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(冬華視点)
陽太が慌てて近寄ってくる気配がした。
視界が少しクルクルしていて。お風呂でのぼせちゃったみたいに胸がバクバクする。
体に力が入らなくて、テーブルに突っ伏してしまった。
「……ん……大丈夫……だよ……多分」
「おい冬華、全然大丈夫に見えないぞ……まってろ。水、持ってくるからな」
キッチンの方から水を汲む音が聞こえた後で、すぐに陽太が戻ってきた。
「ほら、冬華。水だぞ、飲んでくれ」
「……うん、陽太。ありがと……」
水を受け取って、ちびちびと飲む。
冷たい水が喉を通ると、少しだけ意識がはっきりする……様な気がする。
でも、どこかに思考に薄い膜がかかったような、眠いような。
普段なら絶対に口にしちゃいけないはずの言葉が、喉元まで出かかっているのを止められない。
「……ねえ、陽太~」
「ん? どうした」
「……私ね。本当は頑張ってるんだ。すっごく」
「……おう、それは、なんとなく分かってたよ」
「ほんとに? ……私ね、毎日毎日、陽太に嫌われないようにって、考えてるの」
「は? 俺が冬華のこと嫌いになるわけないだろ」
「そうなの? ……でも私、とっても怖いの」
口が勝手に動いて止められない。
これ以上はダメって思っているのに。
思ったことが口からサラサラこぼれ落ちていく。
「……私ってさ、いわゆるその他大勢でしょ? 私は……主人公じゃないから。どれだけ頑張っても、全く敵わなくて。いっつも負けてばかりで。ほんとは……陽太にもっとふさわしい人がいるってことくらい、わかってるの……」
話していて涙が出そうになる。
「冬華……お前、何言ってんだよ」
酔っていても、陽太の声が真剣なのが分かった。
「そんなに自分を卑下するな……そんな言い方するなよ」
「……だって……私……」
「だいたい……冬華が特別じゃなかったら、俺は今、ここにいないっつーの」
「……ほえ?」
「どうでも良い奴のために、この雨の中を、傘もなしに追いかけたりしないって。ダンプの水しぶきに突っ込んだりするか? ……そんなの全部、冬華のためだから……だろ?」
陽太の声はいつになく、力強かった。
言葉のどこにも嘘がない。ひとつひとつの単語から誠意が伝わってくるみたいだった。
「……陽太」
「だからさ……もうそういうこと言うのやめろよ。自分のこと『その他大勢』とか『主人公じゃない』とかさ。だって……俺は……お前のこと」
陽太が、何かを言いかけて……止まった。
「……俺が、嫌な気持ちになるだろ?」
陽太がその先の言葉を、飲み込んだのがなんとなく分かった。
本当はもっと別のことを言おうとしたんじゃないかな。
でも、私の意識は朦朧としていて、彼の言いたいこと全てを理解することは出来なかった。
それでも陽太の気持ちが伝わってきた。
――声が。言葉が。
意味はわからなくても、その全てが嬉しかった。
「……ごめんね陽太。なんかふわふわしちゃて……よく分からなくて。私、酔っ払っちゃったのかも……」
「ああ、そうみたいだな。でもお前の気持ちは分かったよ。……俺も、冬華が酔っ払ってない時にちゃんと言うからさ」
「…………うん。そうだね」
私は小さく頷いて、ゆっくりと目を閉じた。
……なんだろう。とてもあったかい。
いつもの私の部屋なのに、すぐ隣に陽太がいるというだけで、心が温かかった。
◆
冬華が、俺の隣でうとうとし始めた。
テーブルに突っ伏していたのが疲れたのか、横になって目をつぶっている。
……寝たのか?
と思っていると、スースーと規則正しい寝息が聞こえてきた。
どうやら、本当に寝てしまったらしい。
うちの父さんなんて、ビール5本飲んでも楽しそうに笑ってるのに。
たった一口飲んだだけでダウンするって……冬華ってめちゃくちゃ酒に弱いんだな。
「ははっ」
意外な弱点を見つけて、少しだけ笑ってしまった。
だけど、さっきの冬華の言葉が、頭の中でグルグルと回っている。
『……でも私、とっても怖いの』
『私ってさ、いわゆるその他大勢でしょ』
『主人公じゃないから』
あの冬華が言うセリフとは思えなかった。
いつも凛としていて。俺の知らないことを何でも知っていて。
誰よりも大人っぽくて、完璧に見える冬華が……まさか、そんなことを思っていたなんて。
俺は寝ている冬華の顔をそっと覗き見る。
幸せそうに目をつぶっていて。唇が少しだけ開いていて。
その寝顔は、いつもの冬華からは想像もつかないほどに……無防備だった。
俺の胸の奥で、何かが強く沸き起こってくる。
本当は……今すぐ、伝えたい言葉がある。
でも、寝ている相手に言うのは卑怯だ。
酔っている相手に言うのも、やっぱり違うと思う。
伝えるなら。
冬華がちゃんと起きている時に。正面から言いたい。
正々堂々と、ちゃんと。
「……冬華」
俺は小さく呟いた。
言ったところで、彼女には聞こえていないのはわかってる。
「……明日の放課後。ちゃんと、俺の気持ちを伝えるから」
何を伝えるのか。
それは、もう自分でも分かっている。
その時、冬華の頭が俺の足にもたれてきた。
突然のことに驚いたけど、俺は動かなかった。
冬華を起こさないように、そのままで。
窓の外を見ると、雨がようやく止みかけていた。




