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(冬華視点)
ゲームの中盤、突然の豪雨で傘を忘れた主人公に、陽太が傘を貸してくれるのだ。
主人公は感激し、2人の距離が縮まっていくキッカケになるイベント。
藍沢陽太攻略ルートにおける、最重要フラグの一つ。
忘れるはずがない。
私がゲームで陽太を攻略した時に、何度も何度も繰り返しプレイしてきたイベントだから。
今の状況はそれに構図が似すぎていて、頭から冷水をかけられたように、体が冷えていく。
でも……待って。
でもあのイベントって、9月に起こるはずだよね。
落ち着いて私。今はまだ5月でしょ?
どう考えても『雨の日イベント』が起こる時期じゃない。
「藍沢くん、優しいね~! じゃあお言葉に甘えちゃおうかな!」
姫川さんが、パァっと笑顔になって陽太の傘を受け取る。
その笑顔は、太陽みたいに無邪気で眩しいのに。私には恐ろしいものにしか見えない。
……主人公補正。
その力のせいで、私がどれだけ努力しても、主人公である姫川には絶対に勝てなかった。
どれだけループしても、何度も、何度も負け続けた。
でも、今の私の好感度なら――
「おや?」
聞き覚えのある、涼やかな声。
振り返ると、廊下の角から神楽坂神楽が顔を覗かせていた。
隣のクラスにいる、姫川の友達だ。
狐みたいな弧を描いた目。貼り付けたような微笑み。冗談みたいな名前の女子生徒。
神楽坂はゲームでは友人として登場しない、この世界オリジナルの存在。
「おやおや姫川さん。藍沢くんと一緒に帰るんですか? 仲良しですね~」
――たった、それだけの言葉だった。
悪意があるようには聞こえない。
ただの軽い冷やかし。友達同士のじゃれ合いにしか聞こえない。
「神楽ちゃん? え、えっと、ちが……これは傘を貸してもらっただけで……」
「おや、姫川さん。照れなくていいですよ~。藍沢くんも嬉しそうですし。どうぞ一緒に帰ってください」
神楽坂の言葉が、私の脳内でエコーが掛かったように再生され続ける。
――嬉しそう。一緒に帰る。
陽太は……姫川と一緒に帰るのが嬉しいってこと?
そんなはず――
あれはただの優しさ。陽太は誰にでもああいうことをする。
……でも。
私も陽太の「優しさ」に惹かれて推すようになって。気づいた時には、陽太のことを好きになっていて。
もしかしたら姫川も?
頭の中で、過去のループが走馬灯のように駆け巡る。
傘を貸す陽太。笑顔の姫川。
2人で歩く帰り道。段々と近づく2人の距離。
そして、12月。どれだけ私が努力しても姫川に陽太に奪われる。
……同じだ。何も変わっていない。
私はまた、このイベントで負けるんだ。
鞄を握りしめる手が白くなるほど、力が入っていた。
目の奥が熱くなって、何かが零れそうになる。
――泣くな、私。
今までどれだけ負けてもないたことなんてなかったのに。
なぜ今回だけ、泣きそうになるの。
「私……先に帰るね」
なるべく平静を装って席から立ち上がった。
「あれ、上原さん?」
姫川さんがこっちに振り返る。
「ちょっと……用事を思い出しちゃって」
嘘だ。用事なんてない。
ただ、これ以上。この2人を見ていたら……何かが壊れてしまいそうだから。
「冬華? おい、待ってくれ――」
陽太の声が聞こえた。
追いかけてくるような気配があった。
だけど、私は振り返らずに歩く。
傘を開いて、雨の中に飛び出す。
雨で冷やされた空気が、熱くなった頭を冷やしてくれる。
……バカみたい。
モブがどれだけ頑張ったって無駄なんだ。
何度繰り返しても、それは変わらない。
私は……この世界の主人公には、なれない。
◆
突然、冬華が教室を出ていった。
「上原さん、行っちゃったね……」
「…………」
冬華は「用事を思い出した」と言ったけれど、あの顔は違うだろ。
無理に作ったような笑顔だった。俺には何かを必死に堪えているように見えた。
――嫌な予感しかしない。
「藍沢くん……?」
「姫川さん。とりあえずこの傘は姫川さんが使ってくれ。俺、もう行かないと」
「え? でも藍沢くん、傘ないよね……」
「大丈夫。もう1本あるから」
「そっか……」
嘘だ。全然大丈夫じゃない。
1本しかない傘を姫川さんに貸したから、俺の手元にはもう傘はない。
でも、そんなことはどうでもいい。
冬華の「先に帰るね」と言うあの時の声が、頭の中でリフレインして離れない。
冬華の声は微妙にだけど震えていた。絶対に何かある。
校舎を急いで飛び出すと、制服が一瞬でずぶ濡れになるほどの雨だった。
全身に雨粒が叩きつけてくる。
前が霞むほどの豪雨だけど、構わずに走った。
校門を抜け、いつもの帰り道を全力で駆ける。
髪から水が垂れてきて、目に入って視界がぼやける。
シャツが体に張り付いて気持ち悪い。
靴の中がぐちゃぐちゃになって、走るたびに嫌な感じがする。
それでも俺は全力で走った。
そして――
……いた。
「冬華!」
街路樹が並ぶ道を、冬華が一人で傘を差して歩いている。
その背中にはいつのも凛とした感じがない。力なく前に進んでいるような……そんな歩き方。
「待ってくれ! 冬華っ!!」
俺はもう一度叫んだ。
この雨音に負けない、精一杯の声で。
冬華の足が止まり、ゆっくりと振り返った。
傘の下の冬華の顔を見て、俺は自分の判断が正しかったと確信した。
怒っているわけでも、泣いているわけでもない。
だけど……その目は何かを諦めかけている、絶望に満ちたような目だった。
「……陽太? なんでここに……? 傘もささないで……」
「はぁ……はぁ……なんでって……何だよ」
走ったせいで息が切れて、呼吸が苦しい。
「姫川さんと……帰るんじゃなかったの?」
「違うっ!」
「…………」
「そんなわけ……そんなわけ……ないだろ」
冬華は、唇を噛みしめる。
「……なんで、追いかけてきたの」
「なんで……って……それは……」
そう言われると答えに困る。
――なぜだろう。
姫川さんに傘を貸しただけで、なんで冬華がこんなになってしまったのか。
俺にはよくわからない。
「冬華が……心配だったからだ。気のせいかもしれないけど……辛そうな顔してただろ」
そうだ。冬華に辛そうな顔をさせたのは、俺のせいだから。




