2人はカレー風味の大晦日
午後十時。自習室の退出時間だった。
参考書を閉じ、席を立つ。肩にかけたリュックの重みを確かめながら出口へ向かっていると、背後から声が飛んできた。
「あ、徳井くん待って、わたしも帰る」
「おう」
首だけで振り返り、短く返事をする。リュックのチャックを閉めながら追いついてきた高井さんと、並んで予備校を出た。
外に出た瞬間、冷たい風が頬を刺す。
「さっぶ」
「寒いねー」
今日は大晦日。世間が一年の終わりを楽しんでいるなか、僕らは受験勉強に明け暮れていた。
吐いた息が白く広がる。街の明かりはいつもと変わらないのに、年の瀬というだけで、どこか特別な夜に感じられた。
「あと三週間しかないね」
「うん、やばい」
受験本番まで、残りわずか。
口にすると、胃のあたりが少し重くなる。これがプレッシャーかストレスか。あるいは後悔なのか。
今さら焦っても仕方ないとわかっているけれど、残された時間を考えずにはいられなかった。
自転車置き場へ向かう途中、建物の裏口から管理人さんが出てきた。手元には鍵。どうやら、最後の施錠を終えたところらしい。
「大晦日なのに俺らのために残ってたのか」
「そうみたい」
申し訳なさと感謝を込めて、バイクにまたがる管理人さんに会釈する。エンジン音が夜道に響き、赤いテールランプが遠ざかっていった。
さて、帰ろう。
自転車置き場には、僕らの自転車が二台だけ残っていた。
鍵を差し込み、カチャリと回す。続いて手袋をはめようとした、そのときだった。
「えーっ!」
「どうした?」
高井さんの大きな声に、手袋を引っ張る手が止まった。
「鍵がない」
「落とした?」
高井さんはコートのポケットを探り、カバンの中をガサゴソ探り、暗い足元まで手探りで確認し始めた。
年末に落とし物とは、なかなか景気の悪い話だ。
「あースマホもない」
「忘れた?」
僕は親指で予備校の建物を指した。
「……自習室?」
「うわっ。とりあえず電話かけてみよう」
手袋をカバンに突っ込み、スマホを取り出す。高井さんの番号を呼び出して、発信ボタンを押した。
プップップップッ。プルルルル、プルルルル。
「震えてる?」
「待って。……ないね。やっぱり自習室だわ」
高井さんは自分のポケットをもう一度確かめ、諦めたように肩を落とした。
スマホも自転車の鍵もない。しかも、頼みの管理人さんは、ついさっき帰ってしまった。
「管理人さん帰ったね、今」
「どうしよう」
高井さんは自転車のサドルに両手を置き、困り果てた顔でうつむいた。
「明日、元日は昼からだったかな、自習室」
「明日までスマホが使えない」
その言葉には、忘れ物をした後悔以上の悲壮感があった。
「あけおめできないね」
「ほんとだ。わたしだけ」
新年の挨拶ができない。それは確かに、今どきの高校生にとっては一大事なのかもしれない。
「どうする?」
「開けてもらうわけにもいかないね、さすがに」
「自転車の鍵も」
「そうだ、乗れない」
高井さんはサドルをガタガタと揺らした。自転車が動くわけでもないのに、何かせずにはいられないらしい。
「徳井くん、電話かけさせてくれる?」
「ん、どうぞ」
スマホを渡すと、高井さんは慣れた手つきで家に電話をかけた。
迎えを頼むつもりらしい。
しかし、聞こえてくるのは「えー」とか「あー」とか、歯切れの悪い返事ばかり。どうやら話は思ったように進んでいない。
最後に「わかった」と告げて、通話が切れた。
「ありがとう。お酒飲んでた、車ムリって。それで学校の同級生の電話って言ったら、一緒に帰っておいでって」
「ふっ。まぁ一緒の方向だし」
「いいの?」
「ああ、もちろん」
高井さんはほっとしたように笑った。
その笑顔を見て、僕はようやく帰宅できることになった自分の境遇を思い出した。
いや、帰るだけなら問題ない。問題は、ここから先だ。
「でもこれ、二人乗りできないからね」
「そっか、やっぱり悪いから先に帰って。わたし歩いて帰るから」
「真っ暗なところもあるし、俺も怖いし」
「うん、怖いね、あの道」
「送って」
「わたしが!?」
思わず声が重なった。
高井さんが目を丸くする。僕も自分の発言を振り返り、少しだけ笑った。
結局、二人のカバンを自転車のかごに入れ、僕が自転車を押して歩くことになった。
左隣には高井さん。二人並んで歩き始めると、さっきまでの騒ぎが嘘のように静かな夜が戻ってきた。
「受験生の大晦日はこんなんか」
「そうよね。早く受験が終わってほしいけど」
「けど?」
「受からなかったらって思うと」
声の調子が、すっと落ちた。
普段は明るい高井さんも、やっぱり不安なのだろう。三週間後に何が待っているのか。ここまで積み重ねた努力が報われるのか。
それは僕だって同じだった。
「受からないときのことは考えないことだよ」
「ふふ、そうだね。受かることだけ考えたほうがいいよね」
「受かったときのことも考えてないけど」
「え、そうなの?」
高井さんがこちらを向いた。
「妄想に時間がとられて勉強できなくなる」
「受かった後の?」
「そう。でも大学生活がよくわからん」
「サークル入って、バイトして旅行して」
高井さんは指折り数えるように言った。
「自由だーって感じ?」
「この一年、勉強以外我慢したから」
確かに、それはそうだ。
友達と遊ぶ時間も、好きなゲームをする時間も、休日にだらだら過ごす時間も削ってきた。合格したら、まずは思い切り羽を伸ばしたい。
「あと、彼女とデートしたい」
「ふふ、できるんじゃない? 徳井くんなら」
「そう? そう思う?」
「え? ええ、そうね……」
高井さんの返事が、妙にぎこちなくなった。
これは、もしや。
「もてる男はつらいねぇ」
「そうだね、ぇぇ」
うん。たぶん、今のは少し調子に乗りすぎた。
でも、否定されなかったのだから、よしとしよう。
そんなことを考えているうちに、コンビニの明かりが見えてきた。
「肉まん、食べよう、そこで」
「ん? 財布もないよ、わたし」
「送ってもらうお礼だよ」
「え、なんか悪いよ」
「もてる男だから俺は。女子にやさしいんだ」
「お金で釣るのは違うと思うけど」
「いらないの?」
「空腹なのに横で食べられたら殺意が芽生えるわ」
それは困る。
「食べかけをハイってしてもイヤでしょ」
「そのときの葛藤が目に浮かんじゃう」
「じゃあ、一緒に食べればいいじゃん」
「……そういうこと?」
高井さんが少しだけ考え込んだ。
どうやら、正解にたどり着いたらしい。
コンビニに入ると、店内には僕ら以外の客がいなかった。年越しの準備は済ませたのか、店員さんもどこかのんびりしている。
レジ横のホットスナックコーナーには、肉まん、あんまん、ピザまん。湯気の立つケースを前に、僕らは真剣な顔で品定めを始めた。
「カレーまんでいい?」
「いやでしょ」
「ピザまんにする?」
「あんまんでお願いします」
「肉まんじゃないんだ」
「息がくさくなっちゃうじゃない?」
なるほど。そういう問題もあるのか。
ケースの隣には、年越しそばのカップラーメンが並んでいた。
「もうあれだ、これ食べるか、年越しそば」
「却下」
「今日だけ年越しまん作れば売れたのに」
「難関国立大学に受かりそうでも、商才はなさそうね」
手厳しい。
結局、カレーまんとあんまん、それからナゲットとお茶を買った。支払いはスマホ決済で済ませ、僕は袋を持って店を出る。
冷気にさらされた途端、カレーまんの温かさが恋しくなった。
「知らなかった。自転車押しながらカレーまん食べれん」
「わたしは両手があいてるけど」
「先に食べていいよ」
「食べさせてあげよっか?」
「上手にできる?」
「動物園でウサギに菜っ葉あげたことがあるから、それなりには」
「じゃあお願い。かぶりつく」
「どこに納得したのよ」
文句を言いながらも、高井さんは僕の左腕に袋をかけ、カレーまんを取り出してくれた。
白い湯気が立ち上る。
差し出されたそれに、遠慮なくかぶりついた。
「うん、うまい。カレーはなんでもうまい」
「いいにおい。カレーが食べたくなるね」
「おお、中のほうアツアツ、からぁ」
「辛いんだ、これ」
思わず歩く速度が落ちる。
熱い。辛い。だが、うまい。
この三つが同時に押し寄せてくるのだから、カレーという食べ物は実に罪深い。
「急いで食べると汗が噴き出すから」
「辛いの大好き」
高井さんは僕の手元をのぞき込んだ。
「ちょっと待って、辛さが引くまで」
「オッケー、ナゲットが冷めないうちにね」
カレーまんを持ったまま、僕はしばらく口の中を冷ますことにした。
ふと、以前から気になっていたことを思い出す。
「インドカレー、ナンで食べるやつ食べたことない」
「手でちぎって食べるのよね。わたしも食べてみたい」
「試験終わったら絶対食べる」
「後のこと考えないんじゃないの?」
「大丈夫、食べているところは妄想してない」
「ふふ。ナンってカレーにつけるの? カレーをのせるの?」
「あれはのせるんだ。そしてパクッて一口で」
「ひとくちで、パク」
高井さんは僕の話に合わせて、手に持っていたカレーまんにかじりついた。
そして、ぴたりと動きを止めた。
「食べた? カレーまん」
「はっ! ごめん、食べた」
手元のカレーまんを見つめる高井さん。
なんだ、その反応は。
僕は思わず笑ってしまった。
「間接チューだ」
「ええぇ、それを言っちゃう」
「恥ずかしがる?」
「いや、まぁ意識しちゃうとね」
高井さんの頬が、ほんのり赤くなった。
寒さのせいかもしれない。辛いカレーまんのせいかもしれない。
……まあ、どちらでもいい。
「だから開き直ろう。ちょうだい」
「いいの?」
「高井さんはイヤ?」
「イヤじゃないけど、うう、はずい」
差し出されたカレーまんに、今度は僕がかじりついた。
「うん、うまい」
「そうね、確かにおいしかった」
「おいしかった? 残りはどうぞ。食べたいでしょ?」
「いいの?」
「もうふた口もないし。次はナゲットだ」
「ふふ、いただきます」
高井さんは嬉しそうに笑い、袋からナゲットを取り出した。
爪楊枝に刺したそれを、僕に差し出してくれる。
「なかよく、三個と二個ね」
「なんとなくわかるし、それで」
交互にナゲットを食べながら、夜道を進む。
なんだろう、この感じ。
受験勉強で疲れた頭には、ちょうどいい休憩時間なのかもしれない。
「以心伝心? いちゃいちゃカップルだね」
「うーん、そんな雰囲気出てるのかなぁ」
高井さんはナゲットの最後のひとかけらを口に運び、考えるように首を傾げた。
どうやら、僕たちがカップルに見えるかどうか、真面目に検討しているらしい。
これは期待してもいいのだろうか。
いや、焦るな。
まだ受験も終わっていないのだ。
「だからそのお茶も一緒に飲もう。開けて」
「はい」
僕は袋からペットボトルを取り出した。
一本だけ買ったお茶。二人で飲むには、ちょうどいい。
「君に先に飲むか後に飲むか決めさせてあげる」
「うわっ、飲めない」
蓋を開けたところで、高井さんの手が止まった。
「ふつうの彼氏彼女はどうなんだろう」
「彼女が『はい』って差し出すんじゃない?」
「はい」
「いい彼女になれるよ」
「あら、褒められた」
一口、お茶を飲んでから、僕はペットボトルを差し出した。
「はい」
高井さんは少しだけためらってから、両手で受け取ると、一口、お茶を飲んだ。
そしてまた、僕がお茶を受け取る。
高井さんが口をつけたところに、僕も続いた。
間接キス、二回目。
……いや、さっきのカレーまんを含めれば、三回目か?
数えるのはやめておこう。なんだか急に恥ずかしくなってきた。
「彼氏できそう?」
「そうね、今年中にできるかも」
高井さんはまた渡されたペットボトルを傾け、少しだけお茶を飲んだ。
今年中。
今日は大晦日だ。
つまり、あと数時間しかない。
なかなか厳しい条件を提示してくるじゃないか。
・・・でも、そういうことか。
「試験終わったらカレー食べに行こうか」
「合格したらデートするの?」
「バイトしてお金貯めて旅行だ」
「いいね」
高井さんの声が弾んだ。
合格したら、二人でカレーを食べに行く。それからバイトをして、お金を貯めて、旅行にも行く。
まだ何一つ実現していないのに、未来の話だけはどんどん膨らんでいく。
不思議なものだ。
さっきまで受験に失敗することを怖がっていたのに、今はその先の楽しみを考えている。
きっと、こういう時間が必要なのだろう。
勉強だけでは、心の合格ラインに届かなくなる。
僕は自転車を押す手を止めた。
「高井さん」
「ん?」
振り返った彼女の顔は、街灯の明かりに照らされていた。
寒さで赤くなった頬。少し潤んだ目。いつもより近くに感じる距離。
僕は左手を伸ばし、高井さんの右腕をそっと引いた。
彼女が一歩、こちらへ寄る。
「初めてのキスはカレー味」
そう言って、唇を重ねた。
一瞬のことだった。
離れたあとも、高井さんは目を丸くしたまま、僕を見上げていた。
僕だって、心臓がうるさい。
勢いでやったものの、さすがに少し恥ずかしい。何か気の利いたことを言おうにも、頭の中にはカレーまんのことしか浮かんでこなかった。
やがて高井さんは、困ったように笑った。
「肉まんじゃなくてよかったわ」
……うん。
やっぱり、カレー味はなんでもうまい。
大晦日の夜。受験まで、あと三週間。
僕らの大晦日は、こんなのだった。




