第10話 これからよろしく
敵はどうもデカい犬らしい。
ケルベロスとかいう首が三つの、それぞれで火炎と凍気と電撃を吐いてくる、滅茶苦茶強い犬の魔物らしい。
だから私は馬車の中で一人震えていた。
「無理ですよぉ……絶対無理無理……」
だって私は、ただの仕立て屋の町娘のマリーなんだから。
道中、冒険者用のお店で買った強毒ポーションと短剣を気休めに握って震える。
こんなものが通用するなら、国の軍隊でどうにかなるはずだ。
だから、希望があるとすれば――あの人。
場所は伝えた。結構無理やりだったけど、私の本心と一緒に伝わったと信じたい。
だからお願いします。
どうかもう一度、私を助けてください。
二日の日程を経て、無慈悲に馬車は峡谷の前で止まった。
そこから少し歩けば、ケルベロスの潜む谷間に出られるらしい。
「では、ご武運を。私はここで待機しています」
ヘルミーナはそう言って、馬車の御者台にふわりと駆けあがって座り込んだ。
私は一人、勝てるはずのない怪物のいる谷間へと、まるで生贄に出されたような気分で歩き始めた。
しかし話に聞く限り、どうやらケルベロスは今の時間はちょうど寝ているらしい。だからもしかしたら、ワンチャン。寝込みを襲って毒を使えば、私でも倒せるかも? コートのポケットから短剣と毒薬を取り出して、私はゆっくりと静かに歩いていく。
――いた。
灰色の体毛をした三つ首の獣が、体を丸めて寝ていた。
だが、デカすぎた。
馬の数倍、なんてもんじゃない。家の二つ三つはありそうなサイズだ。
だらりと垂れ下がった私の左手から強毒ポーションが足元に落ちた。
割れた中身が無意味に飛び散る。同時に右手から滑り落ちた短剣がからからと、石だらけの地面を空しく転がった。
身体の震えは止まっていた。本能が悟ったからだ。
「あ、これ絶対無理死んだわ」と。
そして、私の終わりが目を覚ました。
『グルルルル……』
三つの首が同時に頭をもたげる。それぞれの口からそれぞれの属性を帯びた吐息が漏れる。そして六つの獰猛な瞳が私を見つめた。
ごめんなさい。産んでくれたお母さん、育ててくれた叔母さん、あと借金残して蒸発したカスのお父さん、本当にごめんなさい。
あなたたちの娘はいまから、犬のエサになります。
そして恐怖のあまり目を閉じることすら忘れた私は、それを目撃した。
目に前に、地獄の門のように開かれた三つの大きな顎――ではなく。
その、上。
谷間の空に飛び降りた、きらめく剣を握った男の人を。
そして刹那。
「――‼」
大樹よりも太い三つの首が、同時に斬り飛ばされた。
ほとんど爆発するように吹き飛んだ三つ首が峡谷の崖に激突して埋まる。
残された胴体はゆっくりと崩れ落ちて、三つの断面から濁流のように血を流してもう動かない。
そして固まったままの私の前に、その人は着地した。
「えと、あの、その」
彼はぼそぼそと、呟くように言った。
「終わった、けど」
※ ※ ※ ※ ※
俺は剣を消して、悄然と佇むマリーに恐る恐る声をかけた。やはり、他人に自分から話しかける方がよっぽど緊張する。
するとマリーはポロポロと涙を流して
「う、ぅぅ、わあああん……! 怖゛か゛っ゛た゛よ゛ぉぉぉおお!」
「っ⁉」
砲弾のような勢いで、マリーは俺の胸元に飛び込み、強くしがみつくように抱き着いてきた。
俺は息をのんだ。冷や汗が止まらない。落ち着かない。
他人が近い。ゼロ距離。体に触れている。凄まじい緊張に呼吸が苦しくなる。
「どぼじでもっどはやぐきてぐれなかったんですかぁぁぁあ! わ、わたし、もう、死ぬかと思ってぇぇえええ!」
ぽかぽかと力ない拳に胸を叩かれる。ぐしゃぐしゃになった顔がこすりつけられる。色んな汁がシャツにつく。やめてほしい。
しかし俺の窮状をよそに泣き続けるマリーの華奢な肩は、ひどく震えていた。細い足はほとんど体重を支えられないのか、俺の胸に体重をすべて預けてくる。
それはとても軽くて、そして何より柔らかく、温かい体温だった。
あの地獄では、一度も触れたことのないもの。
人間の、温かさだった。
「……」
不意に、俺は心臓が別の音を立てるのを聴いた。
他人が触れているからだけじゃない、何か別の種類の緊張だった。
とにかく恥ずかしくて落ち着かないのは同じ。でも一拍ごとに脳天までを痺れるように突き抜ける心臓の鼓動は、不快なようでいてそうではないような、不思議なもので。
それがなぜだか分からないまま、俺はどうしようかと必死に考えて。
結局、マリーが泣き止むまで、その背中をポンポンと優しく叩くことにした。
その後。
「さすがは「滅びの魔女」。見事な腕前ですね」
「ええ。まあね」
マリーは俺と一緒に谷を抜けて馬車に戻り、待機していたらしきヘルミーナにケルベロスの討伐を報告した。
そこでふと、ヘルミーナは俺に視線を移して言った。
「ところで、あなたは? どこかで見た顔ですが」
「私が連れてきたのよ。その……」
返答に窮した俺よりも先に、マリーが答えた。
「荷物持ちとして」
――帰りの馬車の中で。
俺の対面に座るマリーが、以下のように切り出した。
「というわけで、スルトさん。あなたはこれから、私の荷物持ちをしてもらいます」
「なんで……?」
「だって、助けに来てくれたってことは……責任とってくれるってことですよね⁉」
マリーは続けてまくしたてた。
「バレたら処刑待ったなしなんですから、私はもう最強の魔女をやめられないんですよ! だからスルトさんは責任もって、これからずーっと! 一生! 私の側で私のこと守りながら、私の代わりに今回みたいな危険な依頼を片付けてくださいっ!」
「一生は嫌だなあ……」
とはいえ。やはり俺も責任を感じないわけではないのだ。だから。
「まあ、いいよ。わかった。当面は」
「ホントですか⁉」
冒険者稼業で避けられない人づきあいを、彼女が代わりにやってくれるのであれば俺としては非常に助かる。
別に他にやりたいこともないのだ。田舎で農作業しているよりは、彼女に付き合って過ごす方がまだ、多少は楽しそうかもしれない。
そしてマリーと話すのは面倒だし嫌だけれど、なぜかそれだけじゃない感じがした。もしかしたら俺は少しだけ、彼女に関しては慣れたのかもしれない。
「じゃあ、あの、その……」
そこで、マリーはなぜか顔を赤くした。
「これからよろしくお願いします! スルトさん!」
そしておずおずと差し出された手を、俺は遠慮がちに握って――。
※ ※ ※ ※ ※
今に至る。という流れだったことを、俺は宿屋で思い出した。
過去の話を一通りしゃべると、マリーは唖然とした表情をしていた。まあ信じられない話だし、無理もないだろう。
「え……なんですかその天使、非道いというかもはやカス過ぎません……?」
「うん」
頷く。俺にとっては遠い昔過ぎて最早怒りも恨みも湧いてこないが、確かに最低最悪な存在だった。できれば二度と出会いたくはない。
マリーは俺の反応が拍子抜けだったのか、やや次の句を迷ったように。
「で、でもえっと、スルトさんが馬鹿みたいに強い理由は分かりました。それに人見知りが激しすぎるというか率直にコミュ障なのも得心しました」
「うん」
それから、マリーはどうしてか頬を赤らめながら言った。
「スルトさん!」
「なに」
「ちょっと動かないで、あと出来れば目を閉じてください!」
言われた通りにすると、頭を撫でられる感触がした。
柔らかくて小さい手のひらが髪をかき分ける、くすぐったさと温かさがどこか落ち着かない。
「……その、あの、私なんかが言っていいのかわからないですけど」
薄目を開けると、マリーは真っ赤な顔で微笑んでいた。
「よく頑張りましたね。すごいです、スルトさん」
……少し経つと、マリーはもう寝ると言った。
俺も自分の部屋に戻った。寝てる間もそばにいろと言われたが無視した。さすがに今日はもう一人になりたい。
「……」
ベッドに横になって目を閉じる。
頭にはまだマリーの手のぬくもりが残っていて、それがどうにも落ち着かず、俺は何度も寝返りを打った。




