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勇者に用済みと捨てられた聖女ですが、廃墟で拾ってくれた男が一生に一度の力で私を救ってくれました

作者: 桜木ひより
掲載日:2026/06/17

雨が降っていた。


廃村の軒先で、私は膝を抱えて空を見ていた。

屋根の半分は抜け落ちているから、肩だけが濡れる。


直そうと思えば直せた。聖女の力で、これくらいの修繕はわけもない。


でもなぜか、そうする理由が思い浮かばなかった。


自分が今後どこへ行くのかも、まだ決めていなかった。



勇者様の遠征が終わってから、もう三日が経っていた。


「聖女はもう用済みだ。自分の国へ帰れ」


そう言ったのは、副官でも隊長でもなく、勇者様ご本人だった。


勇者様は笑顔だった。


付け足したかのように、「よく頑張ってくれた」というねぎらいの言葉もついていた。


だから余計に、その言葉が体の奥深くまで残ることになった。



半年間、私は回復魔法を使い続けた。


戦線で倒れた兵を起こし、勇者様の消耗を補い、死にかけた村人の傷をひとつひとつ塞いだ。

魔力が底をつくたびに水を飲み、眠り、また使った。


「聖女は使えば使うほど強くなる」という勇者様の言葉を信じながら。


最初の二ヶ月は、本当にそう信じていた。


回復魔法を使うたびに、他者の痛みが自分の体を通り抜けていく感覚があった。

塞いだ傷の数だけ、自分の体のどこかが薄くなっていくような気がした。


それを「成長の証」だと思い込んでいた。


今となっては、ただの消耗だったと分かる。


傷を癒すたびに自分が削れていくのを、誰も教えてくれなかった。

聖女として選ばれた日から、誰も教えてくれなかった。



最後の大戦で、魔物の爪が私の右腹を掠った。


痛みには気づいていた。ただ、自分のことなど気にしていられなかった。


戦場では聖女が倒れるわけにいかない。

傷口は閉じているように見えた。だからもう治ったものだと思い込んでいた。



勇者様一行から捨てられた後、まず廃村を選んだのは、人に会いたくなかったからだ。


英雄譚の聖女として賛美されるのも、捨てられたと知られるのも、どちらも嫌だった。


この廃村なら誰も来ない、崩れかけた壁が雨をいくらかしのいでくれる。それだけで十分だった。




人の気配があったのは、ここにきて二日目の夜だった。


岩に腰かけている。見知らぬ男がいた。

火も起こさず、両手を膝に置いたまま、ただそこにいた。


こちらには顔を向けない。

気づいているのかいないのか、完全に無視している。


逃げようとして、腰が上がらなかった。


立ち上がりかけて、軒の柱に手をついた。足は思うように動かなかった。


私はどうやら、自分で思っていたよりずっと消耗していたらしい。


男がこちらを見た。目が合った。


暗い虹彩で、感情が読めない。顔の右側に古い傷跡がある。見る限り、何年も前のものだろうか。


刃物ではなく、爪か牙で引き裂かれたような形をしていた。


「……何者ですか」


声が掠れていた。自分でも驚くほど細かった。


男はしばらく黙っていた。

それから、まるで面倒な計算式を終わらせるように口を開いた。


「ただの通りすがりだ」


名前を言わなかった。どこから来たかも言わなかった。


私はその場に座り直して、男を見た。


体格がいい。手が荒れている。


この場所に慣れているのか、あるいは似たような場所で長く過ごしてきたのか。

どちらにしても、行き場を失った人間の顔をしていた。


…私と同じような顔を、していた。


それ以上は考えなかった。考える余力がなかった。



翌朝、目を覚ますと傍に水と干し肉が置いてあった。


男は少し離れた場所で、崩れた石壁を黙々と積み直していた。

ガンッ、ガンッと石が重なる音が、廃村の静寂に一定のリズムを刻んでいた。


なぜそんなことをしているのか聞こうとして、やめた。


私は水を飲み、干し肉を半分だけ食べた。男は振り返らなかった。


昼過ぎ、空が少し明るくなった。

男が石壁の修繕の手を止めて、水を飲んでいた。


私は少し迷ってから、口を開いた。


「……あなたは、勇者様を知っていますか」


「名前くらいは」


「勇者様のことを…どう思いますか」


男はしばらく沈黙した。水の入った革袋を膝に置いて、遠くを見た。


焦土になった畑の跡を、何かを見定めるように眺めていた。


「英雄だろう」


「……そうですね」


皮肉なのか本心なのか、声の調子からは読めなかった。


私もそれ以上聞かなかった。

英雄の話をしたかったわけではなかった、と気がついたのは、その後だ。


ただ、この男が何を知っていて、何を思っているのかを、少しだけ確かめたかっただけだった。


二日目の夕方、雨が止んだ。男が今度は屋根の修繕を始めた。


私の寝ていた場所の真上、抜け落ちた部分を板で塞ごうとしている。


板を運ぶ背中が、無駄のない動きをしていた。

慣れた体の使い方だ、きっと何かを長く続けてきた人間の動きだと思った。


「私の分まで、しなくていいですから」


「うるさい」


端的だった。言い訳も説明もない。

ただそれだけ言って、また作業を続けた。板を渡す音と、釘を打つ音が交互に響いた。


三日目の朝、粥が出た。干し肉を刻んで煮たものだ。


塩気が強くて、あまり上手くはなかった。でも温かかった。


私は全部食べた。男は自分の分を黙って食べた。

食事の間、一言も交わさなかった。


食べ終えてから、私はふと思った。


この男は毎朝ここに来て、食料を持ってくる。


そして廃村を修繕する。でも夜になると、どこかへ消える。


どこに寝ているのか、何を食べているのか、私は何も知らない。

なぜ見ず知らずの自分を助けるのかも分からない。


「あの……名前を、聞いてもいいですか」


男は少し間を置いてから、首を振った。


「なぜですか」


「知らない方がいいからだ」


それきりだった。理由を教える気はないらしかった。


私も、それ以上は聞かなかった。


知らない方がいいというのが、追い払いたいからではなく、親切心から来た言葉だと分かったからだ。


理由は分からなかったけれど、そう感じた。



三日目の午後、私は一度だけ廃村を出ようとした。


このまま厄介になり続けるわけにもいかない。


体が動くなら、王都に戻って事情を説明すれば、聖女としての籍を取り戻せるかもしれない。


あるいは、他の街で別の仕事を探すこともできる。

この聖女の力があれば、どこかで役に立てる。


そう自分に言い聞かせて、立ち上がった。

五歩歩いたところで膝が痛み、歩くことがままならず、座り込んでしまった。



男が後ろから腕を掴んだ。


大きな手が二の腕を支えていた。

引き起こすでも、突き放すでもなく、ただそこにある手だった。


「無理に動くな」


「で、でも」


「今は動かない方がいい」


返す言葉がなかった。


どこへ行くつもりだったのかと聞かれると思ったが、男は何も聞かなかった。

責めるでも、笑うでもなく、ただ私をもとの場所まで連れ戻して、次の石を積み始めた。


その背中を見ながら、私はようやく気がついた。


私には帰る場所が、もうないのかもしれない。


聖女という肩書きは、勇者様の遠征と一緒に終わった。

組織に戻れば、また別の遠征に駆り出されるだけだ。




私は夕方の火の前で彼に、「なぜここにいるんですか」と聞いた。


「きっとお前と同じ理由だ」


それきりだった。


四日目の朝、私は立ち上がれなかった。


右腹が、じわりと熱を持っていた。


無視し続けた傷が、ついに悲鳴を上げ始めていた。


熱が体の芯から滲み出てくるような感覚で、息を吸うたびに鈍い痛みが走った。毛布を掴もうとした指が、うまく動かない。


半身を起こそうとして、また倒れた。

冷たい地面に頬がつく。土の匂いがした。


男が来て、膝をついた。私の右腹を一瞥した。


素早く、的確な視線だった。傷の深さを見積もっているのが分かった。


「すみません、大したことないので」


「もう無理するな」


怒鳴るわけでも、命令するわけでもなかった。



男が私の腹に右手を当てた。


ひやりとした、大きな手だった。傷の上を一度だけ覆う。左手は自分の膝に置いたままだった。


その左手の甲に、薄く光る紋様があった。


菱形を組み合わせた複雑な刻印で、淡い青白い光を帯びている。


聖女として各地を巡る中で、似たような刻印を見たことがあった。魔族が持つ、特別な力の封印。

一生に一度しか使えない代わりに、何にでも使えるというスキルの刻印だ。



その刻印は、まだ輝いていた。

その輝きは、力が使われていない証拠だ。


意識が遠のく中で、三十年かけて守ってきたのかもしれないと、ぼんやり思った。


闇に落ちる前に、男の低い声だけが聞こえた。


「……大人しくしてろ」


目が覚めると、痛みがなかった。


右腹に触れる。熱もない。


傷の縁が盛り上がった感触もない。

まるで最初から何もなかったかのように、肌がなめらかだった。


起き上がる。体が軽かった。


消耗が取れているだけでなく、魔力の底にかすかな温もりがある。


これは回復魔法ではない。聖女である私には分かる。


もっと根本的な何かが使われた跡だ。存在そのものに介入する、特別な力。




男は外で火を起こしていた。


私はゆっくり立ち上がり、出口から彼の背中を見た。

左手の甲に、昨日あった刻印がなかった。


足が震えた。

泣くのとは違う震えで、体が何かを理解しようとしていた。


「……あなたのスキルって」


男は振り返らなかった。


「一度だけ、使えるものでしたよね」


「飯が冷める、早く食え」


「私のために、使ったんですか」


沈黙が続いた。火の爆ぜる音だけが、廃村の朝に響いた。


「……ああ」


返事は一言だった。

それ以上の説明も、言い訳も、何もなかった。


胸の奥に、重いものが落ちてきた。

沈んでいくのに、温かかった。


勇者様に「用済み」と言われたとき、こんな感覚はなかった。半年分の疲労が体から抜けるように、肩の力が落ちた。


三十年間、誰にも使わずに取っておいた力を。廃墟で名前も知らずに出会った聖女に、この男は何も言わず使った。


「後悔していないのですか」


なぜそう聞いたのか、自分でも分からなかった。


怒っていいのか、泣いていいのか、どちらも分からなかった。だから一番知りたいことを、そのまま口にした。


男がようやく振り返った。

こちらを見た。逃げるでも、目を逸らすでもなく、真っすぐに。


「お前が生きてるから、していない」


それだけだった。


私は何も言えなかった。


右の手のひらで自分の腹を押さえた。


傷はない。熱もない。ただそこに、あの手が触れた記憶だけがあった。


半年間、役に立ち続けた。


毎日誰かのために魔法を使い、毎日誰かの傷を塞いだ。


それでも最後は「用済み」の一言で終わった。


誰一人、引き留めてくれなかった。誰一人、名前を呼んで追いかけてこなかった。



なのにこの男は、名前も聞かずに助けた。

何年間も取っておいたであろう、たった一度の力を、何も言わずに見ず知らずの人間に使った。



目の奥が、じわりと熱くなった。


戦場で兵士が死んでも、村が焼けても、勇者様に用済みと言われても、泣かなかった。


なのに今、廃村の朝に、名前も知らない男の前で、涙腺が壊れそうになっていた。


「お礼がしたいです……あなたの名前を、まだ聞いていませんでした」


声が、また掠れていた。


「ヴァルだ」


名前を教えてくれた。

その意味がどこにあるのか、自分でも分からなかった。



「私はエルナです」


「ああ、知ってる」


低い声で、事もなげに言った。


知っていたのだ、最初から。なぜ知っているのか、聞かなかった。


聞かなくてもいいと思った。


いつかこの男が話す気になったとき、教えてくれるだろう。根拠などなかったが、そう思えた。



火がゆっくり燃えていた。廃村のどこかで、小鳥が一声鳴いた。



荒廃した大地に、朝の光が差していた。


勇者が去り、組織に捨てられ、それでもここに生きている。


一生にの一度の力を見ず知らずの聖女に使った男の側で、私は初めてちゃんと腹が減っていることに気がついた。


それがタイミングとしてはおかしいことは分かっていた。

でも、だからこそ、口に出せた。


「……その粥、もう少しもらえますか」


男は何も言わずに立ち上がって、鍋の方へ歩いていった。


少しして、粥が入った器が戻ってきた。


昨日より塩気が薄かった。味付けを変えたのだと気がついたのは、もう半分食べてからだった。


この男は、何も言わない。言わないけれど、覚えている。昨日の塩気が強すぎたことも、私が全部食べたことも、ちゃんと覚えていた。


それが、答えだった。


【完】


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