
それは、ある森の奥。
小国のそのまた小さな町の東にある、緑深き、自然の森。
木々の間から覗く木漏れ日があたりを温かく照らす。―――だが。
今そこは、狩猟の場となっていた。
「はぁ、はぁ、はぁ……!」
胸に若草色の植物を抱え、木々の間を必死に走る少女の姿があった。そして、そのわずか後方。
「ガァ、ガァァァァッ!!」
うなり声を上げて少女を追いかける、四足の藤色の狼。だが、その後ろ左足には貫かれたようなあとがあり、血が固まってこびりついている。
その所為か、狼はその足をかばうように疾走している。だからこそ、少女は逃げ続けられているのだ。
「いや、誰か、助けてっ」
顔を泣きかけのようにゆがめながら少女は叫んだ。だが、少女は諦めていた。深い森の中で、そう簡単に助けなど現れるはずもないと。
ユンド町 500リセル先
そっけなく立たされた木の看板が、少女の絶望を大きくしていく。
体勢を前後に崩しながらも少女は悪い足場の中必死に走った。
「っ!」
右足が小さく張り出した木の根を踏みつけ、同時に足首に激痛が走った。少女は思わず右足を抱え倒れこんだ。
だが、少女は倒れこんだ瞬間顔に恐怖を見せた。
「グルルルル……」
もはや少女が動けないとふんだのか、藤色の狼は駆ける足を止めゆっくりと少女に近づいた。少女は上体を起こし逃れようと必死に後退する。
狼はそれを面白がるかのように追い詰めていく。
少女と狼の距離が縮む。10リセル、7リセル……。
「い、いやぁぁぁぁぁぁぁっ!!!!」
少女はついに絶叫する。それと同時に痛む足のことも忘れ、立ち上がり後ろへと走ったが少女は予想よりも早く障害に達する。
ゴン、という鈍い音と共に少女はまたしても地面にへたり込んだ。太い幹を持つ樹が少女の行く手を遮ったのだ。そして、それと同時に、
「きゃっ」
というこの場にいると思っていた生き物以外の声が聞こえ少女はついに恐怖を抑えられなくなった。
恐怖が限界を超え、少女は口を利けなくなった。だが、その状況でも少女は必死に上、すなわち声が聞こえてきた方向を仰ぎ見る。
そして、驚きに気絶しかけた。真上から落ちてきたのだ、人影が。
その人影は枝を支点にして次々と落下してきた。そして、地面から2、3リセルほど高い枝から軽々と跳躍すると、狼の前に立ちはだかった。
しかも、地面に落ちるときも音一つせず、まるで妖精のようにふわりと舞い降りていた。
「あ~、なんか起きてると思ったけど……」
その人影は少女の位置からは影になって見えない。フードをかぶっているため髪型も何もわからない。少女にわかるのは、その人影が華奢な体つきであること、そして自分と同じく女であることだけであった。
「おまえさぁ……前も、言ったはずだよね?」
だが、その体から立ち上がる殺気にも似た気配は到底普通の人間が放てる範囲のものではない。
少女は自分に向けられたわけではないと頭では理解していながらも、心底震え上がっていた。
「勝手に私の敷地で狩りをするなっ!」
「グ、グルル」
狼はかろうじて立ちふさがっているものの、胆力はもう限界のようだった。だが、野生の獣としての誇りからだろう、震えかけている四足を動かし地面を強く蹴った。
「ガァァァァッ!!」
やけくそのように人影へと突っ込む狼。大してその人影は、微動だにしない。
そして、ついに狼が少女の少し手前で地面を蹴り上げ高く跳躍した。空中で牙をむき出し、爪を光らせる。少女は思わずぎゅっと体を縮めた。
そして、少女は自分の目を疑った。
寸前まで全く動こうとしなかったその人影は、そう、本当に寸前で動いたのだ。だが、少女にそれは見えなかった。少女が見えたのは、その人影が寸前で霞んだこと。そして、狼が背中から激しく血を噴き出しながら地面へと落下したことだった。
少女は一瞬その光景に呆然として、しかし顔にかかる生暖かい赤い液体を認識したとき本当に気絶した。
人影は、一瞬のうちに動いた影響かふわりとした着地をすると同時にフードがはらりと外れる。
中に隠されていた美麗な髪が宙を舞い――。
気絶した少女を見つめると、その人影は小さく苦笑すると少女をゆっくりと抱き上げた。
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「ん……」
程なくして少女は意識を取り戻した。揺れ動く体にぼんやりと意識を向けていた少女は不意に直前の光景を思い出す。
それと同時に急激なショックが少女の考えを叩く。
「きゃあっ!?」
はっと少女が起き上がると、動きが止まる。少女は驚きに眼を見開くと、暴れた。
「は、離してっ!何するつもりなのっ!?」
「ちょっと、まっ」
頭上から聞こえる声は困惑していたが、それでも少女の意思を尊重したのかゆっくりとした落下感と共に少女は背中に固い地面を感じた。
それを確認する前に少女はさっと起き上がると自分を抱き上げていた生き物から距離を取ろうと樹の陰に隠れた。
場所はそう変わっていないのか、少女が倒れたときと周りの風景は大して違っていない。
「そんな、別にとって喰おうってわけじゃないんだし……」
少女を抱き上げていたフードの人間は、わずかに見える口元にゆっくりと弧を描きながら言う。
だが、少女はその言葉にも強い拒否反応を示した。
「嘘っ!よらないで、化け物、魔王っ!」
少女へと手を伸ばしかけていたその人間は、その言葉に固まった。少女はその人間の様子を知ってか知らずか、言葉を重ねる。
「噂は本当だったのね、この森に魔王が住み着いているって!出てってよ、なんでこんなことするのよ!」
「その言葉、君たちに返したい気持ちは満々なんだけどね」
魔王と呼ばれた人間は、伸ばしかけていた手をゆっくりと戻すとポツリと呟く。だが、その声は少女には届かない。
「どうせあの魔物も、お前が仕掛けたんでしょ!何よ、正義の味方気取っちゃって!お前なんかさっさと騎士様に殺されればいいんだ!」
少女は嫌悪感、憎悪、そういったものをこめて吐き捨てた。そのままくるりと身を翻すと反対方向へと駆け出した。
だが、何か思うところがあったのか少し離れたところで歩をとめた。
「あたし、言うからね。……すぐに騎士様がここに来るんだから」
それは森のささやきに隠れそうなほど小さな声だったが、魔王には聞こえたようだった。そのまま駆け出していく少女を見送りながら、届かないとわかっていても言った。
「ご親切にどうも」
皮肉気にも聞こえるその言葉は、しかしどこか微笑みを感じさせるものだった。
「 」
魔王にしか聞こえない声で何かが呼びかける。魔王の少女はそれに反応すると、薄く笑い言い切った。
「いいんだよ、たまには」
クスクスクス……魔王の少女は笑う。深い森にそれは楽しげに響き渡った――。
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程なくして、森の中に鉄の匂いが漂い始めた。
ガチャガチャと鎧の音を鳴らし、森の中へ進行し始めた騎士たちの顔にはまぎれもない恐怖があった。
いくつもの噂が流れていた。その中に、魔王はこの森にいるという噂もあった。
だが、その手の噂は日常茶飯事でそんなまさかと冗談めかして言うことが出来た。だが、つい先ほどあったある少女の証言が彼らの冗談を本当に変えた。
『森に、魔王が住み着いている』
そんな馬鹿なと彼らは笑い飛ばした。だが、少女の真摯さに少しずつ本当なのではと思い始めたがゆえに彼らは今ここにいる。
「あぁ、もうなんでここなんだよ……」
騎士の一人がそう呟く。騎士といっても町の自衛団程度の戦力しか持っていない。当然実戦経験もほとんどない。
初めての戦闘に恐怖をもつのは当然のことだった。
ガサッ!と隣で茂みが音を立てれば同時に騎士の心臓は飛び上がった。そして出てきたのが無害な野うさぎであればほっと息をついた。
そんな反応を一体何回繰り返したことだろう。
騎士の反応は徐々に鈍くなっていった。そして、騎士が匍匐前進しているときに隣で茂みが激しく揺れても、心臓を高鳴らせながらも大して警戒もしていなかった。
(大丈夫だ。さっきから何度もあった)
大きく深呼吸してそっと振り返ると――
「ふふっ」
にっこりと顔に笑みを貼り付けた、黒髪黒目の少女が目の前にいた。
「ようこそ、そして始めまして。私の城へ踏み込んだ愚か者さん」
だが、眼は全く笑っていない。それどころか相手を見定めるかのような冷酷な瞳。
クスクスクス……。少女の笑い声が耳元で鳴る。
悪魔の微笑みは目の前で。小さな声で宣告する。
「10秒数えたら……きっとさよならする事になるよ?……主に首と体が」
優しげな声で、最後にこの歳とは思えないほどの冷たい声で。
少女は騎士に宣告した。眼も留まらぬほどの速さで振りぬかれた小さな刃はぴたりと騎士の首に当てられていた。
「ヒ、ヒヤァァァッ!!」
このときになってようやく事態を認識した騎士は恐怖に悲鳴を上げながら後ずさった。
なんども転びそうになりながら、騎士は立ち上がりそして踵を返して逃げ出す。
後ろから聞こえる、じゅーう、きゅーう、はーち、なーな……というあまりにも無邪気に聞こえる、死へのカウントダウンの声から少しでも遠くに逃げるために。
騎士はいまさらになって悟っていた。
(くそ、噂は本当だ!魔王は、本当にここにいた!)
「ぜーろっ!」
遠く離れたはずなのに、あまりにも鮮明に聞こえる声に本能的に振り返ると、今まさにその瞬間騎士の首へと黒く鈍く光る短剣を振り下ろしている少女がいた。
「うわぁ!」
全く使い慣れていない剣をどうにかこうにか鞘から抜き出し、ギリギリのところで刃を打ち合わせる。だが、予想に反して騎士は少女の攻撃を防いだことに数秒のタイムラグが生じた。
「え」
呆然と騎士が止まると、その間に迫ってきた短剣が騎士の首下へ鋭い切っ先が突きたて――
「が、はっ……!」
られるのを確認する前に騎士は腹部に感じた衝撃により、意識を暗転させていた。
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「残念だけど、あいつら以外は殺さないって決めてるからね」
クスクス……少女の笑いは留まるところを知らない。そんな少女に話しかけるいくつものぼんやりとした影のような靄のような。
『ねぇねぇ、姫。早く行っていい?』
『僕たちにもやらせてよ。最近ニンゲンの相手できなくて暇だったんだ』
『そうよ、姫。最近魔獣ばっかりでつまらなかったのですもの』
『ねぇ、お願い。殺さないからさ。少し脅かすだけだよ』
懇願、高揚……そういったものを含んだ不思議な声が少女に語りかける。
少女は小さく苦笑した。そして、その笑みはとても自然な、優しい笑みだった。
「いいよ、行っておいで」
少女がそう口にすると周りの空気がどこか楽しそうに踊った。
『やった、ありがとう、姫!』
不思議な声は次々と礼を述べるとそのままどこかへと溶けていく。
それは、少女個人を慕って集まったいくつもの影。
ゆえに少女に対する感情は人一倍である。そして、いや、だからこそだろうか。
『姫に悲しい思いさせたのだーれだ』
『さぁ、姫に見つからないように』
『さぁ、姫の目の届かないところで』
『姫には知らせないで』
彼らの愛情は限界を知らない。
森の葉々が作る影を伝い、影の中を闇が走る。
『姫のために』
更新遅れまして誠に申し訳ありません。
改稿作業は一歩も進んではいませんが、とりあえず第一章第一話を更新させていただきます。
ユニークが2500 PV11000を突破しました。
ありがとうございます。