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2人はカレー風味の大晦日

作者: pa2ma2note
掲載日:2026/10/22

 午後十時。自習室の退出時間だった。


 参考書を閉じ、席を立つ。肩にかけたリュックの重みを確かめながら出口へ向かっていると、背後から声が飛んできた。


「あ、徳井くん待って、わたしも帰る」


「おう」


 首だけで振り返り、短く返事をする。リュックのチャックを閉めながら追いついてきた高井さんと、並んで予備校を出た。


 外に出た瞬間、冷たい風が頬を刺す。


「さっぶ」


「寒いねー」


 今日は大晦日。世間が一年の終わりを楽しんでいるなか、僕らは受験勉強に明け暮れていた。


 吐いた息が白く広がる。街の明かりはいつもと変わらないのに、年の瀬というだけで、どこか特別な夜に感じられた。


「あと三週間しかないね」


「うん、やばい」


 受験本番まで、残りわずか。


 口にすると、胃のあたりが少し重くなる。これがプレッシャーかストレスか。あるいは後悔なのか。


 今さら焦っても仕方ないとわかっているけれど、残された時間を考えずにはいられなかった。


 自転車置き場へ向かう途中、建物の裏口から管理人さんが出てきた。手元には鍵。どうやら、最後の施錠を終えたところらしい。


「大晦日なのに俺らのために残ってたのか」


「そうみたい」


 申し訳なさと感謝を込めて、バイクにまたがる管理人さんに会釈する。エンジン音が夜道に響き、赤いテールランプが遠ざかっていった。


 さて、帰ろう。


 自転車置き場には、僕らの自転車が二台だけ残っていた。


 鍵を差し込み、カチャリと回す。続いて手袋をはめようとした、そのときだった。


「えーっ!」


「どうした?」


 高井さんの大きな声に、手袋を引っ張る手が止まった。


「鍵がない」


「落とした?」


 高井さんはコートのポケットを探り、カバンの中をガサゴソ探り、暗い足元まで手探りで確認し始めた。


 年末に落とし物とは、なかなか景気の悪い話だ。


「あースマホもない」


「忘れた?」


 僕は親指で予備校の建物を指した。


「……自習室?」


「うわっ。とりあえず電話かけてみよう」


 手袋をカバンに突っ込み、スマホを取り出す。高井さんの番号を呼び出して、発信ボタンを押した。


 プップップップッ。プルルルル、プルルルル。


「震えてる?」


「待って。……ないね。やっぱり自習室だわ」


 高井さんは自分のポケットをもう一度確かめ、諦めたように肩を落とした。


 スマホも自転車の鍵もない。しかも、頼みの管理人さんは、ついさっき帰ってしまった。


「管理人さん帰ったね、今」


「どうしよう」


 高井さんは自転車のサドルに両手を置き、困り果てた顔でうつむいた。


「明日、元日は昼からだったかな、自習室」


「明日までスマホが使えない」


 その言葉には、忘れ物をした後悔以上の悲壮感があった。


「あけおめできないね」


「ほんとだ。わたしだけ」


 新年の挨拶ができない。それは確かに、今どきの高校生にとっては一大事なのかもしれない。


「どうする?」


「開けてもらうわけにもいかないね、さすがに」


「自転車の鍵も」


「そうだ、乗れない」


 高井さんはサドルをガタガタと揺らした。自転車が動くわけでもないのに、何かせずにはいられないらしい。


「徳井くん、電話かけさせてくれる?」


「ん、どうぞ」


 スマホを渡すと、高井さんは慣れた手つきで家に電話をかけた。


 迎えを頼むつもりらしい。


 しかし、聞こえてくるのは「えー」とか「あー」とか、歯切れの悪い返事ばかり。どうやら話は思ったように進んでいない。


 最後に「わかった」と告げて、通話が切れた。


「ありがとう。お酒飲んでた、車ムリって。それで学校の同級生の電話って言ったら、一緒に帰っておいでって」


「ふっ。まぁ一緒の方向だし」


「いいの?」


「ああ、もちろん」


 高井さんはほっとしたように笑った。


 その笑顔を見て、僕はようやく帰宅できることになった自分の境遇を思い出した。


 いや、帰るだけなら問題ない。問題は、ここから先だ。


「でもこれ、二人乗りできないからね」


「そっか、やっぱり悪いから先に帰って。わたし歩いて帰るから」


「真っ暗なところもあるし、俺も怖いし」


「うん、怖いね、あの道」


「送って」


「わたしが!?」


 思わず声が重なった。


 高井さんが目を丸くする。僕も自分の発言を振り返り、少しだけ笑った。


 結局、二人のカバンを自転車のかごに入れ、僕が自転車を押して歩くことになった。


 左隣には高井さん。二人並んで歩き始めると、さっきまでの騒ぎが嘘のように静かな夜が戻ってきた。


「受験生の大晦日はこんなんか」


「そうよね。早く受験が終わってほしいけど」


「けど?」


「受からなかったらって思うと」


 声の調子が、すっと落ちた。


 普段は明るい高井さんも、やっぱり不安なのだろう。三週間後に何が待っているのか。ここまで積み重ねた努力が報われるのか。


 それは僕だって同じだった。


「受からないときのことは考えないことだよ」


「ふふ、そうだね。受かることだけ考えたほうがいいよね」


「受かったときのことも考えてないけど」


「え、そうなの?」


 高井さんがこちらを向いた。


「妄想に時間がとられて勉強できなくなる」


「受かった後の?」


「そう。でも大学生活がよくわからん」


「サークル入って、バイトして旅行して」


 高井さんは指折り数えるように言った。


「自由だーって感じ?」


「この一年、勉強以外我慢したから」


 確かに、それはそうだ。


 友達と遊ぶ時間も、好きなゲームをする時間も、休日にだらだら過ごす時間も削ってきた。合格したら、まずは思い切り羽を伸ばしたい。


「あと、彼女とデートしたい」


「ふふ、できるんじゃない? 徳井くんなら」


「そう? そう思う?」


「え? ええ、そうね……」


 高井さんの返事が、妙にぎこちなくなった。


 これは、もしや。


「もてる男はつらいねぇ」


「そうだね、ぇぇ」


 うん。たぶん、今のは少し調子に乗りすぎた。


 でも、否定されなかったのだから、よしとしよう。


 そんなことを考えているうちに、コンビニの明かりが見えてきた。


「肉まん、食べよう、そこで」


「ん? 財布もないよ、わたし」


「送ってもらうお礼だよ」


「え、なんか悪いよ」


「もてる男だから俺は。女子にやさしいんだ」


「お金で釣るのは違うと思うけど」


「いらないの?」


「空腹なのに横で食べられたら殺意が芽生えるわ」


 それは困る。


「食べかけをハイってしてもイヤでしょ」


「そのときの葛藤が目に浮かんじゃう」


「じゃあ、一緒に食べればいいじゃん」


「……そういうこと?」


 高井さんが少しだけ考え込んだ。


 どうやら、正解にたどり着いたらしい。


 コンビニに入ると、店内には僕ら以外の客がいなかった。年越しの準備は済ませたのか、店員さんもどこかのんびりしている。


 レジ横のホットスナックコーナーには、肉まん、あんまん、ピザまん。湯気の立つケースを前に、僕らは真剣な顔で品定めを始めた。


「カレーまんでいい?」


「いやでしょ」


「ピザまんにする?」


「あんまんでお願いします」


「肉まんじゃないんだ」


「息がくさくなっちゃうじゃない?」


 なるほど。そういう問題もあるのか。


 ケースの隣には、年越しそばのカップラーメンが並んでいた。


「もうあれだ、これ食べるか、年越しそば」


「却下」


「今日だけ年越しまん作れば売れたのに」


「難関国立大学に受かりそうでも、商才はなさそうね」


 手厳しい。


 結局、カレーまんとあんまん、それからナゲットとお茶を買った。支払いはスマホ決済で済ませ、僕は袋を持って店を出る。


 冷気にさらされた途端、カレーまんの温かさが恋しくなった。


「知らなかった。自転車押しながらカレーまん食べれん」


「わたしは両手があいてるけど」


「先に食べていいよ」


「食べさせてあげよっか?」


「上手にできる?」


「動物園でウサギに菜っ葉あげたことがあるから、それなりには」


「じゃあお願い。かぶりつく」


「どこに納得したのよ」


 文句を言いながらも、高井さんは僕の左腕に袋をかけ、カレーまんを取り出してくれた。


 白い湯気が立ち上る。


 差し出されたそれに、遠慮なくかぶりついた。


「うん、うまい。カレーはなんでもうまい」


「いいにおい。カレーが食べたくなるね」


「おお、中のほうアツアツ、からぁ」


「辛いんだ、これ」


 思わず歩く速度が落ちる。


 熱い。辛い。だが、うまい。


 この三つが同時に押し寄せてくるのだから、カレーという食べ物は実に罪深い。


「急いで食べると汗が噴き出すから」


「辛いの大好き」


 高井さんは僕の手元をのぞき込んだ。


「ちょっと待って、辛さが引くまで」


「オッケー、ナゲットが冷めないうちにね」


 カレーまんを持ったまま、僕はしばらく口の中を冷ますことにした。


 ふと、以前から気になっていたことを思い出す。


「インドカレー、ナンで食べるやつ食べたことない」


「手でちぎって食べるのよね。わたしも食べてみたい」


「試験終わったら絶対食べる」


「後のこと考えないんじゃないの?」


「大丈夫、食べているところは妄想してない」


「ふふ。ナンってカレーにつけるの? カレーをのせるの?」


「あれはのせるんだ。そしてパクッて一口で」


「ひとくちで、パク」


 高井さんは僕の話に合わせて、手に持っていたカレーまんにかじりついた。


 そして、ぴたりと動きを止めた。


「食べた? カレーまん」


「はっ! ごめん、食べた」


 手元のカレーまんを見つめる高井さん。


 なんだ、その反応は。


 僕は思わず笑ってしまった。


「間接チューだ」


「ええぇ、それを言っちゃう」


「恥ずかしがる?」


「いや、まぁ意識しちゃうとね」


 高井さんの頬が、ほんのり赤くなった。


 寒さのせいかもしれない。辛いカレーまんのせいかもしれない。


 ……まあ、どちらでもいい。


「だから開き直ろう。ちょうだい」


「いいの?」


「高井さんはイヤ?」


「イヤじゃないけど、うう、はずい」


 差し出されたカレーまんに、今度は僕がかじりついた。


「うん、うまい」


「そうね、確かにおいしかった」


「おいしかった? 残りはどうぞ。食べたいでしょ?」


「いいの?」


「もうふた口もないし。次はナゲットだ」


「ふふ、いただきます」


 高井さんは嬉しそうに笑い、袋からナゲットを取り出した。


 爪楊枝に刺したそれを、僕に差し出してくれる。


「なかよく、三個と二個ね」


「なんとなくわかるし、それで」


 交互にナゲットを食べながら、夜道を進む。


 なんだろう、この感じ。


 受験勉強で疲れた頭には、ちょうどいい休憩時間なのかもしれない。


「以心伝心? いちゃいちゃカップルだね」


「うーん、そんな雰囲気出てるのかなぁ」


 高井さんはナゲットの最後のひとかけらを口に運び、考えるように首を傾げた。


 どうやら、僕たちがカップルに見えるかどうか、真面目に検討しているらしい。


 これは期待してもいいのだろうか。


 いや、焦るな。


 まだ受験も終わっていないのだ。


「だからそのお茶も一緒に飲もう。開けて」


「はい」


 僕は袋からペットボトルを取り出した。


 一本だけ買ったお茶。二人で飲むには、ちょうどいい。


「君に先に飲むか後に飲むか決めさせてあげる」


「うわっ、飲めない」


 蓋を開けたところで、高井さんの手が止まった。


「ふつうの彼氏彼女はどうなんだろう」


「彼女が『はい』って差し出すんじゃない?」


「はい」


「いい彼女になれるよ」


「あら、褒められた」


一口、お茶を飲んでから、僕はペットボトルを差し出した。


「はい」


 高井さんは少しだけためらってから、両手で受け取ると、一口、お茶を飲んだ。


 そしてまた、僕がお茶を受け取る。


 高井さんが口をつけたところに、僕も続いた。


 間接キス、二回目。


 ……いや、さっきのカレーまんを含めれば、三回目か?


 数えるのはやめておこう。なんだか急に恥ずかしくなってきた。


「彼氏できそう?」


「そうね、今年中にできるかも」


 高井さんはまた渡されたペットボトルを傾け、少しだけお茶を飲んだ。


 今年中。


 今日は大晦日だ。


 つまり、あと数時間しかない。


 なかなか厳しい条件を提示してくるじゃないか。


 ・・・でも、そういうことか。


「試験終わったらカレー食べに行こうか」


「合格したらデートするの?」


「バイトしてお金貯めて旅行だ」


「いいね」


 高井さんの声が弾んだ。


 合格したら、二人でカレーを食べに行く。それからバイトをして、お金を貯めて、旅行にも行く。


 まだ何一つ実現していないのに、未来の話だけはどんどん膨らんでいく。


 不思議なものだ。


 さっきまで受験に失敗することを怖がっていたのに、今はその先の楽しみを考えている。


 きっと、こういう時間が必要なのだろう。


 勉強だけでは、心の合格ラインに届かなくなる。


 僕は自転車を押す手を止めた。


「高井さん」


「ん?」


 振り返った彼女の顔は、街灯の明かりに照らされていた。


 寒さで赤くなった頬。少し潤んだ目。いつもより近くに感じる距離。


 僕は左手を伸ばし、高井さんの右腕をそっと引いた。


 彼女が一歩、こちらへ寄る。


「初めてのキスはカレー味」


 そう言って、唇を重ねた。


 一瞬のことだった。


 離れたあとも、高井さんは目を丸くしたまま、僕を見上げていた。


 僕だって、心臓がうるさい。


 勢いでやったものの、さすがに少し恥ずかしい。何か気の利いたことを言おうにも、頭の中にはカレーまんのことしか浮かんでこなかった。


 やがて高井さんは、困ったように笑った。


「肉まんじゃなくてよかったわ」


 ……うん。


 やっぱり、カレー味はなんでもうまい。


 大晦日の夜。受験まで、あと三週間。


 僕らの大晦日は、こんなのだった。


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