勇者に用済みと捨てられた聖女ですが、廃墟で拾ってくれた男が一生に一度の力で私を救ってくれました
雨が降っていた。
廃村の軒先で、私は膝を抱えて空を見ていた。
屋根の半分は抜け落ちているから、肩だけが濡れる。
直そうと思えば直せた。聖女の力で、これくらいの修繕はわけもない。
でもなぜか、そうする理由が思い浮かばなかった。
自分が今後どこへ行くのかも、まだ決めていなかった。
勇者様の遠征が終わってから、もう三日が経っていた。
「聖女はもう用済みだ。自分の国へ帰れ」
そう言ったのは、副官でも隊長でもなく、勇者様ご本人だった。
勇者様は笑顔だった。
付け足したかのように、「よく頑張ってくれた」というねぎらいの言葉もついていた。
だから余計に、その言葉が体の奥深くまで残ることになった。
半年間、私は回復魔法を使い続けた。
戦線で倒れた兵を起こし、勇者様の消耗を補い、死にかけた村人の傷をひとつひとつ塞いだ。
魔力が底をつくたびに水を飲み、眠り、また使った。
「聖女は使えば使うほど強くなる」という勇者様の言葉を信じながら。
最初の二ヶ月は、本当にそう信じていた。
回復魔法を使うたびに、他者の痛みが自分の体を通り抜けていく感覚があった。
塞いだ傷の数だけ、自分の体のどこかが薄くなっていくような気がした。
それを「成長の証」だと思い込んでいた。
今となっては、ただの消耗だったと分かる。
傷を癒すたびに自分が削れていくのを、誰も教えてくれなかった。
聖女として選ばれた日から、誰も教えてくれなかった。
最後の大戦で、魔物の爪が私の右腹を掠った。
痛みには気づいていた。ただ、自分のことなど気にしていられなかった。
戦場では聖女が倒れるわけにいかない。
傷口は閉じているように見えた。だからもう治ったものだと思い込んでいた。
勇者様一行から捨てられた後、まず廃村を選んだのは、人に会いたくなかったからだ。
英雄譚の聖女として賛美されるのも、捨てられたと知られるのも、どちらも嫌だった。
この廃村なら誰も来ない、崩れかけた壁が雨をいくらかしのいでくれる。それだけで十分だった。
人の気配があったのは、ここにきて二日目の夜だった。
岩に腰かけている。見知らぬ男がいた。
火も起こさず、両手を膝に置いたまま、ただそこにいた。
こちらには顔を向けない。
気づいているのかいないのか、完全に無視している。
逃げようとして、腰が上がらなかった。
立ち上がりかけて、軒の柱に手をついた。足は思うように動かなかった。
私はどうやら、自分で思っていたよりずっと消耗していたらしい。
男がこちらを見た。目が合った。
暗い虹彩で、感情が読めない。顔の右側に古い傷跡がある。見る限り、何年も前のものだろうか。
刃物ではなく、爪か牙で引き裂かれたような形をしていた。
「……何者ですか」
声が掠れていた。自分でも驚くほど細かった。
男はしばらく黙っていた。
それから、まるで面倒な計算式を終わらせるように口を開いた。
「ただの通りすがりだ」
名前を言わなかった。どこから来たかも言わなかった。
私はその場に座り直して、男を見た。
体格がいい。手が荒れている。
この場所に慣れているのか、あるいは似たような場所で長く過ごしてきたのか。
どちらにしても、行き場を失った人間の顔をしていた。
…私と同じような顔を、していた。
それ以上は考えなかった。考える余力がなかった。
翌朝、目を覚ますと傍に水と干し肉が置いてあった。
男は少し離れた場所で、崩れた石壁を黙々と積み直していた。
ガンッ、ガンッと石が重なる音が、廃村の静寂に一定のリズムを刻んでいた。
なぜそんなことをしているのか聞こうとして、やめた。
私は水を飲み、干し肉を半分だけ食べた。男は振り返らなかった。
昼過ぎ、空が少し明るくなった。
男が石壁の修繕の手を止めて、水を飲んでいた。
私は少し迷ってから、口を開いた。
「……あなたは、勇者様を知っていますか」
「名前くらいは」
「勇者様のことを…どう思いますか」
男はしばらく沈黙した。水の入った革袋を膝に置いて、遠くを見た。
焦土になった畑の跡を、何かを見定めるように眺めていた。
「英雄だろう」
「……そうですね」
皮肉なのか本心なのか、声の調子からは読めなかった。
私もそれ以上聞かなかった。
英雄の話をしたかったわけではなかった、と気がついたのは、その後だ。
ただ、この男が何を知っていて、何を思っているのかを、少しだけ確かめたかっただけだった。
二日目の夕方、雨が止んだ。男が今度は屋根の修繕を始めた。
私の寝ていた場所の真上、抜け落ちた部分を板で塞ごうとしている。
板を運ぶ背中が、無駄のない動きをしていた。
慣れた体の使い方だ、きっと何かを長く続けてきた人間の動きだと思った。
「私の分まで、しなくていいですから」
「うるさい」
端的だった。言い訳も説明もない。
ただそれだけ言って、また作業を続けた。板を渡す音と、釘を打つ音が交互に響いた。
三日目の朝、粥が出た。干し肉を刻んで煮たものだ。
塩気が強くて、あまり上手くはなかった。でも温かかった。
私は全部食べた。男は自分の分を黙って食べた。
食事の間、一言も交わさなかった。
食べ終えてから、私はふと思った。
この男は毎朝ここに来て、食料を持ってくる。
そして廃村を修繕する。でも夜になると、どこかへ消える。
どこに寝ているのか、何を食べているのか、私は何も知らない。
なぜ見ず知らずの自分を助けるのかも分からない。
「あの……名前を、聞いてもいいですか」
男は少し間を置いてから、首を振った。
「なぜですか」
「知らない方がいいからだ」
それきりだった。理由を教える気はないらしかった。
私も、それ以上は聞かなかった。
知らない方がいいというのが、追い払いたいからではなく、親切心から来た言葉だと分かったからだ。
理由は分からなかったけれど、そう感じた。
三日目の午後、私は一度だけ廃村を出ようとした。
このまま厄介になり続けるわけにもいかない。
体が動くなら、王都に戻って事情を説明すれば、聖女としての籍を取り戻せるかもしれない。
あるいは、他の街で別の仕事を探すこともできる。
この聖女の力があれば、どこかで役に立てる。
そう自分に言い聞かせて、立ち上がった。
五歩歩いたところで膝が痛み、歩くことがままならず、座り込んでしまった。
男が後ろから腕を掴んだ。
大きな手が二の腕を支えていた。
引き起こすでも、突き放すでもなく、ただそこにある手だった。
「無理に動くな」
「で、でも」
「今は動かない方がいい」
返す言葉がなかった。
どこへ行くつもりだったのかと聞かれると思ったが、男は何も聞かなかった。
責めるでも、笑うでもなく、ただ私をもとの場所まで連れ戻して、次の石を積み始めた。
その背中を見ながら、私はようやく気がついた。
私には帰る場所が、もうないのかもしれない。
聖女という肩書きは、勇者様の遠征と一緒に終わった。
組織に戻れば、また別の遠征に駆り出されるだけだ。
私は夕方の火の前で彼に、「なぜここにいるんですか」と聞いた。
「きっとお前と同じ理由だ」
それきりだった。
四日目の朝、私は立ち上がれなかった。
右腹が、じわりと熱を持っていた。
無視し続けた傷が、ついに悲鳴を上げ始めていた。
熱が体の芯から滲み出てくるような感覚で、息を吸うたびに鈍い痛みが走った。毛布を掴もうとした指が、うまく動かない。
半身を起こそうとして、また倒れた。
冷たい地面に頬がつく。土の匂いがした。
男が来て、膝をついた。私の右腹を一瞥した。
素早く、的確な視線だった。傷の深さを見積もっているのが分かった。
「すみません、大したことないので」
「もう無理するな」
怒鳴るわけでも、命令するわけでもなかった。
男が私の腹に右手を当てた。
ひやりとした、大きな手だった。傷の上を一度だけ覆う。左手は自分の膝に置いたままだった。
その左手の甲に、薄く光る紋様があった。
菱形を組み合わせた複雑な刻印で、淡い青白い光を帯びている。
聖女として各地を巡る中で、似たような刻印を見たことがあった。魔族が持つ、特別な力の封印。
一生に一度しか使えない代わりに、何にでも使えるというスキルの刻印だ。
その刻印は、まだ輝いていた。
その輝きは、力が使われていない証拠だ。
意識が遠のく中で、三十年かけて守ってきたのかもしれないと、ぼんやり思った。
闇に落ちる前に、男の低い声だけが聞こえた。
「……大人しくしてろ」
目が覚めると、痛みがなかった。
右腹に触れる。熱もない。
傷の縁が盛り上がった感触もない。
まるで最初から何もなかったかのように、肌がなめらかだった。
起き上がる。体が軽かった。
消耗が取れているだけでなく、魔力の底にかすかな温もりがある。
これは回復魔法ではない。聖女である私には分かる。
もっと根本的な何かが使われた跡だ。存在そのものに介入する、特別な力。
男は外で火を起こしていた。
私はゆっくり立ち上がり、出口から彼の背中を見た。
左手の甲に、昨日あった刻印がなかった。
足が震えた。
泣くのとは違う震えで、体が何かを理解しようとしていた。
「……あなたのスキルって」
男は振り返らなかった。
「一度だけ、使えるものでしたよね」
「飯が冷める、早く食え」
「私のために、使ったんですか」
沈黙が続いた。火の爆ぜる音だけが、廃村の朝に響いた。
「……ああ」
返事は一言だった。
それ以上の説明も、言い訳も、何もなかった。
胸の奥に、重いものが落ちてきた。
沈んでいくのに、温かかった。
勇者様に「用済み」と言われたとき、こんな感覚はなかった。半年分の疲労が体から抜けるように、肩の力が落ちた。
三十年間、誰にも使わずに取っておいた力を。廃墟で名前も知らずに出会った聖女に、この男は何も言わず使った。
「後悔していないのですか」
なぜそう聞いたのか、自分でも分からなかった。
怒っていいのか、泣いていいのか、どちらも分からなかった。だから一番知りたいことを、そのまま口にした。
男がようやく振り返った。
こちらを見た。逃げるでも、目を逸らすでもなく、真っすぐに。
「お前が生きてるから、していない」
それだけだった。
私は何も言えなかった。
右の手のひらで自分の腹を押さえた。
傷はない。熱もない。ただそこに、あの手が触れた記憶だけがあった。
半年間、役に立ち続けた。
毎日誰かのために魔法を使い、毎日誰かの傷を塞いだ。
それでも最後は「用済み」の一言で終わった。
誰一人、引き留めてくれなかった。誰一人、名前を呼んで追いかけてこなかった。
なのにこの男は、名前も聞かずに助けた。
何年間も取っておいたであろう、たった一度の力を、何も言わずに見ず知らずの人間に使った。
目の奥が、じわりと熱くなった。
戦場で兵士が死んでも、村が焼けても、勇者様に用済みと言われても、泣かなかった。
なのに今、廃村の朝に、名前も知らない男の前で、涙腺が壊れそうになっていた。
「お礼がしたいです……あなたの名前を、まだ聞いていませんでした」
声が、また掠れていた。
「ヴァルだ」
名前を教えてくれた。
その意味がどこにあるのか、自分でも分からなかった。
「私はエルナです」
「ああ、知ってる」
低い声で、事もなげに言った。
知っていたのだ、最初から。なぜ知っているのか、聞かなかった。
聞かなくてもいいと思った。
いつかこの男が話す気になったとき、教えてくれるだろう。根拠などなかったが、そう思えた。
火がゆっくり燃えていた。廃村のどこかで、小鳥が一声鳴いた。
荒廃した大地に、朝の光が差していた。
勇者が去り、組織に捨てられ、それでもここに生きている。
一生にの一度の力を見ず知らずの聖女に使った男の側で、私は初めてちゃんと腹が減っていることに気がついた。
それがタイミングとしてはおかしいことは分かっていた。
でも、だからこそ、口に出せた。
「……その粥、もう少しもらえますか」
男は何も言わずに立ち上がって、鍋の方へ歩いていった。
少しして、粥が入った器が戻ってきた。
昨日より塩気が薄かった。味付けを変えたのだと気がついたのは、もう半分食べてからだった。
この男は、何も言わない。言わないけれど、覚えている。昨日の塩気が強すぎたことも、私が全部食べたことも、ちゃんと覚えていた。
それが、答えだった。
【完】




